6.暴露
「テオ義兄様っ!」
ミリエルはまっしぐらに婚約者に駆け寄ると、何の躊躇いもなくその身体に抱きついた。
「ミ、ミリエル嬢、落ち着いて」
テオフィルは慌てて義妹を引きはがし、決まり悪げに目を泳がせる。
その視線がリュシーを捉えた途端、テオフィルは目に見えて安堵の表情を浮かべ――そのまま、奇妙な顔で固まった。
「リュシー。……君、そのドレスは」
「…………」
「どこで手に入れた。いや、それより、いつ着替えたんだ?」
答えられるはずがなかった。
(私にも、わからないのですもの)
「……まあいい。それより、一体何があったんだ?」
「ミリエルが持っていたグラスを落としました。そのせいで、こちらのセヴェリテ公爵夫人のドレスが汚れてしまったのです」
「嘘よ!」
ミリエルが金切り声で叫び、再びテオフィルの腕にしがみつく。
「聞いてよ、テオ! リュシーったらひどいのよ。自分がグラスを落としたくせに、あたしのせいにしようとするの!」
リュシーの横から、あらまあ、という呆れたような呟きが聞こえた。
見なくてもわかる。公爵夫人だ。
テオフィルは素早くあたりに目を走らせると、やれやれというふうにため息を吐いて義妹を見下ろした。
「ミリエル嬢。嘘は良くないな」
「え……」
「飲み物をかけたのは君だろう? 自分の罪を、お姉さんに押しつけてはいけないよ。それに」
言いながら、再びミリエルの腕を振りほどく。
「僕は君のお姉さんの婚約者だ。いくら家族になるからって、こんなふうにべたべたくっつくものじゃない」
(あらまあ)
今度はリュシーも胸の内で呟いた。
(変わり身の早い方ですこと)
「変わり身の早い男だな」
まるでリュシーの内心をなぞったかのような男の声。
人垣がさっと二つに割れた。
その間から、一人の青年がゆったりと現れる。
濃紺の軍服に金の飾緒。斜め掛けしたサッシュに黄金の記章をつけたその人は――。
「王太子殿下!」
一斉に頭を下げる人々と共に、自分も宮廷礼をしながら、リュシーはまたも混乱した。
(違う)
王太子殿下は、あの青年ではなかったからだ。
では、とリュシーは自分の胸元に目を落とす。
最高級の純白のモスリン。蜘蛛の巣のような絹のチュール。
これを用意してくださったあの方は、一体。
◆◆◆
フィリクス殿下と同じ黒髪の王太子殿下は、ロイヤルブルーの瞳でぐるりと人々を見回した。
リュシー。二人の貴婦人。テオフィル。彼に向かって、縋るように手を伸ばすミリエル。そして両親。
最後にもう一度リュシーに戻ってきたその視線が、リュシーを頭のてっぺんから足の爪先まで検分する。
と、殿下はなぜか面白そうに唇の両端を持ち上げた。
「それで? 実のところ、何が起きたのかな? ――セヴェリテ公爵夫人?」
リュシーの横から、公爵夫人が優雅に一歩前に出る。
「このような姿でお目汚し失礼いたしますわ、王太子殿下。あつかましくもデズリン伯爵家の娘を名乗るそこの娘が酒杯を落とし、私のドレスを汚しましたの」
「だからそれは……むぐっ」
また何か言いかけたミリエルの口を、今度は父が背後から塞ぐ。
「黙りなさい! 不敬罪で罰されたいか!」
父が義妹をこれほどきつく叱ったのは初めてだ。
驚いた義妹の瞳からぽろぽろと涙がこぼれるが、父はその口を押さえつけたまま深々と頭を下げた。
「セヴェリテ公爵夫人。お話中に、娘が大変失礼いたしました」
公爵夫人が、扇の陰からちらりと父に目を向ける。
「空耳かしら。今『娘』と聞こえたようだけど。デズリン伯爵家のご令嬢は、リュシエンヌ嬢だけのはずですわよね」
「っ! そんな! ミリエルだって、立派にデズリン伯爵家の娘ですっ!」
そう叫んだのは、義母だった。
「バーバラ! 黙らんか!」
父が慌てて制止するが、そこで大人しく口を噤むような義母ではない。
「いいえ、黙りません! この際、皆さんの前ではっきりさせようじゃありませんか。うちのミリエルは、本当は連れ子なんかじゃありません。れっきとしたこの人の――デズリン伯爵の、血の繋がった娘なんですっ!」
しん、と人々が静まり返る中、リュシーの心は妙に醒めていた。
(やっぱり)
リュシーが物心ついたころから、母と父はうまくいっていなかった。
母がまだ元気だったころから、義母は屋敷に頻繁に出入りしており、母の葬儀の翌日にはもう、ミリエルを連れて引っ越してきたのだ。
そしてその日から、デズリン伯爵家の「家族」は、父と義母とミリエルの三人になった。
義母の連れ子にすぎないはずの義妹ばかりを溺愛する父。
理由など考えるまでもない。
「……だから?」
ひんやりとした声は、公爵夫人のものだった。
「礼儀知らずのその娘が、おまえとその男の血を引いているから何だというのです? 平民の子であることに代わりはないでしょう」
「うちの人は伯爵ですっ! 伯爵の血を引く娘は伯爵令嬢でしょうが!」
どっ!
次の瞬間、周囲で沸き起こった失笑に、夢中で力説していた義母も、さすがに「え」と目を瞬いた。
「いやだわ。お聞きになりまして? あの方、ご主人のことを本気で伯爵だと思い込んでいたみたい」
「いやいや、この手のことは平民にはなかなかわかるまい。おおかた、そこをあの男につけこまれたのだろうが」
「え? ……え。どういうこと?」
今や義母だけでなく、義妹も父に口を塞がれたまま、目をまん丸く見開いている。
公爵夫人はうんざりしたようにため息をついた。
「わたくしはもう疲れましたわ。このドレスも早く着替えたいですし。殿下、御前を失礼しても?」
王太子殿下は鷹揚に頷いた。
「無論だ。ひどい目に遭ったばかりだというのに、引き留めてしまってすまなかったね。フィリクス!」
「はい、兄上」
人垣の中から、フィリクス殿下がひょいと顔を出した。
「セヴェリテ公爵夫人を控室にエスコートしてくれるかい。着替えと、何か身体の温まるものもご用意して」
「承知しました」
フィリクス殿下は、リュシーの隣に立っていた公爵夫人の前までやってくると、うやうやしく一礼して手を差し出した。
「控室までご案内いたします」
そしてリュシーを見た途端、ロイヤルブルーの瞳に「あれっ?」という表情が浮かぶ。
けれどそれも一瞬のこと。すぐに「ごめんね」と口の動きだけで告げてきた。
最初のワルツを踊れなくなったことを、律義に謝ってくださったらしい。
リュシーは微笑んで頭を下げた。
(どのみち、ワルツどころではなくなってしまったし)
「――さて」
公爵夫人とフィリクス殿下が出ていくと、王太子殿下はあらためてリュシーたちに向き直った。
「どうやらこの問題は、思ったより根が深そうだね?」




