352 最初で最後の隙と幸先のよし悪し
何度も繰り返すが、アメリカ代表はまさしく世界最強の存在だ。
相手チームに対して、何よりも野球そのものに対してどれだけ真摯でいようとしていても、自制して謙虚であろうとしていても、その事実が変わることはない。
彼ら自身もまた自分が平均的な大リーガーすら凌駕した存在である自覚を持ち合わせており、それ故にその認識の影響がゼロにはなるということは決してない。
アメリカ代表選手同士の勝負は子供のように純粋に楽しんでいる一方で、WBWの試合では徐々に虚しさや寂しさが見え隠れし始めるのは最たるものだ。
そうした影響は実際のプレイにも極々僅かながら見て取れる。
にもかかわらず、どうして他国がそこを突かないかと言えば。
弱点と呼ぶには余りにも些細なもの過ぎて気づいていないというのがまず1つ。
後は、気づいたところでどうにかなるようなレベルの相手ではないことだ。
大きさもさることながら、数も少な過ぎてどうしようもないというのもある。
だとしても、そこを取りこぼすようでは日本代表の勝利はあり得ない。
そして、こちらの攻撃において初回は半ば最初で最後の機会だった。
「茜、頑張って!」
有言実行。1塁側ベンチから美海ちゃんが声を張り上げる。
たとえ試合に出ることができずとも、最後まで仲間として共に戦い抜くために。
彼女は松葉杖を片手に怪我をしてしまった片足を浮かせながら、もう一方の手をベンチの柵にかけて身を乗り出すようにして声援を送っていた。
明日喉が潰れてもいいとも言っていた美海ちゃんの視線の先、右のバッターボックスには日本代表の先頭打者であるあーちゃんが入っている。
WBW決勝戦は球審のプレイがかかり、今正に試合が始まったところだ。
1回の表。日本代表の攻撃。
マウンドに上がったアメリカ代表の先発ピッチャー、サイクロン選手はサイン交換を終えてWBW決勝戦の第1球目を投じようとしている。
「……あーちゃん、初球だぞ」
事前に重ねて彼女に言い聞かせたことを小さく口の中で呟く。
サイクロン選手に限ったことではなく、アメリカ代表の先発ピッチャーは総じて初回に対峙したバッター達へと投じた初球にとある偏りがあった。
勿論、相手を見下して手を抜いて投げている訳ではない。
過去の戦績を振り返ってみても、当代のアメリカ代表チームがWBWにおいて初回に失点した記録なんて一切ないし……。
ランナーが得点圏に進んだ時にギアチェンジするのはまた別の話として、球質そのものは試合を通して大きく変動していないのだから。
数十点の差がついて省エネモードに入ってしまった試合であっても、それはチーム全体のことであって個々のピッチャーは決して手を緩めたりはしない。
アメリカ代表が過去WBWで失点したケースはと言えば、明らかに経験が少なく比較的実力が劣る若手ピッチャーが崩れたか、野手が登板したことによるものだ。
野手にしたって己のベストは尽くしている。
まあ、それはそれとして。
いくら初回の立ち上がりとは言っても、数字の上ではとても狙い目には見えないのは確かだった。しかし……。
――カキンッ!
あーちゃんは指示通り初球、ファーストストライクを打ち返していた。
球速175km/h。唸りを上げるようなフォーシームだった。
内角低めいっぱいに来たそれを前にして、彼女は迷わずバットを振り抜いた。
打球は3塁のマイケル・フィリー選手の頭上を越え、フェアグラウンドに落下。
そこからファウルラインを跨ぐようにバウンドしていく。
その間にあーちゃんは迷わずに1塁ベースを蹴って2塁へと向かっていた。
少し遅れてレフトのセオドア・サンパー選手がボールを捕って中継に送球する。
「セーフ!」
【直感】で無理はできないと判断したようで、あーちゃんは2塁でストップ。
日本代表は初回から先頭バッターが初球打ちで2ベースヒット。
ノーアウトランナー2塁。
いきなり得点圏にランナーが進んだ。
8割以上アメリカ人で埋め尽くされたスタンドからどよめきが起こる。
試合開始早々そんな状況に陥ったこと自体、過去ほぼほぼなかったからだろう。
一方の日本代表応援団は初回から訪れたチャンスに大きな歓声を上げた。
先制点への期待と危機感に球場が一気に沸き上がる。
「未来! ここよ!!」
美海ちゃんもまた、ネクストバッターズサークルからバッターボックスに向かおうとしている倉本さんに向かって叫んだ。
試合が始まって僅か2人目のバッターに対し、過剰なぐらいに強い声で。
だが、美海ちゃんの反応は何らおかしいものではない。
何故なら、この打席は既にWBW決勝戦の趨勢を占うターニングポイントと言っても何ら過言ではない場面だからだ。
右の打席に立った倉本さんにも、あーちゃんと同じく初球打ちを伝えてある。
立ち上がり、とりあえずファーストストライクが欲しいのは一般的な感覚だ。
勿論、制球力に絶対の自信のあるピッチャーはそこまで頓着しない。
アメリカ代表投手陣も、一応俺達も、後者側の存在と言うことができる。
ただ、球数の観点からも可能な限りストライクを先行したいのは事実だし、相手との戦力差が大きければ大きい程そう考えるは当然のことだ。
ここに彼らも恐らく無意識の、自覚のない僅かな、本当に僅かな侮りがある。
アメリカ代表のピッチャーは全員、初回の各バッターに対する初球のみ2回以降に比べて明確にストライク率が高くなっている。
と言うか、ほぼ100%だ。
一方で、1球目を振ったバッターへの2球目はボールの確率が高くなる。
あたかも相手の選球眼を試そうとしているかのように。
だから、とにかく初回は初球から振りに行くこと。
落山監督にデータを提示してチーム全体でそれを共有した上で、2人には狙っていくように指示を出したのだった。
「倉本さん、あーちゃん、頼むぞ」
懸命に声を出している美海ちゃんの隣で祈るように呟く。
初球打ちはストライク率だけが理由ではない。
サイクロン選手は後になればなる程、攻略が難しくなるだろうからだ。
普通なら2打席、3打席と対戦を重ねていけば相手の球にもいくらか慣れる。
しかし、彼の最大の武器は最低でも6段階の多段変化を誇るカーブ。
その威力は対戦を重ねてこそ牙を剥いてくる。
頭に残像が残れば【直感】と【軌道解析】も機能しにくくなる恐れもある。
だからこその初球打ち。
まだまっさらな状態の内に捉える。
それが可能なのは正に初回以外にない。
その倉本さんに対する初球。
サイクロン選手がセットポジションから投球動作に移行した次の瞬間。
「行け、茜!」
美海ちゃんの言葉を合図とするように、あーちゃんが走った。
それを見たキャッチャーのジェネラル・ビッグレッド選手が送球体勢に入る。
だが――。
――カン!!
倉本さんは初球打ちの指示通り、ボールにバットを当てた。
ヒットエンドラン。
大きな変化のカーブにうまく合わせた打球は逆方向へのハーフライナー。
ライトのバンビーノ選手が突っ込んでくる。
それでも、あーちゃんは足をとめない。
【直感】に従って加速し、3塁ベースを回ってホームベースに突っ込んだ。
打球の落下点は1塁ベースの後方。ファウルライン上。
咄嗟にファーストのビスケット選手が飛びつくがグローブは届かず。
ボールは回転の影響を受け、ライトのファウルゾーンへと転がっていく。
あーちゃんは左へ。倉本さんは右へ。
そこしかないようなポイントに打球を飛ばしていた。
これも打球の方向としては長打コース。
しかし、ライトのバンビーノ選手が素早く回り込んで捕球していた。
かと思えば、やや半端な体勢から矢のような送球を繰り出す。
エンドランと不十分な捕球体勢からのバックホームという不利があって尚、ホームのクロスプレーは傍から見ても判断がつかないギリギリのタイミングとなる。
セーフかアウトか。
球場全体が固唾を呑んで球審のジャッジを見守る。
「セーフッ!!」
左右に手を大きく広げたジェスチャーに日本代表応援団から大きな歓声が沸く。
一方でスタンドのアメリカ人からはリプレイ検証を要求する声が上がった。
実際、それを求めてもおかしくないシビアなタイミングだったが――。
「チャレンジしないの……?」
美海ちゃんが少し驚いたような声を出す。
ベンチから立ち上がったアメリカ代表のトーマス監督に対して、キャッチャーのジェネラル選手がジェスチャーで制止してリプレイ検証は実施されなかった。
チーム毎にそれが許される回数は限られている。
成功すれば回数は維持されるが、失敗すれば回数は減る。
試合開始早々に失敗するのは避けたい。
当事者として失敗が目に見えた要求はさせられない。
ジェネラル選手の考えとしては、そんなところだろうか。
実際、電光掲示板に映し出されたリプレイではタッチができていなかった。
バンビーノ選手のバックホームは恐ろしく速く、そして正確無比だった。
だが、余りにも正確過ぎたことが仇となったようだ。
3塁寄りのホームベースの端へのストライク送球。
対して、あーちゃんは瞬間的に体を捻ってキャッチャーミットを回避した。
そして指先でベースに触れてホームイン。
見事本塁を陥れることに成功していた。
「さすがあーちゃんだ」
「ん。作戦通り」
ベンチ前で出迎える選手達とおざなりなハイタッチを交わし、それから足早に俺のところに来ていたあーちゃんを軽く抱き締めて祝福する。
初球打ち。初球エンドラン。
それらは正に初回で1点をもぎ取るための策だった。
先制点は勝率が大幅に上がる。
ジャイアントキリングにおいて必須と言っていい。
それだけに是が非でも欲しかった。
あーちゃんも倉本さんも、本当によくやってくれた。
……と、ここまでは幸先がよかった。
しかし、相手は世界最強たるアメリカ代表。
このままズルズルと行くはずもなく、ノーアウトランナー1塁から3番の山崎選手はカーブを引っかけてダブルプレー。
4番の俺は【離見の見】を利用して超集中状態に入っていたにもかかわらず、あえなくセンターフライに倒れて3アウトチェンジ。
これまで常に八面六臂の活躍を見せていた『日本最強選手野村秀治郎』が簡単に凡退し、結果として1回表の攻撃は痛み分けのような印象で終わったのだった。




