第5話 一人救っても、報酬はゼロ
神界からの初任務を受け、俺たちは西にある『初期街』へとやってきた。
初心者迷宮を擁するこの街は、一見すると若き冒険者たちで活気に満ちているように見える。だが、すれ違う者たちの装備は粗悪で、その顔には深い疲労と焦燥が色濃く刻まれていた。
俺の隣を歩くエリシアは、先日渡されたあの過剰に豪華な外套の上から、さらに麻布でできたみすぼらしい旅用の外套をすっぽりと被っていた。
「……おい。いくらなんでも不審者すぎないか、それ」
「仕方ないでしょう。神紋や私の姿を大勢に晒せば、無用な混乱を招きます。それに……私は、大勢の視線に晒されるのは得意ではないのです」
彼女はフードを深く被り直し、俺の背中に隠れるようにして歩幅を小さくした。神の威厳はどこへやら、今の彼女はただの気弱な世捨て人にしか見えない。
そんなやり取りをしながら、俺たちは目的の建物――街の端にある『治癒院』の重い木扉を押し開けた。
途端に、強烈な血の匂いが鼻を突いた。
「しっかりしろ! 誰か、誰か早く治癒師を呼んでくれ!」
待合室の床に、泥と血にまみれた若い剣士が転がっていた。付き添いの仲間たちがパニック状態で叫んでいる。
「どいてください、患者をベッドへ!」
奥から駆け出してきたのは、くたびれた白衣を着た同年代の少女だった。見習い治癒師のミレナだ。彼女は一人で若い剣士の身体を抱え上げようとしていたが、腕力も人手も足りていない。
俺は無言で駆け寄り、剣士の肩を担いで奥の処置台へと運んだ。
「あ、ありがとうございます……っ! すぐに止血を……!」
処置台に寝かされた剣士の胸元を見て、俺は息を呑んだ。
魔獣の鋭い爪か角で抉られたのだろう。肺まで達する深い裂傷から、どくどくと鮮血が溢れ出ている。
だが、問題は血だけではなかった。
ミレナが清潔な布を押し当て、微弱な治癒術を流し込もうとするが、傷口からバチバチと青白い火花のようなものが散り、布を弾き飛ばしてしまう。
「だめ、魔力逆流を起こしてる……! 封魔のガーゼか、中和用の上級ポーションは……っ」
ミレナは震える手で薬品棚を漁るが、そこには空の小瓶が転がっているだけだった。
「どうして……昨日、ギルドに前借りを申請したのに……これじゃ、魔力の暴走を止められない。出血で死んじゃう……っ!」
彼女の目から絶望の涙が溢れる。
腕不足ではない。明らかに、治癒院の物資が完全に底を突いているのだ。
俺は目を細め、痛みを覚悟して神経を集中させた。
『表層読み』。本日一回目。
鈍い頭痛と共に、剣士の胸の周囲に無数の赤い亀裂が浮かび上がる。
俺の目は「正解」を自動で教えてはくれない。見えるのは、意図と結果のズレ、そして因果の候補だけだ。
赤い亀裂の動きを追う。物理的な出血のラインと、体内で暴走している魔力のライン。二つの因果が絡み合い、互いを悪化させている。魔力の逆流が出血を早め、失血がさらに魔力制御を失わせているのだ。
逆に言えば、魔力の逆流さえピンポイントで抑え込めば、ただの裂傷として止血できる。
「ミレナ、俺の言う通りに押さえろ」
俺は治癒術を使えない。だが、どこを塞げばいいかは分かる。
「傷口の右下、肋骨の隙間だ。そこに一番厚く布を当てて、体重をかけろ」
「えっ、でも魔力が……!」
「いいからやれ! 魔力は俺がどうにかする」
ミレナが弾き飛ばされるのを覚悟で、指示した部位を強く圧迫する。
俺は部屋の隅、暗がりの中で身を縮めているエリシアへ鋭い視線を送った。
声は出さない。だが、視線と顎の動きで、空中に浮かび上がる赤い亀裂の『結節点』――魔力逆流の根本を指し示す。
フードの奥で、エリシアの目が微かに光った。
彼女はマントの影でそっと指先を動かす。詠唱もなく、光すら伴わない、神の業による極小の修正術式。
それが患者の胸に到達した瞬間。バチバチと鳴っていた魔力の火花が、嘘のようにスッと消え去った。絡み合っていた赤い亀裂が一本、また一本と閉じていく。
「……え?」
ミレナが呆然と声を漏らす。
魔力の抵抗が消えたことで、彼女の懸命な圧迫と微弱な治癒術が、ようやく物理的な肉体に届き始めた。
激しかった出血が嘘のように収まり、死の淵にあった剣士の呼吸が、浅く、だが確実に安定していく。
「止まった……血が、止まった……!」
ミレナは血まみれの手を震わせ、その場にへたり込んだ。待合室から覗き込んでいた仲間たちが、わっと泣き声を上げて処置室になだれ込んでくる。
「ミレナ先生、あんたたち……本当に、本当にありがとう……っ!」
剣士の仲間の一人が、俺の手を力強く握りしめて涙を流した。
俺は今まで、事故が起きた「後」の証明しかできなかった。だが今、初めて目の前で生きている人間を救えたのだ。
「俺じゃない。処置をしたのは彼女だ。それと……」
俺は部屋の隅を振り返った。
共に命を救ったはずのエリシアは、感謝の輪に加わるどころか、棚の影に隠れるようにしてさらに深くフードを被っていた。
村人の前で見せたあの高貴な宣告は、やはりただの武装だったのだ。彼女は感謝の言葉を受け取ることを、何よりも恐れている。
「……騒がしいな。何事かね」
感動に包まれていた処置室の空気を、冷や水を浴びせるような声が切り裂いた。
入り口に立っていたのは、仕立てのいい豪奢な服を着た三十代ほどの男だった。胸元には、ギルドの査定官を示す銀のバッジが光っている。
「マルド査定官……」
ミレナが顔を青ざめさせ、立ち上がった。
マルドと呼ばれた男は、血まみれの処置台と、息を吹き返した剣士を一瞥し、手元の羊皮紙に何かを書き込んだ。
「迷宮の第三層で逃げ帰ってきた新人パーティか。命があっただけ儲けものだな」
「あの、マルドさん。昨日お願いしていた前借りの件ですが……。今、最後の予備布を使ってしまって、もう本当に包帯一本残っていません。せめて、この急患の特別報酬か、最低限の薬代だけでも……」
ミレナが縋るように頭を下げる。
だが、マルドは冷たく鼻で笑った。
「却下だ。ギルドの規定は知っているだろう、ミレナくん。報酬も補助金も、すべて『魔獣の討伐点』に応じて支払われる」
マルドは羊皮紙をペンでコツコツと叩いた。
「彼らは魔獣から逃げ帰り、討伐を果たしていない。つまり、彼ら自身の報酬はゼロだ。ゆえに、敗残兵を治療した君の治癒院にも、支払うべき報酬は発生しない」
「そんな……! でも、命は救ったんです! 薬材は消費しているのに、一銭も出ないなんて……」
「命を救った? それがどうした」
マルドは心底どうでもよさそうに肩をすくめた。
「生きていようが死んでいようが、魔獣を殺さなければ資源は生み出されない。一人救ったところで、ギルドへの貢献度はゼロだ。それがこの街の『仕様』だよ。死人の世話焼きで赤字になるのは、君の経営努力が足りないからだ」
その言葉に、俺は奥歯を強く噛み締めた。
エリシアが棚の影で、怒りに服の裾を強く握りしめているのが見えた。神威で男を黙らせようとする気配を感じたが、俺は目でそれを制止した。
力で黙らせても意味がない。
治癒院が閉鎖に追い込まれている理由は、見習いの腕不足などではなかった。
治せば治すほど、薬材が減る。
命を救えば救うほど、治癒院が貧しくなる。
善人が損をするように作られた、あまりにも歪んだ制度。それが、俺たちが次に修正すべき世界のバグの正体だった。




