341 それができるんだったら
警告試合を宣告された後、球場は異様な空気に包まれていた。
かなり早い段階から既に日本代表のホームゲームのような雰囲気になり果てていたが、今やロシア代表に対するヘイトが高まり過ぎて殺伐としてしまっている。
日本代表の勝利を求める現地勢の圧が過剰で、かえってデバフになりかねない。
応援の力をマイナス方向で実感してしまいそうなぐらいだった。
一方のロシア代表は完全アウェーを通り越しているような状態。
アチラの応援団もまた針の筵。四面楚歌。
さすがにヤバいと肌で感じているのか、彼らはひたすら息を潜めている。
あの一角を警備している人間も一層警戒を強め、周囲に殺気を振り撒いている。
恐らく日本代表が優勢な内は暴動に至るようなことはないだろうが、球場全体に一触即発の気配が漂っているのは誰の目にも明らかだった。
そんな中であっても、球審がプレイの再開を告げれば試合は進む。
俺の犠牲フライで3塁ランナーがホームインし、スコアは9-6。
場面は1アウトランナーなし。
ロシア代表は危険球によって退場させられてしまったロジオン選手に代わって新たな右腕、フェドセイ選手を急遽マウンドに送っている。
対する日本代表のバッターは打順通り5番の昇二がバッターボックスに入った。
「だ、大丈夫っすかね。昇二君」
「さっきベンチに戻ってきてなかったものね……」
ベビーフェイスをいつになく強張らせている昇二の姿に、つい先程まで怒りに打ち震えていた彼女達も打って変わって固唾を飲んでいる。
警告試合を告げられたタイムの間、彼はネクストバッターズサークルに留まったまま眉間に深くしわを寄せて一連の動きに厳しい視線を送り続けていた。
だから、正樹のように近くで諭すことができなかった。
この打席の結果は、正にその弊害が出た形となった。
とは言っても、あーちゃんのように実力行使に出ようとした訳ではない。
妻と同性の幼馴染では決して越えることのできない隔たりがあるし、何よりも警告試合が出てしまった直後の打席だ。
そういったこともあり、昇二は以前メキシコ代表のエドアルド・ルイス選手とやり合った時のように健全にプレイでやり返そうとした。
しかし、今回は感情を完全には制御し切れず力みが出てしまったようだ。
相手がエドアルド・ルイス選手とは別次元のピッチャーだったのもある。
昇二は初球から打ちに行ったものの、空振りとファウルでカウントが悪化。
2ストライクと追い込まれて超集中状態を維持できなくなってしまい、最後には空振り三振を喫してアウトカウントは2となってしまった。
彼はそれから苦虫を噛み潰したような表情を浮かべて戻ってきたが……。
その途中、ネクストバッターズサークルからバッターボックスへと向かう正樹と擦れ違い、昇二はギョッとしたように兄の顔を見た。
「に、兄さん?」
戸惑い気味に声をかけるが、正樹は無視して打席に向かってしまう。
既にアウトになった昇二は彼を追う訳にもいかず、小走りでこちらに来た。
「昇二、どうした?」
「いや、兄さんが何かヤバい顔してたから」
その返答に慌ててベンチの最前列に行く。
「正樹!!」
俺がそう怒鳴るように呼ぶと、彼は左のバッターボックスからこちらを見た。
その顔を目にして小さく嘆息する。
「……何て顔してんだよ、全く」
ネクストバッターズサークルで待機している間にまた何か余計なことでも考えてしまったのか、先程確かに抑え込んだはずの怒りがぶり返したらしい。
酷いしかめっ面だ。
そんな正樹に向けてハッキリ首を横に振り、改めて制止する。
彼はそれを見てコチラに「はあ」と聞こえてきそうなぐらい深く嘆息し、心底嫌そうな顔で「分かってる」と口を動かした。
態度はともかくとして、俺の声に反応できる冷静さは一応残っていたようだ。
一先ず今は彼の自制心を信じるしかない。
そんなやり取りがあった直後のフェドセイ選手の初球。
正樹は218km/hのフォーシームを見送った。
ただし、今にもフルスイングしそうなぐらい大きくテイクバックを取りながら。
――バチンッ!!
「ストライクワンッ!!」
捕球、そしてコールを経て返球されるまでの間。
正樹は全身の力を振り絞った状態で激情に耐えるように唇を噛んでいた。
それからフェドセイ選手にボールが返ったところでフッと力を抜く。
明日のWBW決勝戦には正樹の力が必要不可欠。
登板に備えて、ピッチングに影響が出るような真似はすべきじゃない。
何度も繰り返したロジックが彼の頭の中を駆け巡っているのだろう。
怪我のリスクと一時の感情。
最終的に正樹はそれらを天秤にかけ……。
――バチンッ!!
「ストライクスリーッ!!」
今より明日を優先する選択をしたようだった。
この打席の結果としては見逃し三振。
3アウトチェンジ。
再び一騒動起きた8回表の日本代表の攻撃はそれで終わりを迎えた。
「悪い、正樹」
「ああ」
……本当に、酷い試合だ。
正樹に謝りながら心の中で呟く。
怪我を厭わないところまでは百歩譲って勝負に懸命だと擁護できるにしても、実際のところロシア代表選手達は消耗品のように扱われているだけ。
あまつさえ、首脳陣は対戦相手を怪我させようとまでしている。
それも含めて怪我のリスクが高過ぎて、こちらも十分な力を発揮できない。
相手に思うようなプレイをさせないことは対人スポーツの1つの醍醐味かもしれないが、それは決してこんな形ではないはずだ。
フラストレーションが溜まり、一瞬「俺が【生得スキル】【怪我しない】を取得したから準決勝でこんな相手と当たったのか?」とこじつけて考えてしまう。
たとえその飛躍した論理が間違っておらず、ロシア代表という存在が正に世界そのものからのカウンターだったとしても。
こんなやり口はあんまりだ。
「……血が出てる」
「こんなもん舐めときゃ治る」
守備につく準備を始めた正樹に対し、ただ指摘するように告げるあーちゃん。
見ると、彼の口元には確かに血が滲んでいた。
「怒りを堪えようとして噛み切っちゃったの? ……正樹君も大概よね」
ネクストバッターズサークルからベンチにグローブを取りに戻ってきた美海ちゃんが、そんな正樹を見て呆れ果てたような声を出す。
対して正樹は無言で視線を逸らした。
「まあ、気持ちは分かるっすよ。秀治郎君はウチらの恩人っすからね」
倉本さんは苦笑しながらフォローを入れると、正樹は不機嫌そうに舌打ちした。
わざわざ説明されたり、その上で共感されたりするのは罰ゲームに近いだろう。
後半部分は、俺も申し訳なさやらむず痒さやらを感じさせられて反応に困る。
「……ま、まあ、とにかく。貴重な追加点を得られたこと以外、一旦全部忘れてしまおう。一球入魂。余計なことを考えると碌なことにならない」
「そうね」
あーちゃんと正樹を交互に見てから素直に頷く美海ちゃん。
人の振り見て我が振り直せ、ではないけれども。
ちょっと行き過ぎた例を見て納得したようだ。
対して、あーちゃんは能面のような無表情で口を開く。
「試合が終わったら絶対に償わせてやるけど」
【以心伝心】によると美海ちゃんの視線を受けてわざと苛烈なことを言っている節もなくはなかったようだが、あーちゃんは半分以上本気だった。
「あ、茜。もう暴力的なのはダメよ?」
幼馴染の中の常識人枠な美海ちゃんは少し顔を引き攣らせながら窘める。
あーちゃんが根に持つタイプなのは正樹に対する普段の態度からも明らかではあるが、さすがに今回ばかりは燃料をぶち込まれ過ぎた。
今は小康状態のようだが、美海ちゃんの懸念は当然だろう。
「分かってる。WBW運営と世間に訴えるだけ」
「ホントね?」
「ん。この大会で優勝して、こんなこと2度と起きないように働きかける」
どうやら今は、根本的な解決の方にモチベーションが向かっているようだ。
美海ちゃんは「それならまあ」と安心した様子を見せる。
「……けど、何にしてもまずは勝たないとね。正々堂々戦った上で」
同時に、彼女もまた一先ず内心の激情をそちらに振り向けたらしい。
球史においてここまで異様な雰囲気の中で投げさせられた選手はそういないはずだが、少なくとも彼女は一定の折り合いをつけることができたようだ。
他の面々もまた、表面上は落ち着いた様子で各々守備位置につく。
とは言え、やはり何の影響もないとはならなかった。
8回の裏。ロシア代表の攻撃は1番に戻ってエードガル選手から。
こちらの方針は変わらず、ナックル一辺倒。
あちらも前のイニングと同じようにフルスイングで応じる。
結果、この回先頭のエードガル選手は空振りの三振。
ただし、3球では終わらず5球目でのアウトとなった。
その内訳は空振り、空振り、ボール、ファウル、空振り。
手が出なかった訳でもなく1球見極められた。
僅か1球のこと。
これもまた偶然かもしれない。
しかし、どうにも嫌な気配を感じる。
その感覚は、勘違いではなかった。
──バカンッ!!
2番のレオニート選手に対する3球目。
1ボール1ストライクから投じたアウトコース低めへのナックルを強引に引っ張られ、右中間スタンドに放り込まれてしまった。
ソロホームランで1点を返されて9-7。
そこから更に……。
──バカンッ!!
3番のトリフォーン選手は1ボールノーストライクからの2球目。
インコース低めのナックルを狙い打たれ、弾丸ライナーがそのままスタンドへ。
連続ホームランで1点差に詰められてしまった。
エードガル選手からアウトを取った後、打者2人に対して僅か5球で2失点。
4番のドロフェイ選手のところで堪らずタイムをかけてマウンドへ向かう。
併せてジェスチャーで倉本さんを呼ぶ。
精度は分からないが、ある程度コースを読まれているのは確実だ。
倉本さんもやや感情的になって傾向がより顕著になった部分もあるだろう。
だが、美海ちゃんは近年パートタイムナックルボーラーだった訳で……。
この試合の限られた情報からロシア代表のスコアラーが血眼になって配球を分析し、ここまで漕ぎ着けたことは間違いない。
少なくとも、これに関しては健全な努力と工夫の賜物だ。
……それができるんだったら、どうして真っ向勝負ができなかったのか。
その答えは分かり切っている。
それでも、そう思わずにはいられなかった。




