2.回帰
「お義姉さま。お義姉さまったら、何をぼんやりしているの?」
義妹の甘ったるい声に、リュシーははっと目を開けた。
大階段の途中から、義妹がこちらを振り向いている。その手はリュシーの婚約者の腕に載せられ、婚約者もそれを当然のように受け入れていた。
「リュシー。何をぐずぐずしているんだ。早く来なさい」
二階の回廊から、父の厳しい声が飛ぶ。その隣に並んだ義母が、扇の陰で嗤っている。
(……今のは一体何だったの?)
リュシーは混乱してあたりを見回した。
馬車が一台余裕で通れるくらい幅の広い大階段は、途中の踊り場で左右に分かれ、緩やかにカーブしながら二階に続く。
さっき、リュシーは婚約者と義妹について右手の階段を上っている途中で転落した。
――はずだった。
けれど今、リュシーはまだ大階段の下におり、婚約者と義妹もまだ踊り場に着いていない。
(あれは夢? だとしたら何て生々しい……)
「リュシー!」
苛立ったような婚約者の声に、リュシーはびくっと顔を上げた。
その拍子に、ふわりと甘い香りが漂う。
――まるで、あの中庭で香っていたような。
リュシーはおそるおそる自分の髪に手をやった。
そこには母の形見の造花が挿してあるはずだ。
けれど指先に触れたのは、まるで今しがた摘んだばかりのように瑞々しい生花の感触だった。
「リュシー。いい加減に……」
「今、参りますわ」
婚約者の再度の催促に、リュシーはゆっくりと足を踏み出した。
それを見た婚約者と義妹が、さっさと階段を上がっていく。
誰にもエスコートされないまま、俯いてその後に続くリュシーに、人々の視線が突き刺さるようだった。
リュシーより先に踊り場に着いた婚約者と義妹は、そのまま右手の階段を上っていく。
それを見たリュシーは踵を返し、左手の階段に向かって歩き出した。
(さっきの夢? ……の中の私は、二人に追いつこうと急いだ拍子に足を滑らせた)
仮にあれが夢だったとしても、危険は避けるに越したことはない。
リュシーがついてこないことに気づいた婚約者と義妹が、向こうの階段で何やら叫んでいるが、リュシーは気にしないことにした。
どのみち、二階に着けばいやでも合流するのだ。
それより、会場にフィリクス殿下はいらっしゃるだろうか。
『レディ。もし僕が大広間でダンスを申し込んだら、僕と踊ってくださいますか?』
あれもまた夢だったのかもしれない。
でも、もし本当にあったのだとしたら。
リュシーの家は建国時まで遡れるほど由緒正しい伯爵家だ。王族と踊っても決して不釣り合いではない。
不釣り合いではないけれど――。
(でもこのドレスでは)
月明かりの中庭ならともかく、シャンデリアが煌々と輝く広間では、流行遅れのデザインも、黄ばんで皺の寄ったレースも、余すところなく曝け出されてしまう。
(これでは、殿下に恥をかかせてしまうわ。たとえ誘っていただいても、お礼だけ言ってお断りしましょう)
あの月明かりの庭で申し込んでいただいた記憶は消えない。
それだけでも、今夜ここに来た甲斐があるというものだ。
◆◆◆
舞踏会の大広間は、すでに大勢の招待客で賑わっていた。
「ほら、手を」
舌打ちせんばかりの口調で、婚約者がリュシーに腕を突き出す。
王族や高位貴族も出席する夜会で、あからさまに婚約者をないがしろにするのは外聞が悪いと思ったのだろう。
「さっきのあれは、僕に対する当てつけか? あまりみっともない真似をするなよ」
どうやら階段でのことを言っているらしい。
彼にとって、婚約者ではなくその義妹をエスコートするのは、みっともない行為ではないのだろうか。
「ミリーだって今夜がデビュタントなんだ。エスコートも無しでは可哀想だろう?」
「…………」
義妹のミリエルは十五歳。この国の社交界ではデビュタントの適齢期だ。
一方、リュシーはすでに十八歳。十九歳で行き遅れと言われる貴族社会では、あまりに遅いデビューである。
「そういうわけだから、エスコートはするが、最初のワルツはミリーと踊る。いいだろう?」
「まあ、テオ義兄様! いいのですか?」
声を上げたのは、二人の後ろにぴったりとついてきていたミリエルだった。
「もちろんだとも。記念すべき君の舞踏会デビューだ。ぜひ僕に相手を務めさせてほしい」
「…………」
(記念すべき私の舞踏会デビューとは、思ってくださらないのですね……)
リュシーは無言で俯いたまま、婚約者の雑なエスコートに引きずられるように人混みの中を進んでいく。
その時だった。
「失礼、レディ」
リュシーたちの前に、一人の少年が立った。
リュシーより年下。十三、四歳くらいだろうか。
けれど、濃紺のテールコートに白のドレスシャツ、淡いクリーム色のウェストコートという正装が、すでに様になっている。
「その装い、貴女はもしや――」
「フィ、フィリクス殿下!?」
婚約者の驚いた声に、リュシーは慌ててエスコートの手を放し、丁寧に宮廷礼をした。
作法通りに目を伏せながらも、驚きは隠せない。
(違う)
フィリクス殿下は、あの少年ではなかった。
(顔立ちは似ているけど別人だわ。だって――)
艶やかな黒髪を肩に流したフィリクス殿下は、ロイヤルブルーの瞳でリュシーと婚約者を見比べた。




