5.反転
「……まあ、残念。王弟殿下は、今夜はお見えになりませんの?」
「隣国からの帰り道、馬車が野盗に襲われたそうで。幸い、お怪我は軽く済んだものの……。例の王女殿下とは、よくよく巡り合わせがお悪かったようですわね」
リュシーは、はっと顔を上げた。
壁際に並ぶ、色とりどりの料理とお菓子。
招待客の間を縫うように歩く給仕たちが、銀盆に載せた赤葡萄酒のカクテルや、冷たくて甘いシロップ水を配っている。
(! また……)
巻き戻っている。
今度は素直にそう思えた。
なぜこんなことが起きているのかわからない。
わからないが、もしもこれが巻き戻りなら――。
(来る!)
さっとあたりを見回せば、案の定、両手にグラスを持った義妹が、人混みをかきわけてこちらに歩いてくるところだ。
(どうしよう。今からどこかに逃げる? それとも誰かに助けを求める?)
切羽詰まってあたりを見回したリュシーと、すぐそばで王弟殿下の噂話をしていた年上の貴婦人の目がばちりと合った。
次の瞬間、貴婦人の目が大きく見開かれる。
「まあ! まあまあ、何て懐かしい! 貴女、そのドレス、どちらでお仕立てになりましたの?」
(声を、かけられた!)
リュシーは無我夢中で貴婦人のほうに踏み出した。
見るからに地位の高そうなこの方の目が向いているうちは、さすがの義妹も簡単には手出しできないはずだ。
「ご覧になって。この繊細なレース! そうそ、わたくしがデビュタントを迎えた年は、このスタイルが大流行しましたのよ」
もう一人の貴婦人も、すぐさまそばに寄ってくる。
「本当だわ。まだこんなドレスを仕立てられる職人がおりましたのねえ」
「…………」
つられて自分のドレスに目を落としたリュシーは、驚きのあまり絶句した。
それはもはや、あの古くて黄ばんだドレスではなかった。
最高級の純白のモスリンに、蜘蛛の巣のような絹のチュールを幾重にも重ね、繊細なレースのリボンを胸元に結んだ――王太子殿下が貸してくださったあのドレスだったのだ。
「お義姉様」
義妹の声がした。
前の時と同じように一人で、真っ赤な酒をなみなみと満たしたグラスを両手に持っている。
ただし前回と違うのは、義妹とリュシーの間には、二人の貴婦人がいることだ。
「お義姉様、喉が渇いているんじゃない? 飲み物を持ってきてあげ……」
ミリエルの声が、途中でぷつりと切れた。
その視線が、リュシーの姿を上から下まで何度も往復する。
「……何なのよ、その恰好」
「…………」
「なんで、そんな綺麗になってるの……。さっきまでボロだったくせに……リュシーのくせに!」
愛らしい顔は憤怒に燃え、声はまるで地を這うようだ。
けれど、周囲の視線が集まりかけたのに気づいたのだろう。ミリエルはすぐに口を噤み、次の瞬間には、いつもの甘ったるい声に戻っていた。
「……その話は後でね、お義姉様。それより、お飲み物はいかが」
「ありがとう。でも、お酒は今はやめておくわ」
「まあ。せっかく持ってきてあげたのだもの。一口くらいいいじゃない?」
言いながら、ミリエルはどんどん近づいてくる。
「ミリエル、やめて。そんなにグラスを揺らしたら……っ!」
ぱしゃり。
揺れるグラスの中身がはねて、赤い飛沫がドレスに飛んだ。
リュシーのではなく――リュシーの前にいた貴婦人のドレスに。
「無礼者!」
貴婦人の鋭い叱責と。
驚いたミリエルが、グラスを取り落とすのが同時だった。
がしゃん!
床に広がる液体が、みるみる貴婦人のドレスの裾を汚していく。
「セヴェリテ公爵夫人!」
連れの貴婦人が悲鳴のような声を上げ、給仕たちが飛んでくるやら、物見高い招待客が集まってくるやらで、あたりは一気に騒然となった。
「あ……あたしのせいじゃない! あたしは悪くない! リュシーが……リュシーがグラスを押しのけたからっ!」
いつものように、リュシーに責任転嫁しようとする義妹。
けれど、セヴェリテ公爵夫人はあきれたように扇で口許を隠し、隣の貴婦人に話しかけた。
「この娘は何を言っているのかしらね、ヘルテ? こちらのお嬢さんははっきり飲み物を断った上、この娘には指一本触れなかったというのに」
「ええ、私も見ておりましたわ。それにしても、何者でしょう、この娘」
二人の視線が、ゆっくりとミリエルに向けられる。
「……っ」
ミリエルは一瞬怯んだものの、すぐにつんと顎を上げた。
「わ、私はデズリン伯爵家のミリエルですわ! 今夜がデビュタントですのよ!」
しん、と周囲が静まり返る。
次いで、押し殺した囁きがさざ波のように広がっていった。
「デズリン伯爵家ですって」
「なるほど。あれが噂の」
「後妻の方も平民でしょう? よくまぁ恥ずかしげもなくこの場に顔を出せましたこと」
失笑。侮蔑。そして嘲笑。
それらはすべてミリエルに向けられたものだった。
――リュシーではなく。
(見ていてくださったのだわ)
リュシーは二人の貴婦人に向かい、深々と宮廷礼をする。
(見ていてくださった。私を。そして本当のことを言ってくださった)
両親のように、頭ごなしにリュシーが悪いと決めつけず。
婚約者のように、リュシーの苦境を見て見ぬふりもせず。
「な……何よ……」
周囲を見回したミリエルの唇がわななく。
次の瞬間、彼女は人混みの中の一点に向かって叫んだ。
「テオ義兄様! テオ義兄様、助けて!」
悲鳴じみた声に、人垣が割れる。
そこには、蒼白な顔で立ち尽くす婚約者と――その後ろに、父と義母の姿があった。




