355 今の俺には至れない境地
「黒井選手、素晴らしい粘りでした!」
「お、おう」
思わず興奮して称賛の声が大きくなってしまった俺に対し、ベンチに戻ってきた黒井選手は少し照れたように頭をかきながら応じた。
「つっても、結局三振しちまったしなあ……」
「そんなことないですよ! 間違いなく意味のあるアウトです!」
確かに単純な打席結果としては三振という記録になってしまうのは事実だ。
しかし、それはあのサイクロン選手相手に粘って16球も投げさせた上での話。
何なら生半可なヒットよりも価値があるぐらいだろう。
リアルタイムで見た者は勿論のこと、後世の人間にしてもスコアブックをしっかりと読み解けばその凄さは伝わるはずだ。
「それにしても、黒井。一体全体どうしたんだ? もしかして、サイクロン選手を攻略する糸口でも見つけたのか?」
「あー……いや、そういう訳じゃねえよ」
「だったら、どうやって。運でどうにかなるような相手じゃないだろ?」
「それはそうなんだろうけどな。正直、俺にもよく分からん」
興味深げな白露選手の問いにどこかきまりが悪そうにそう返すと、黒井選手はどうにか言語化しようとしてか難しい顔で頭を捻った。
それから少しして、諦めたように再び口を開く。
「来た球を来たままに打つ。そう心がけはしたものの、もう1度同じようにやれって言われても多分無理だ。ハッキリ言って再現性がねえ」
「……来た球を来たままに打つ、か。言うは易しの筆頭だな」
「ああ。俺だって具体的な説明ができるならしてえよ。他ならぬ俺自身のために」
このことに関してはこの世の誰よりも歯がゆさを感じているのは俺だと言わんばかりに、深々と眉間にしわを寄せる黒井選手。
「3球目から15球目まで何も覚えてねえんだ。あれは完全に無意識だった」
「マジかよ」
「マジだ。……ただ、微妙に感覚だけは残ってんだよ。それがもどかしくてな」
1度経験したことだけに体はある程度記憶している。
その一方で、余りにも感覚的なもの過ぎて言葉にすることができない。
喉まで出かかっているのに思い出せない。
そんな心持ちだろうか。
それはともかくとして。
黒井選手が至ったのは恐らく、超集中状態とはまた少し違ったものなのだろう。
忘我の境地に踏み入れて無意識的、本能的に体が反応した。
言わば無我夢中の状態。
少なくとも今の俺には決して辿り着けない領域だ。
恐らく【離見の見】を利用した超集中状態の延長線上にはない。
あるいは天然の超集中状態であれば、更に意識を研ぎ澄ますことによって到達することができるのかもしれないが……。
いずれにしても、俺には意図的にそこに足を踏み入れる術は考えつかない。
意図的に作り出せる状態なのかどうかも分からない。
「うまく開き直れたから今回は辿り着けたんだろうが、次からはむしろ1度辿り着いた事実が邪魔しかねねえ。囚われたら100%その境地には至れねえだろうな」
経験してしまったら最後、もう経験していない状態には戻ることはできない。
純粋無垢なままではいられない。
再現しようにも既に前提となっている状態が異なっている。
単純に同じようにすれば再現できるというものではないだろう。
まして、あれやこれやに囚われている俺のような人間には尚のこと無理な話だ。
「…………もう少しバッティングがうまけりゃ打てたのかね」
ポツリと、どこか悔やむように呟く黒井選手。
最後の見逃しは魔法が解けてしまったかのように中途半端なものだった。
正にあの1球の直前に、無我夢中の状態から醒めてしまったのだろう。
しかし、それまで10球程度チャンスがあったのも事実ではある。
俺達よりもハイレベルな集中を以ってしてもヒットを打つことができなかったのは、偏にスキル不足のせいだろう。
……いや、この言い方は語弊があり過ぎるな。
技術不足という意味ではなく、あくまでも取得スキル数の問題だ。
一応断っておくと、黒井選手も【成長タイプ:マニュアル】ではない選手の中ではそれなりの数のスキルを保有している。
だが、さすがにサイクロン選手に挑もうというのであれば心許ない。
そのせいで打球が前に飛ばなかったのもあるだろう。
もし黒井選手がもう少しバッティングに寄与するスキルを持っていれば、あるいはヒットを打つところまで行くことができたかもしれない。
もっとも。
その場合は16球も球数を消費させることなどできなかったはずだ。
これはむしろ、現状の彼とうまいこと嚙み合った最良の結果と言っていい。
誇ってもいいぐらいだが、それで満足するようではこの先の成長はない。
黒井選手はある意味そう自覚しているのかもしれない。
「…………何か、茜も粘ろうとしてるみたいね」
美海ちゃんの言葉にグランドに意識を向ける。
9番の黒井選手が見逃し三振に倒れて2アウトランナーなしの状況。
打順は1番に戻り、あーちゃんが2巡目の打席に立っている。
既に1球目、2球目は見逃しのストライク。
3球目は見逃しのボール。
ここまであーちゃんはスイングをしていなかった。
打つ気が一切見られなかった。
どうやら俺の意識が黒井選手に向いていることが【以心伝心】で伝わり、待球した上で彼と同じようにカット戦法を行おうとしているようだ。
2アウトランナーなしという場面だったのもあるだろう。
カット戦法はオランダ代表戦でも実践していたし、不慣れな戦術ではない。
あーちゃんの【生得スキル】【直感】との相性も悪くない。
そしてカウント1ボール2ストライクからの4球目。
――カンッ!
彼女はこの打席、ようやくバットを振った。
うまいこと振り遅れた打球は1塁線切れてファウル。
それを見てアメリカ代表バッテリーも彼女の狙いに確信を抱いたようだ。
「ボールッ!」
そのタイミングで彼らは1球ボールを挟んだ。
2ボール2ストライク。
続く6球目。
唐突に甘い球が来た。
あーちゃんは一瞬目を見開き、驚きと迷いを見せたが……。
即座に絶好球を逃す訳にはいかないと判断したようでフルスイングした。
――カキンッ!!
芯で捉えた打球は、若干引っ張り気味の鋭いライナー性の当たり。
センターやや左へと低い弾道で飛んでいく。
抜ければ長打となるだろう。
しかし、センターのキッド・ラビリンス選手が一直線に落下地点へと駆ける。
そして、その勢いそのままに横っ飛びして限界までグローブを伸ばし――。
パシッ!!
「「「「「「「「WOOOOOOO!!!」」」」」」」」
「「「ああ……」」」
その一瞬しかないというタイミングでダイビングキャッチに成功し、それによってあーちゃんの出塁は阻まれてしまった。
アメリカ代表選手が見せつけたスーパープレイに観客の大部分を占めるアメリカ人から割れんばかりの歓声が沸き上がり、日本代表団の声をかき消す。
まるでバンクノート・パークが揺れているような錯覚に陥る。
キッド選手はサイクロン選手に向かってボールを掴んだグローブを掲げ、対するサイクロン選手はマウンドの上からグローブ越しに拍手をした。
そんな2人のやり取りは電光掲示板に映し出され、球場が一層盛り上がる。
一方で1塁ベース付近まで行っていたあーちゃんは、その様子を一瞥してから珍しいぐらいに顔を歪めながらベンチに戻ってきた。
3アウトチェンジ。
時間は長かったが、この回も何だかんだ3者凡退だった。
「悔しい」
開口一番、端的に告げるあーちゃん。
マイペースな彼女がそんなことを口にするぐらいだ。
この1球は心底悔やまれるものとなったのだろう。
「まあ、こればかりはキッド選手の守備を褒めるしかないっすよ」
「違う」
ネクストバッターズサークルから戻ってきてフォローした倉本さんに、あーちゃんはプロテクターを身に着けながら首を横に振って否定した。
「わたしが欲をかいたせい。少しでも早く、しゅー君を楽にしたくて」
「……そうね。この場はアメリカ代表バッテリーが一枚上手だったわ」
同意して言葉を続けた美海ちゃんには倉本さんも異を唱えない。
慰めようとはしていたが、倉本さんも美海ちゃんと同じ考えだったのだろう。
確かにキッド選手の好守はスーパープレイだった。
だが、それを導いたのはサイクロン選手とジェネラル選手だ。
相手のカット戦法を即座に見抜き、わざと甘い球を投げて釣ろうとした。
あーちゃんは【直感】を持つが故に、彼らの思惑に諸に嵌まってしまった。
カットをそれでも継続するか、打ちに行くか一瞬迷ってしまった。
彼女は即座に後者を選択したが、無駄な力が入ってスイングにズレが生じた。
そのせいで打球が上がらなかった。
もっと角度がついていれば。あるいは逆に少し詰まっていたら。
ヒットに、長打になっていたかもしれない。
しかし、打球は無情にもキッド選手の守備範囲に行ってしまった。
結果はセンターライナー。
稼いだ球数は、粘ろうと意気込んでいた割には中途半端な6球。
2打席目の勝負はアメリカ代表バッテリーの勝ち。
あるいは、あーちゃんが自分の迷いに負けた。そんな感じの打席だった。
「――まあ、欲張ると碌なことにはならんわな」
そんなやり取りの傍ら、黒井選手がしみじみと言う。
それこそが無我夢中の状態と【直感】の差と言うことができるだろう。
【直感】で得た情報はあくまでも判断材料。
実際に受けとめ、どう行動するか決定を下すのは自分自身。
だからこそ、場合によっては惑わされてしまうこともある。
それでも尚、あそこまで鋭い当たりになったのはそれこそ【直感】のおかげでもあるが、このスキルの注意すべき部分を改めて突きつけられた思いだった。
「……無欲に目の前の1球に集中して夢中になること。つまり、その瞬間瞬間を余すことなく楽しむこと。それが何よりも大事なのかもしれねえな」
黒井選手はそう独り言のような呟きを残すと、グローブ片手に1塁ベンチを出て自身の守備位置へと駆けていく。
「楽しむ、か」
俺はまたぞろ出てきたその言葉を口の中で繰り返しながら、あーちゃんがキャッチャー用のレガースをつけるのを手伝い……。
彼女と共に3回裏の守備へと向かったのだった。




