357 首の皮一枚
5回裏の守備。アメリカ代表の攻撃は4番バッターのバンビーノ選手から。
初対戦となった2回の打席では山崎選手のファインプレイに助けられていなければホームランという当たりを打たれているだけに、慎重に行かなければならない。
正直、千手観音投法はここで解禁としたかったところではあったが……。
今更そんなことを考えていても仕方のないことだ。
とにかく今はこの瞬間、この勝負に集中しなければならない。
あーちゃんとサイン交換をした振りをして、それから初球の投球動作に入る。
千手観音投法で、まずはスリークォーターからパワーカーブを投じる。
――パァンッ!
「ストライクワンッ!」
リリースポイントとしては斜め上の辺り。
インコースを起点にしてバッターから逃げていくように大きく変化していった球は、アウトコース低めいっぱいに決まって1ストライク。
対するバンビーノ選手は、軌道を見極めるようにジッとそれを見据えていた。
そして小さく頷いてから構えを解き、俺に視線を向ける。
幸先よくファーストストライクを奪うことができたものの、彼の目は爛々と輝いていて、その口元には笑みまで浮かんでいる。
まるで楽しくて仕方がないとでも言うように。
圧倒的強者の余裕……いや、野球狂いの狂喜とでも表現した方がよさそうだ。
彼にその気がなくとも恐ろしい程の威圧感が放たれている。
このような圧力に晒されては、そもそも生半可なピッチャーは己の力を十全に発揮することすらできずに自滅してしまうに違いない。
「ふぅうう……」
そんな相手の雰囲気に呑まれてはならない。
あーちゃんから返ってきたボールを手の中でよく揉み解すようにしながら、深く長く息を吐き出すことによって気持ちを整え直す。
もっとも普段のテンポを崩されている時点で既に普段通りとは行かないが……。
それでも可能な限り早く、再び投球動作に入る。
カウントはノーボール1ストライク。
バンビーノ選手に対する2球目。
今度はリリースポイントをやや高めにしたアンダースローに切り替える。
ややサイドスロー寄りのフォームから投じるのはフォーシーム。
コースはインハイ。
――パァンッ!!!
「ボールッ!」
170km/hの直球はストライクゾーンから外れて胸元ギリギリを突く。
ここまで厳しいコースに投げたのは今生で初めてと言っても過言ではない。
左バッターに対して左投げ。
その上でプレートの左端からほぼサイドスロー。
手は限界まで伸ばして角度をつけている。
並のバッターならぶつけられると勘違いし、間違いなく大きく仰け反るだろう。
逆にやろうと思えば当たりに行けるし、そうしたところで余程演技が下手な選手でもなければデッドボールとして認められるだろう。
うまくエルボーガード辺りに当てないと怪我をしかねないが。
ともあれ、バンビーノ選手の行動はそのいずれでもなかった。
彼は微動だにせずボールを見送った。
まるで「当たる軌道じゃないだろう?」と問いかけてくるかのように。
インコースを意識させたい俺の意図を見透かしているようだ。
あたかも1/95を無駄に消費してしまったかのような気分になる。
勿論、相手は世界最高の野球選手だ。
そもそも球数を節約しようなんて思考は欲張りにも程があるだろう。
無駄球が出るのは当然のことだ。
そもそも、彼らにとってこうした軌道の球は未経験ではない。
左のサイドハンドと言えば、アメリカ代表にもジャイアント選手がいる。
今日このWBW決勝戦においてほぼ確実に2番手ピッチャーとして登板してくる彼は最高球速175km/hを誇り、単純に体格も優れている。
俺よりも手足が長い。
つまるところ更にキツい角度から、より速い球を投じてくる訳だ。
そんなジャイアント選手とレギュラーシーズンで何度も対戦しているアメリカ代表打線からすれば、俺のサイドスローは劣化版以外の何ものでもないだろう。
とは言え、それは前々から分かり切っていることだし、俺は別に純粋なサイドスローのピッチャーという訳ではない。
己のスタイルを確立している大投手達との差を埋めるための千手観音投法だ。
バンビーノ選手への3球目。
2球目とは対照的に、プレートの右端に移動する。
フォームはオーバースロー。球種はシュート。
狙うは再び彼の胸元。
真ん中高めからインハイに向かって剃刀で切り裂くように変化する球だった。
「ボールッ!!」
2ボール1ストライク。
カウントの上ではボールが先行する形となってしまった。
しかし、バンビーノ選手は2球目とは違ってスイングしかけていた。
それを咄嗟にとめていた。
僅かに仰け反るような素振りも見せていた。
同じボール球だが、先程の1球とはまた意味合いが異なる結果だ。
似たような位置に2球続けたからこそ違いが生まれた訳だ。
それを頼みに4球目は再びプレートの左端に立つ。
フォームは完全なるサイドスロー。
球種はスイーパー。
インコースから大きく変化してアウトコース高めいっぱいに決まった。
「ストライクツーッ!!」
バンビーノ選手はこれも見送って2ボール2ストライク。
平行カウント。
2つのボールを利用してようやく追い込むことができた。
この段階に漕ぎ着けるだけで一苦労だ。
そして5球目。
アンダースローの限りなく低いリリースポイントから投じたのは、第1打席の時よりも変化を少し抑えたライズボール。
膝元に入ってくる軌道。
見逃せばストライクだが……。
──カキンッ!
バンビーノ選手は巧みにそれに合わせた。
鋭い打球は俺の真上を通過していく。
グローブで遮ろうとするも既に遅く、二遊間も越えてセンター前に……。
と思ったが、振り返って認識違いを知る。
ダウンスイング気味に芯で捉えた打球は緩いバックスピンで想定以上に伸びた。
センターの山崎選手が一瞬前に出かけてから後ろに下がる。
――バカンッ!
打球はフェンス直撃。
クッションボールを処理する間に、バンビーノ選手は1塁を回って2塁へ。
ボールがショートの磐城君に戻ってきた時には、彼は2塁に到達していた。
アメリカ代表のこの試合初ヒットは長打。2ベースヒット。
ノーアウトから同点のランナーが出てしまった。
冷や汗が流れる。
もし前の打席と同程度に変化するライズボールを投げていたら。
確実にスタンドに運ばれていただろう。
首の皮一枚繋がった心持ちだ。
5球も使った挙句に2ベースヒット。
バンビーノ選手相手なら許容範囲内。
そう思っておくしかない。
右のバッターボックスに5番のハンマー選手が入る。
同点のチャンスに気合が一層入っている。
追いかける展開。一打同点。
大リーグのレギュラーシーズンならともかくとして、WBW決勝戦という大舞台においては少なくとも彼らにとって初めてのシチュエーションだ。
野球を存分に楽しまんとしている者が燃えないはずがない。
深く息を吐き出す。
一旦バンビーノ選手の打席のことは忘れる。
両投げ用グローブを左手につけ直し、セットポジションに入る。
……盗塁も、可能性としてはあり得るだろう。
しかし、そちらに意識を割いて抑えられる程、アメリカ代表打線は甘くない。
盗塁阻止を考えてファストボール系を選べば打たれるだろう。
それでも念のために1回牽制を入れてから。
オーバースローのクイックモーションで初球を投じる。
コースは内角低め。球種は縦のスライダー。
――ブォンッ!!
パァンッ!!
ハンマー選手のバットは空を切る。
あーちゃんがキャッチングと同時にスローイングの体勢に入った。
どうやらバンビーノ選手が3盗を試みたようだ。
一応想定はしていたが、驚きもなくはない。
「セーフッ!!」
あーちゃんの送球動作は完璧だった。
落ちる変化球だったとはとても思えないぐらいだ。
【体格補正】の関係で送球の速度は俺に及ばないにせよ、これ以上ポップタイムを上げようとすると俺と昇二や正樹の組み合わせで行くしかないだろう。
こればかりはどうしようもない。
場面は変わってノーアウト3塁。
1点で済めば御の字という状況になってしまった。
とは言え、さすがのバンビーノ選手もホームスチールはないはずだ。
俺がロシア代表戦でやったように視界の中で動いて揺さ振ろうとしてくる可能性もなくはないが、バッターオンリーでいい。
ハンマー選手への2球目。
スリークォーターからの高速シンカー。
アウトコース低め。
ボールゾーンからストライクゾーンに入ってくる変化球。
「ストライクツーッ!」
ハンマー選手は見送った。
「よし」
いずれにしても追い込んだ。
千手観音投法に慣れさせないように、ここは遊び球なしだ。
3球目。
アンダースローからインハイに最大変化のライズボールを投じる。
対するハンマー選手はダウンスイングで迎え撃った。
――カッ!!
パァンッ!!!
ハンマー選手のフルスイングはボールの下。
バットを掠めたボールは僅かに軌道を変えながら真後ろに飛んだが、当たり前のようにあーちゃんが掴み取っていた。
ファウルチップで3ストライク。
空振り三振。アウト。
彼女がうまく【直感】を働かせ、直前で跳ね上がったボールに対応してくれた。
紙一重だった。
これもまた1mmでもズレていたら別の結果となっていただろう。
それでも現状は1アウトランナー3塁に変わった。
打席には6番のオリオール選手が入る。
右バッターなので右投げを継続。
初球はプレート右端からサイドスローのフォーシーム。
アウトコースに外れる見せ球。
「ボールッ!」
オリオール選手は静かに見送って1ボールノーストライク。
2球目。オーバースローからスプリット。
アウトコース低めからボールゾーンに落ちる球。
「ボールッ!」
バットが出かかったものの、見極められて2ボールノーストライク。
ボールが続いたことでほんの僅かに打ち気が見えた、ような気がした。
そして3球目。インコースへのチェンジアップ。
――カキンッ!!
……パァンッ!!
フルスイングで引っ張った打球はサードの少し右へのライナー。
運がよかった。
いや、ここは捕った昇二を褒めるべきだろう。
恐ろしい速度の打球に飛びついて捕球した昇二の足は、うまいこと3塁ベースの上に乗っかっていた。
さすがのバンビーノ選手もその状況では帰塁することができず、ダブルプレー。
3アウトチェンジ。
長打を打たれながらも5回の裏も3人で終了した。
ノーアウトランナー3塁という1失点必至の状況から無失点だった。
もっとも俺に抑えたという感覚は一切なく……。
どうにか難を逃れることができたとしか言いようのない状態だった。




