10.ワルツ
その後。
長く語り継がれることになるこの年の初舞台の舞踏会に、ワルツの時間が訪れた。
「わかっておいでですか、叔父上。本当なら、舞踏会を即刻中止にしてもおかしくないんですよ?」
父と義母によるデズリン伯爵家乗っ取り未遂に加え、王族に対する殺人未遂事件まで起きたのだ。
けれど王弟殿下は頑として譲らず、何が何でもリュシーとワルツを踊ると言ってきかなかった。
「でしたら、僕は先ほど最初のワルツを彼女に申し込んでいるのですが」
そう言ったのは、ドレスを着替えたセヴェリテ公爵夫人と一緒に戻ってきたフィリクス殿下だ。
「何を言う。私は十九年も前に申し込んでいるのだぞ」
言うが早いか、長身の王弟殿下は誰にも渡さないとばかりにリュシーの手を引き、フロアの中央に進み出た。
「もう。大人げないなあ。甥っ子を本気で威嚇しないでくださいよ……」
フィリクス殿下のぼやき声が、ワルツの前奏に溶けていく。
超特急で旅装を解いて、王族の正装――濃紺の軍服に金の飾緒――に着替えた殿下は、その両腕でリュシーを囲い込むようにして踊りだした。
「十三歳で初めて舞踏会に出るよう命じられた私は、正直、気乗りがしなかった。デビュタントを迎える令嬢たちの中から、婚約者候補を探すように言われていたからだ」
皆自分より年上で、背も高く大人びた令嬢たちの間で、殿下は、自分がひどくちっぽけな子どものように思えたそうだ。
「こっそり会場を脱け出した私は、あの階段で初めて君と出会った。正直言ってほっとしたよ。君だけは、他の令嬢のように、獲物を狙うような目を向けてこなかったからだ。……今だから言うが、髪飾りが壊れた時は、これで君ともっと一緒にいられる口実ができたと喜んだ」
「まあ」
リュシーは顔を赤らめる。
「そんなふうに思ってくださっていたなんて。ちっとも気がつきませんでしたわ」
「君の目には、十三歳の私など、子どもとしか映っていなかったろう。年上の綺麗な女の子にダンスを申し込むのに、どれほど勇気が要ったことか」
けれどその直後、少女は幻のように消えてしまう。
「決して夢ではなかったはずだ。君の姿は女官も見ていたし、何より、コサージュに仕立てた白薔薇の葉や茎が残っていたからね」
女官と二人、さんざん中庭を探し回ったが、少女は忽然と消え去ったまま、やがて侍従が呼びに来て、殿下は大広間に連れ戻されてしまう。
「驚いたことに、そこには君にそっくりな少女がいた。矢も楯もたまらずダンスを申し込んだものの、彼女は君ではなかった」
(ああ)
――でもね。残念ながら、王子様のお目当てはお母様ではなかったの――
母が年下の王子様にダンスを申し込まれたのは、その時だったのか。
「君はてっきり彼女――デズリン伯爵令嬢の姉か親戚だと思った。けれど彼女は一人娘だし、歳の近い親戚もいないという。私はわけがわからなかった」
結局、その年、殿下は婚約者候補を選ばなかった。
次の年も、そのまた翌年も。
「毎年、初舞台の舞踏会があるたびに、私は招待客の中に君の姿を探すようになった。妙な話だが、いつかまた君に会えるとしたら、その晩しかチャンスはないような気がして」
一曲目のワルツが終わった。
余韻の中で、二人は互いに目を見交わす。
「話がまだ途中だ。もう一曲踊ってもらっても?」
「喜んで、殿下」
二曲目のワルツが始まり、リュシーは再び差し出された殿下の手に手を載せた。
「私が二十歳になった年、父王が急逝した。兄の即位とともに、私は暫定的に王太子に指名された」
その年はまた、隣国との国交が開かれた年でもあった。
大陸一の芸術大国と謳われる国である。
交流が盛んになるにつれ、貴婦人たちは競ってかの国の流行を取り入れ始めた。
そして翌年。
親善大使として隣国を訪れた殿下は、そこである物に目を奪われる。
「隣国の王女殿下が着ていたドレスだ。あの晩、君が着ていたものにそっくりだった」
王女自らがデザインし、特別に仕立てさせたというそのドレス。今までにない斬新な型のドレスを、なぜ八年も前に会ったあの少女が着ていたのか。
「しかもあの時、君は古びたドレスを気にしていた」
帰国した殿下は、何かに突き動かされるように、最高級の素材を使い、あの晩の少女が着ていたドレスを再現した。
「その頃にはもう、家族の間で私の『白薔薇姫』の話は有名だったからね。兄夫婦には呆れられるわ、甥には気味悪がられるわでさんざんだった。……でも、その翌年の初舞台の舞踏会に――」
あの少女は、またしても殿下の前に現れた。
あの夜と寸分違わぬ姿のまま――ただし、そのドレスに酒と果実で大きな染みをつけて。
(……っ!)
リュシーの足が一瞬もつれかけた。
頬がかっと熱くなる。
(私のあの姿を、まだ覚えていらっしゃるの……!?)
「あの、その、どうか忘れてくださいませ」
「断る」
即答だった。
「あれがなければ、私は君にドレスを贈る口実を得られなかった」
「このドレスは、私に貸してくださったのでは……」
「そう言わなければ、君は受け取らなかっただろう?」
言いながら、殿下はリュシーを軽々と持ち上げて回転する。
大広間の観客たちから「おお」とどよめきが上がった。
どよめきに紛れて曲が変わったことに、二人は気づかない。
三曲目の前奏を、楽団はことさら静かに奏で始めた。
「着替えを終えた君を初めて見た時、二度と手離したくないと思った。今度こそワルツを踊るのだと」
けれど、その約束もまた果たされないまま、少女は再び消えてしまう。
「私は必死で君を探した。招待客を全員洗い出し、欠席した令嬢まで調べさせた。デズリン伯爵家にも人をやったよ。……あの家の一人娘は、当時まだ八つだった」
娘の名はリュシエンヌ。年齢が合わない以上、報告書はそれ以上の意味を持たなかった。
「王太子でいる間、私は誰とも結婚しないと公言していた。表向きは、やがて成人する甥との間に無用な王位継承争いを生まないためだ。だが実際は、私は君がもう一度現れることを期待していた。そして――」
殿下が二十七歳になった年、第一王子が王太子に指名された。
(あの年だわ)
リュシーが十三歳になった年。テオフィルとの婚約が結ばれ、彼がまだ毎週のようにリュシーを訪ねてきていた頃。
「王太子」から「王弟」に戻った殿下に縁談が殺到していると、メイドたちがさかんに噂していた。
殿下がそれを断り続けているのだとも。
「隣国の王女殿下からも申し込まれたそうですわね」
「よく知っているね」
「新聞に大きく載りましたもの」
――王弟殿下、ご乱心! 隣国の王女、傷心のご帰国
「あの日、王宮を訪れた王女と、私は見合いをするはずだった。水面下で婚約はすでに内定しており、私もさすがに王族としての義務を果たす覚悟を決めていた。だが――」
そこにリュシーが現れた。殿下が贈ったドレスを着て――腹から血を流して。
ワルツのステップを踏みながら、リュシーをホールドする殿下の力が強くなる。
「あの時、私がどれだけ動転したことか。君が消えてしまった後も、半狂乱で王宮中を探し回ったよ」
おかげで殿下は心神耗弱を疑われ、王女殿下との結婚話は白紙撤回された。
「私は療養の名目で、しばらく離宮で謹慎することになった。それでも年に一度、初舞台の舞踏会だけは無理を言って絶対に出席した。そこで待っていれば、いつか必ず君に会えると知っていたからだ」
――次に、私と、会った時……。
あの時、リュシーが言ったから。
今年の春、ようやく殿下の謹慎が解けた。
そのころには隣国の王女殿下の輿入れも決まり、王弟殿下は謝罪も兼ねて成婚祝いの挨拶に行ったという。
「お相手はあちらの国の公爵だそうだ。『あなたに振られたおかげであの方に巡り会えた』と感謝されたよ」
「まあ」
「もっとも、帰りに野盗に出くわした時は肝を冷やしたな。すんでのところで舞踏会を逃すところだった」
間に合ってよかった。
そう耳元で囁かれ、愛おしげに見つめられて、リュシーの頬が熱くなる。
いつの間にかワルツは終わり、二人はフロアの中央で向き合って立っていた。
殿下の腕がゆっくり解かれる。
けれど、指先だけはまだ繋がれたままだった。
「白薔薇姫。私は君にずっと言いたかったことがある」
触れあった指先から、殿下の熱が伝わってくる。
「五年前を覚えているか。腹から血を流した君に、私が最後に言いかけたことを」
――待て。行くな! 私は、私はずっと君のことを――。
思い出した途端、リュシーの心臓がとくんと跳ねた。
「こうして君に――今を生きる君に出会うまで、私はずっと思っていた。次こそ君に求婚しよう。決して手離さず、二度と消え去ったりしないよう、生涯この腕に閉じ込めておこうと」
繋いだ指先が引き寄せられ、そっと口づけを落とされる。
「けれど君は今宵、父を失い、婚約者を失った。こんな時に王弟の私に求愛されて、否と答える選択肢があるだろうか」
「……っ」
何か言おうと口を開きかけたリュシーに、殿下は優しく首を横に振ってみせた。
「今は何も言わなくていい。十九年待ったのだ。あと数刻、数日、数週間くらい、どうということはない。私は君を愛しているが、その返事は君の心からのものであってほしい」
リュシーは殿下を見上げ、微笑んだ。
大階段で髪飾りを壊し、途方に暮れていた少年に。
素晴らしいドレスを贈ってくれた青年に。
血塗れの自分を救おうと、必死に廊下を駆けた男性に。
「もうお待たせしませんわ」
囁いて、自分のほうから一歩踏み出す。
「私も、十九年分の殿下をお慕いしておりますもの」
「リュシエンヌ。私のことはギルフォードと」
「ギルフォード様」
互いに見つめ合い、やがて抱き合う二人の向こうでは――
「やれやれ。未婚のご令嬢とちゃっかり三曲続けてワルツを踊っておきながら、『否と答える選択肢があるだろうか』だなどと、一体どの口が言うのやら」
呆れたように王太子殿下が呟いた。
この国で三曲続けて踊れるのは、夫婦か婚約者同士だけである。
セヴェリテ公爵夫人の瞳が、扇の陰で三日月を描いた。
「まあ、殿下ったら。野暮は言いっこなしですわよ」
「ちぇーっ。せっかく僕が婚約者候補にしようと思ったのに」
「諦めろ、フィリクス。おまえにもいずれ、いい相手が見つかるさ」
――かくて。
一夜で十九年の時をかけた不遇の令嬢は、愛が重い殿下に溺愛される――。
〈Fin〉




