9.遡行
リュシーの指先を握る殿下の力が、ふいに強くなった。
「っ! 白薔薇姫! 白薔薇姫、しっかりしろ!」
間近に聞こえる殿下の声は、気のせいかさっきより若々しいような……。
そう思った途端、力強い腕がリュシーの膝裏と背中に回り、身体がふわりと浮き上がる。
「で、んか……」
「誰ぞ、医師を呼べ! ご令嬢が腹を刺されて重傷だ!」
(いけませんわ。殿下もお怪我をなさっているのに)
そう言おうとして、どうにか目を開けたリュシーは仰天した。
王弟殿下が、リュシーを横抱きにして廊下を駆けている。
そのことも驚きだったが、それよりも。
(おかしい)
間近に見える殿下の頬は、日に焼けて荒れていたはずなのに、白く滑らかに戻っている。
服装も旅装ではなく、濃紺の軍服に金の飾緒。
けれど、肩から斜め掛けにされていたはずのサッシュと金の記章が見当たらない。
「殿、下。お、怪我は……」
「喋るな! 怪我をしているのは君だ!」
(……戻ったんだわ)
過去のいつかに。
まだ殿下が刺される前、あの舞踏会の夜より前に。
その意味に、リュシーは遅れて行き当たった。
止められる。あの夜を。――あの悲劇を。
「殿、下っ!」
リュシーは殿下の首に縋りついた。
「止まっ、て。話、を、聞いて。お願い、です……!」
「…………」
「殿、下……っ!」
魂を振り絞るようなリュシーの声に、ようやく殿下の足取りが緩み、やがて止まった。
「……すまない。痛むのだな」
「お聞き、ください。この、先の、初舞台の舞踏会で、起きる、こと……」
今この時から何年先になるかはわからない。
「次に、私と、会った時……」
殿下はナイフで刺されてしまう。
苦しい息の下で、かろうじてそれだけ話し終えたリュシーは、ぐったりと殿下の腕の中に沈み込んだ。
「白薔薇姫? おい、しっかりしろ! 私とワルツを踊ってくれるのだろう?」
ぽたり。
ロイヤルブルーの瞳から零れた滴が、リュシーの頬を伝い落ちる。
(ああ、どうか泣かないで)
――デビュタントの舞踏会は、それはそれは素敵だったわ――
年下の可愛い王子様が、夜の中庭で白薔薇を髪に飾ってくれた。
素敵な青年王太子と、ワルツを踊る約束をした。
時が経ち、王弟となってからも、その人は約束を果たすために、リュシーに会いに来てくれた。
「殿、下は、お優しい、方、ですのね……」
「待て。行くな! 私は、私はずっと君のことを――!」
微笑んで目を閉じたリュシーの眼裏で、眩く白い光が弾けた。
◆◆◆
ぱち、ぱち、ぱち。
どこからか、ゆっくりとした拍手が聞こえてきた。
「おめでとう、白薔薇姫」
深みのある声に目を上げれば、そこにはくたびれた旅装姿の男が、革の旅行鞄を提げて立っていた。
その顔を一目見た途端、リュシーはこぼれんばかりに目を見開く。
(嘘っ! ここからなの!?)
せっかく、殿下が刺される前の時間に戻れたのに。
これでは、もういくらも時間は残っていない。
「叔父上!」
「王弟殿下」
王太子殿下が嬉しそうに駆け寄り、居並ぶ人々が一斉に膝を折る。
リュシーは頭を下げながらも、忙しなくあたりに視線を走らせた。
さっきまで義妹がいたはずの場所はもぬけの殻だ。
「ご無事とは伺っておりましたが、まさかおいでになれるとは」
「馬車を馬に換えて飛ばしてきたからな」
(いた……!)
壁際にビュッフェ形式で並んだお菓子や料理。そのテーブルからナイフを取った義妹が、血走った目でこちらを振り向く。
「顔を上げてくれ、白薔薇姫。私とのワルツの約束は、覚えてくれているだろうか?」
「殿下、危ないっ!」
ナイフを手に義妹が突っ込んでくるのと。
リュシーの叫びが同時だった。
ドスッ。
リュシーの前に、彼女を庇うように立つ王弟殿下の広い背中があった。
その向こうに、ナイフを握りしめた義妹の姿。
そのナイフは――。
殿下が手にした旅行鞄に刺さっていた。
「きゃあっ!」
「殿下っ!」
「衛兵! その娘を捕らえよ!」
悲鳴と怒号が交錯する中、警備兵に引きずられていきながら義妹が叫ぶ。
「何でよ……何であんたばっかり幸せになるのよっ! 綺麗なドレスも! 王子様も!」
「そのドレスを贈ったのは私だ。初めて出会ったあの夜から、彼女だけを待っていた」
「まったく。愛が重すぎなんですよ、叔父上は」
王太子殿下が呆れたように呟く。
「……何よ、それ。何それ! 意味わかんない! わかんないわよ――!」
金切り声が遠ざかり、やがて大広間の扉の向こうに消えていった。
(なぜ……)
リュシーは呆然と王弟殿下の背中を見上げる。
「なぜ、おわかりになったのですか」
一度目は防げなかった義妹のナイフ。
今回はリュシーが「危ない」と叫んだおかげで間に合ったとも考えられる。
けれど、リュシーは見ていたのだ。
リュシーが叫ぶより早く、殿下が素早く自分を庇うように立ち塞がり、手にした鞄を盾のように構えるのを。
殿下は振り向き、リュシーを見下ろして微笑んだ。
「だって、君が命がけで教えてくれただろう?」
言いながら、リュシーの手を掬い上げ、指先にそっと口づける。
「おかげで、ようやくあの日の望みが叶う。……私とワルツを踊っていただけますか、レディ?」




