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第6話 回復するほど貧しくなる街

翌日、第5日の朝。


 初期街の治癒院は、昨日の騒ぎが嘘のように静まり返っていた。危機を脱した剣士は仲間に付き添われて宿へ戻り、がらんとした待合室には朝の冷たい空気が満ちている。


 俺は長机の上に、ミレナから預かった運営書類の束を広げていた。


 使い込まれた勤務記録、薬材商会からの仕入れ帳、そしてギルドから発行された報酬明細書。部屋の隅にはエリシアが昨日と同じようにみすぼらしい外套をすっぽりと被り、気配を殺して座っている。


「……ミレナ。お前、先月だけで三十人も迷宮からの急患を診てるじゃないか」


 書類の数字を追いかけながら、俺は呆れ半分に声を上げた。


 向かいの椅子に座るミレナは、徹夜明けのひどい顔色をしていた。擦り切れた白衣の袖を弄りながら、彼女は力なく笑う。


「はい。初心者迷宮が近いので、どうしても無茶をする新人さんが多くて。大怪我をしても、彼らには治癒薬を買うお金がありません。少しでも助けたくて、睡眠時間を削って対応していました」


「それなのに、これか」


 俺はギルドからの報酬明細を指差した。


 回復させた件数と重症度に対して、ギルドから支払われている額が異常なほど少ない。それに比べて、魔力逆流を抑える「封魔のガーゼ」や傷を塞ぐ上級ポーションの仕入れ値は容赦なく高額だ。


 机の上の現物の数字が、残酷な事実を証明していた。


 患者が運び込まれ、ミレナがそれを治す。高価な薬材が消費される。だが、支払われる報酬は薬材費の半分にも満たない。つまり、重傷者を一人救うたびに、治癒院の資金が凄まじい勢いで目減りしていくのだ。


「金のない新人から直接は取れないし、ギルドの規定では『魔獣を討伐していない負傷者の治療には、補助率を著しく下げる』と決まっています。だから、私が命を救えば救うほど……治癒院は借金を抱えることになって……」


 彼女は自分の無力さに俯き、涙をこらえた。


 腕が悪いから閉鎖するわけではない。怠けているわけでもない。ただ懸命に働き、大勢の命を救った結果として、貧困に突き落とされている。


 誰かがサボっているなら指導すればいい。だが、これは違う。真面目に働く善人が損をするように作られた、構造的な欠陥だ。


「随分と真剣に紙切れを睨んでいるね、部外者くん」


 不意に、重い木扉が開く音と共に、嫌味な声が待合室に響いた。


 血と薬品の匂いが染み付いた治癒院には似つかわしくない、強い香水の匂いが鼻を突く。入ってきたのは、昨日と同じ豪奢な服を着たギルド査定官、マルドだった。手には、羊皮紙が挟まれた立派なバインダーを持っている。


「マルド査定官……今日は一体、何のご用で」


 ミレナが怯えたように立ち上がった。


「何のご用も何もない。今日は未払いとなっている薬材費の差し押さえ通達と、この建物の閉鎖手続きを進めにきた。もう君たちに処方できる薬はないだろう」


 俺は机の上の書類を束ね、マルドの前に突きつけた。


「あんたたちの査定はおかしい。治癒師が命を救って赤字になるなんて、どう考えても制度が破綻してるだろ。薬材費と治療報酬のバランスが崩れすぎている。これじゃあ、この街から治癒師が消えるぞ」


 マルドは俺が突きつけた書類を一瞥すらせず、心底馬鹿にしたように鼻で笑った。


「破綻? 君は世界というものをまるで理解していないようだ」


 彼は悠然と待合室の中央に進み出た。


「ギルドの、いや、この世界の資源は無限ではない。冒険者が魔獣を殺し、素材を得ることで初めて街に富がもたらされる。だからこそ、実際に敵を殺した者に最大の報酬を集中させるのが、極めて合理的で正しい『仕様』なのだよ」


「だからって、命を救った支援職を見殺しにしていい理由にはならないだろう」


「後方で安全に包帯を巻いているだけの者に、なぜ前線で血を流す剣士と同じ金が必要なんだ? 資源は、より強い英雄を生み出すために集中させるべきだ。弱者を切り捨てることで、街全体が生き残る。それが効率というものだ」


 マルドの言葉には、彼なりの一貫した論理があった。露骨な残虐さではなく、ただ冷徹に数字と効率だけを信奉している。殺した者へ払うのが仕様だと、何の疑いもなく言い切っている。


 彼は俺の腰に下がっている古い帳面を指差し、嘲笑を深めた。


「聞けば、君は辺境から来た死人帳簿屋だそうじゃないか。死んだ人間の数を数えるだけの無能な帳簿が、この合理的な査定規定を覆せるとでも思っているのかね?」


 その瞬間。


 部屋の隅、エリシアが座っている暗がりから、空気を凍らせるような冷たい圧力が漏れ出した。


 隠れ潜んでいた女神の神威だ。


 彼女は、懸命に生きようとする者が搾取され、それを「仕様」として正当化するマルドの傲慢さに激怒していた。外套の隙間から見える彼女の周囲の空間が、抑えきれない怒りによって微かに歪んでいる。


 このままでは、彼女が感情に任せて神威を振るいかねない。


 俺は咄嗟にエリシアの方へ鋭い視線を送り、首を横に振った。


 力で黙らせてはいけない。


 ここで女神の奇跡でマルドを消し飛ばしても、問題は何も解決しない。彼が信奉する「仕様」にすがる別の査定官が現れるだけだ。必要なのは神罰ではなく、制度そのものの誤りを証明する現実の証拠だ。


 俺の視線を受け止めたエリシアは、はっと息を呑み、漏れ出していた圧力をスッと収めた。


 そして、外套の奥から俺にしか聞こえないほどの微かな声で呟いた。


『……表面の言葉に騙されないで。記録の奥を見なさい、ユウ』


「……フン。貧乏人の溜まり場は空気が澱んでいてかなわん。私は街の集積所に行かねばならないのでね。そこに本日の公式査定帳簿の写しを置いておく。夕方までに荷物をまとめておくことだ」


 マルドは数枚の羊皮紙を机に投げ捨てると、満足げな足取りで治癒院から出て行った。


 ミレナが絶望的な表情で、その羊皮紙を見つめている。


 俺は無言で、マルドが置いていった公式査定帳簿の写しを手に取った。


 エリシアの言葉。記録の奥。


 ただの不条理な仕様で終わるはずがない。もし本当に全体最適のための仕様なら、街はもっと豊かになっているはずだ。


 俺は小さく息を吐き、眼球に魔力を集中させた。


『表層読み』。本日一回目。


 眼窩の奥を鈍い痛みが突き抜ける。視界の色が抜け落ち、手元の羊皮紙に書かれた文字の羅列の上に、俺にしか見えない異常のサインが浮かび上がった。


 空間のバグを示す、赤い髪筋ほどの亀裂。


 それが、帳簿のあちこちに無数に発生し、蠢いている。


 亀裂が集中しているのは、ミレナのような治癒師や、武器を直す鍛冶師、迷宮で警告を発する案内役など、『支援行動』を記録した項目だった。


 亀裂は自動で正解を教えてはくれない。俺は頭痛を堪えながら、その赤い線がどこへ向かっているのか、因果の流れを目で追った。


「……そういうことか」


 支援行動の項目に集まった亀裂は、不自然に捻じ曲げられ、別の行へと強引に接続されていた。


 その接続先を辿った俺は、思わず声を漏らした。


 亀裂の終点は、すべて特定の人物たちに集中していたのだ。


 第一線で活躍しているとされる『有力冒険者』の名前。そこに、ミレナたちの行動記録が吸い込まれるように繋がっている。


 これは、単なる冷酷な効率主義の結果ではない。


 治癒や修理、避難誘導といった支援職の功績が、意図的に『有力冒険者の手柄』として付け替えられているのだ。


 マルドの言う「仕様」など大嘘だ。帳簿が、支援職の名前を消している。


 誰かが意図的に数字を改竄し、ピンハネしている。


 俺は赤い亀裂の向こう側に、先ほどのマルドの嘲笑う顔を重ねていた。権威の腐敗を暴く、反撃の入り口はここにある。

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