1.転落
全10話。完結済みです。
これから連続投稿します。
「あ」
落ちる。
そう思った時には、リュシーはすでにバランスを崩し、大理石の大階段を仰向けに落ちていた。
二階からこちらを見下ろす人々の顔、顔、顔。
その中には盛大に眉を顰める父と、目と口を大きく開きつつも、どこか嬉しげな義母の顔もあった。
さすがにまずいと思ったか、義妹をエスコートしていた手を放し、駆け下りてくる婚約者。
それらが一瞬、静止画のようにリュシーの瞳に焼きついた刹那。
くらり、と眩暈を感じて、リュシーは何もわからなくなった。
◆◆◆
「レディ。レディ、大丈夫ですか?」
ひやりとした床の感触と、ボーイソプラノの声に目を開ける。
リュシーは大階段の途中の踊り場に座り込んでおり、目の前に一人の少年が片膝をついてしゃがみこんでいた。
細い肩にさらりと流れる金髪に、ロイヤルブルーの涼しげな瞳。
リュシーより年下――まだ十三、四歳といったところだろうか。
けれど、濃紺のテールコートに白のドレスシャツ、淡いクリーム色のウェストコートという正装が、すでに様になっている。
少年はリュシーと目が合うと、ほっとしたように微笑んだ。
「具合を悪くされたのですね。どなたか、お身内の方はご一緒ですか?」
その時、大広間の方からくぐもった拍手が聞こえてきた。
夜会はすでに始まっているのだろう。
リュシーは俯いて首を横に振った。
「お気遣いありがとうございます。家族を呼んでいただくまでもありません。私一人で帰れますので」
言いながら、手すりに掴まりゆっくりと立ち上がる。
(不思議ね。どこも痛くない)
あんな落ち方をすれば、頭を打っていてもおかしくないのに。
そう思って頭に手をやると、母の形見の髪飾りがぱさりと床に落ちた。
母がデビュタントの夜に挿していたという造花の髪飾り。紙細工の白薔薇は、とうに黄ばんで色褪せている。
リュシーが手を伸ばすより早く、少年が床に屈みこんだ。
拾い上げようとした指先が、かさりと乾いた音を立てる。
「っ! ごめんなさい!」
少年の掌の上で、髪飾りはすでに形を失っていた。乾ききった白薔薇の花弁は砕けて粉になり、かろうじて根元のピンだけが原形を留めている。
「壊れてしまいました……」
「…………」
途方に暮れる少年を前に、リュシーはひとつ息をついた。
「お気になさらないでくださいませ。古い品ですし、もともと壊れかけていたのです」
「いいえ。それでは僕の気が済みません。今夜は貴女のデビュタントなのでしょう?」
「な――」
なぜそれを、と言いかけたリュシーは、すぐに理解した。
古びて黄ばんではいるものの、白一色のドレスに白薔薇を模した髪飾り。貴族令嬢の社交界デビューを飾る装いであることは、誰の目にも明らかだ。
とはいえ――。
こんなみすぼらしい恰好で王宮に来ている自分は、この少年の目にどう映っているだろう。
「あの、やはり私、もう帰――」
「どうぞ、僕に償いをさせてください。さほどお時間は取らせません。このとおり、付き添いも付けますから」
少年が指し示す方を見れば、そこにはいつの間にか一人の王宮女官が立っていた。
そこまで言われて固辞すれば、かえって無作法になりそうだ。そう思ったリュシーは、丁寧に宮廷礼をした。
「では、お言葉に甘えさせていただきます――殿下」
本来、成人前の子どもは入れないはずの王宮にいる少年。最上級の生地で仕立てられたその装い。
何より、指先一つで女官を控えさせられる人物など、王族以外考えられない。
(お会いしたことはないけれど、年恰好からして、第二王子のフィリクス殿下かしら)
国王陛下には二人のお子がいる。いずれも王子で、王太子である第一王子は二十歳を過ぎているはずだ。
まだ独身の王弟殿下に子どもはいない。となれば、消去法でこの少年は第二王子のフィリクス殿下に違いない。とリュシーは結論づけた。
とはいえ、現時点で相手は名乗っておらず、目下の自分が名前を訊ねることはもちろん、名乗ることさえ無礼にあたる。
リュシーは仕方なく、自分の肩ほどの背丈の少年にエスコートされるまま歩き出した。
◆◆◆
連れていかれた先は、王宮の中庭だった。
夜空に浮かぶ満月の下、甘い香りが漂っている。
「これと……あとそれも」
二人の後を音もなくついてきた女官が、少年王子の指さすままに、白薔薇を鋏で切っていく。
(鋏なんていつの間に用意したのかしら)
さすが王宮女官。とんでもなく有能だ。
内心舌を巻くリュシーをよそに、綻びかけた白薔薇の蕾はあっという間にコサージュに仕立てられ、リュシーの髪に飾られた。
「先ほど落とされた髪飾りですが、ピンの部分は無事でしたので、そこにお留めしてございます」
「まあ! 何から何まで、何とお礼を言ったらいいか……」
行き届いた心遣いに感激するリュシーに、少年は「当然のことをしたまでです」と照れ臭そうに微笑んだ。
「それより……」
「?」
「……その、とても素敵です」
頬を赤らめ、恥ずかしそうに言われた言葉に、胸にぽっと灯が灯る。
誉め言葉など、母の死以来誰からも――家族はもちろん、婚約者からさえ――かけられたことがなかったからだ。
「ありがとうございます。そんなふうに言ってくださるなんて、殿下はお優しい方ですのね」
少年はそっとリュシーの手を取った。
「では、大広間までお送りしましょう。大事なデビュタントです。僕のせいで遅刻させてしまっては申し訳ありませんからね」
「え……ええ」
貴族令嬢にとっては、一世一代の晴れ舞台であるデビュタント。
誰もが輝くばかりに着飾って踊るその晩に、リュシーに与えられたのは、とうの昔に流行遅れになった古着のドレスだけだった。
さっき胸に灯ったばかりの温もりが急速に冷えていく。
それでも、リュシーに行かないという選択肢はなかった。
行けばこの姿を馬鹿にされるのはわかりきっているが、行かなければ行かないで、帰宅してから両親に「自分たちに恥をかかせた」と折檻されるに決まっている。
気がつけば、少年が心配そうにリュシーを見つめていた。
「どうされました? やはり、どこか具合が悪いのですか」
「いいえ――いいえ、大丈夫ですわ。本当に」
たかが、皆に馬鹿にされるだけ。
この夜が終わるまで、心を殺して乗り切ればいいだけ。
「……もしかして」
少年は、ためらいがちに言葉を継いだ。
「舞踏会がお嫌いなのですか」
「いいえ、まさか! ただこのように古びたドレスでは……」
言いかけて、リュシーは慌てて首を振った。
「いえ、大丈夫です。たぶん……」
たぶん、それでも婚約者だけは、リュシーと踊ってくれるだろう。
デビュタントの夜の最初のワルツは、恋人がいれば恋人と、婚約者がいれば婚約者と踊る習わしだ。
しばらくの間、少年はリュシーの手を取ったまま目を伏せて何やら考えていたが、やがて思い切ったように口を開いた。
「レディ。もし僕が大広間でダンスを申し込んだら、僕と踊ってくださいますか?」
「まあ! それはもちろん、喜んで!」
最初のワルツが終わった後は、どうせ壁際に放置されるのだ。
そんな時に王子様からダンスを申し込まれるなんて、どんなに嬉しいことだろう。
思わず目を輝かせたリュシーを見て、少年も顔を綻ばせた。
「では急ぎましょう。そろそろワルツが始まる頃合いです」
来た時と同じようにエスコートされ、一歩踏み出した時だった。
ふいに白い光が弾け、リュシーは眩しさに目を閉じた。




