4.ドレス
「おっと」
誰かに手首を掴まれて、リュシーはかろうじてその場に踏みとどまった。
「大丈夫? 君、今どこから……っ!?」
ふわり、とスパイシーなシダーが香ったかと思うと、俯いたリュシーの目の前に、大きく見開かれたロイヤルブルーの瞳が現れた。
「……っ!」
「おおお、驚かせてすまない! 君が今にも倒れそうだったから……」
なぜかリュシーと同じくらい動揺しているのは、背の高い青年だった。
歳はリュシーより少し上――二十歳を少し過ぎたくらいだろうか。
長い金髪をうなじで束ね、濃紺の軍服に金の飾緒、肩から斜め掛けしたサッシュには、この国の王太子だけが着けられる黄金の記章がついている。
「もっ、申し訳ございません、殿下!」
慌てて宮廷礼をしかけたリュシーだが、両手でドレスを広げれば、前面についた真っ赤な染みも広げて見せることになってしまう。
「ああ、いいよ、いいよ。今はそんなの気にしないで。……それより君、ドレスの替えはあるの?」
「……いいえ」
リュシーは蚊の鳴くような声で答える。
「だと思った。……しかし、これは却って好都合」
「え」
「何でもないよ、こっちの話。それより、おいで。着替えを貸してあげよう」
気さくな調子で差し出された手に、リュシーはかちんと固まってしまう。
(おいで、って言われても……)
「ああ、警戒してるんだね。大丈夫、付き添いはちゃんとつけるから。ほら」
見れば、いつからそこにいたのか、すぐそばに王宮女官がひっそりと控えていた。
(何だか、さっきも似たようなことがあったような……)
そう思ったリュシーは、ふとミリエルの姿が見えないことに気がついた。
「どうしたの? まだ僕が信用できない?」
「いえ。実はさっきまでここに……」
その時、背後の大広間から、くぐもったワルツの音色が聞こえてきた。
(ああ)
リュシーは納得した。
義妹はきっと中に戻ったのだ。王子様と――それが無理でも、リュシーの婚約者と最初のワルツを踊るために。
「心配しなくても、ワルツはしばらく終わらないよ。君がちゃんと最初のワルツを踊れるように、すぐに帰してあげるから」
そこまで言われて固辞すれば、かえって無作法になりそうだ。そう考えたリュシーは、丁寧に宮廷礼――をする代わりに深く腰を折った。
「ありがとうございます。それでは、お言葉に甘えさせていただきます」
◆◆◆
王太子殿下は、リュシーをつれてずんずん王宮の奥へと歩いていく。
生まれて初めて足を踏み入れた王宮だが、さすがにここは王族の方々の私的なお住まいではなかろうか――と、リュシーが内心慄いていると。
「ここだよ。さあ、どうぞ」
殿下が入るように促した部屋は、どうやら衣裳部屋のようだった。
壁際にずらりと掛けられた色とりどりのドレス。
他にも靴や髪飾り、アクセサリーなどがあちこちの棚に並んでいる。
「君。例のドレスをこちらのお嬢さんに」
「かしこまりました」
「済んだら声をかけてくれ」
そう言うと、殿下は安心させるようにリュシーに微笑みかけて部屋を出ていった。
「では、お嬢様。まずはそちらのドレスをお預かりいたします」
「はい。あの……」
「ワルツに間に合わせよとの殿下の仰せでしたので、申し訳ございませんが、湯浴みは省略させていただきます。また髪型とお化粧につきましては、私どもに一任していただければと」
「は……」
そこからは、まるで嵐に巻き込まれたようだった。
どこからか大勢の侍女たちが現れ、リュシーの汚れたドレスを脱がせると、良い匂いのするタオルで全身を拭き上げる。
化粧台の前に座らされ、目を閉じているように言われ、髪を解かれて梳られ、結い上げられている間にも、顔には良い匂いのするクリームが塗られ、粉がはたかれ、目尻に墨が、唇に紅が塗られていく。
あっという間にドレスを着つけられ、繊細なレース編みのリボンが胸の下で結ばれたところで、初めて全身が映る鏡がリュシーの前に運ばれてきた。
「…………」
リュシーは声もなく鏡をのぞきこむ。
「お綺麗ですわ」
「本当に。腕を振るった甲斐がありました」
背後で侍女たちが褒めそやす声が、何だか妙に遠く聞こえる。
化粧水とクリームで整えられた肌は白く透けるよう。長い睫毛に縁取られた瞳はエメラルドのよう。初々しい唇は薔薇のような美少女が、鏡の中からこちらを見つめ返していた。
緩く結い上げた亜麻色の髪に、あの少年に贈られた白薔薇を留めているのは母の形見の古いピン。
(お母様)
『デビュタントの舞踏会は、それはそれは素敵だったわ』
まだ母が生きていたころ、繰り返し聞かされた話を思い出す。
『十五歳になったばかりの時よ。婚約者のいなかったお母様は、何と、年下の王子様からダンスに誘われたの』
母をダンスに誘ったのは、当時の第二王子殿下。今の王弟殿下である。
『でもね。残念ながら、王子様のお目当てはお母様ではなかったの。だって、王子様は最後にこうおっしゃったんだもの』
――レディ。つかぬことをお訊ねしますが、貴女によく似た姉君はいらっしゃいますか?――
『おかしいわよね。お母様は、伯爵家の一人娘なのに』
「…………嬢様。お嬢様」
「――っ! は、はい!」
侍女に声をかけられて、リュシーは慌てて返事をした。
「ドレスの寸法はいかがでございますか」
「は、はい。問題ありません。というか……」
そのドレスは、まるで誂えたかのようにリュシーの身体にぴったりだった。
しかも、さっき脱いだばかりの古びたドレスと、瓜二つといっていいほど似通ったデザインだ。
もっとも似ているのは形だけで、純白の生地は最高級のモスリンだし、絹のチュールはあえかな蜘蛛糸を編んだよう。手の込んだレースに至っては、ほとんど芸術品の域に達している。
「最新流行の型だそうですわ」
「さすが、殿下のお見立てですわね」
その時、ドアがノックされ、先ほどの青年が戻ってきた。
「やあ、何と美しい! まるで白薔薇の妖精だ」
「王太子殿下……」
手放しの誉め言葉に、思わず頬が熱くなる。
「これほどまでに素晴らしいドレスをお貸しくださって、何とお礼を申し上げればいいか」
「何の。紳士たるもの、窮地のご婦人を救うのは当然の務めだ。とはいえ……」
言いさして、殿下はふいに悪戯っぽく笑った。
「そうだな。もしも叶うなら、今宵の君の――そうだな、最後のワルツを所望したい」
「最後のワルツ、でございますか」
リュシーは目を瞬いた。
「どうかな?」
「も……もちろん。私などでよろしければ、喜んでお願いいたします」
「では決まりだ」
殿下は顔をほころばせ、リュシーに腕を差し出した。
「では行こうか、白薔薇姫。これ以上遅くなると、さすがにワルツも終わってしまう」
「はい」
頷いたリュシーが、殿下の方へ一歩踏み出した時。
再び弾けた眩い光が、リュシーの視野を真っ白に染めた。




