第36話 バグは、俺一人には見えない
第36日の午後。
王都の外縁部に急造された前線基地で、俺は中央受信卓の水晶盤面を血走った目で睨みつけていた。
ルミナリエル全域の空を覆う鉛色の雲から、ヴァルドレンの耐久試験による『魔獣潮』が波状的に降り注いでいる。俺の左耳は相変わらず高い音を拾わず、直接の『表層読み』では空間の微細なノイズを処理しきれず、因果の線が断片化してしまう状態が続いていた。
「ユウ、追加のデータが届きました。座標へ入力します」
背後で、神力を失ったエリシアが泥だらけの指先を動かし、通信網から送られてくる短文データを、受信卓の空中立体地図へ次々とマッピングしていく。
俺の代わりに世界を見るのは、神の目ではない。ルミナリエル全土で泥水にまみれながら戦っている、現場の人間たちだ。
『迷宮隊・ガルドより。第三陣形、魔獣の物量に押され後退中。だが妙だ、奴らの進路は王都へ一直線じゃなく、北東へ偏って押し寄せてきている』
『初期街・ミレナより。前線から運ばれてきた負傷者の九割が、左半身に深い裂傷を負っています。魔獣は正面からではなく、右側――つまり北東の死角から回り込んで攻撃している可能性が高いです』
『職人街・バルクより。北東エリアの第二、第三中継器の負荷が異常だ。あの辺りの空間の魔力圧が跳ね上がってやがる』
受信卓の水晶に浮かび上がる、無数の短いテキストデータ。
俺は目を閉じ、左耳の鈍い耳鳴りを無視して、それらのテキスト情報を頭の中で整理し、立体地図の上に重ね合わせていった。
全員の観測データが、一つの方向を指し示している。
「ガルドの進行ルートの偏り、ミレナの負傷部位の統計、バルクのインフラの魔力負荷……すべてが、王都の『北東』の山岳地帯に集中している」
俺はゆっくりと目を開け、受信卓の立体地図だけを真っ直ぐに見つめた。
直接現場を見て、異常箇所を探るのではない。
現場の住民たちが送ってきた記録の束。その記録同士の間に生じる微細な『矛盾』と『ズレ』を、脳内でパズルのピースのように噛み合わせていく。
「……結べ」
直後。
空中の立体地図の上に、直接『表層読み』を使った時とは全く異なる形式の、鮮やかな「赤い線」がスッと浮かび上がった。
記録の集合体を媒体にして、世界のバグを再構成する力。
驚くべきことに、脳髄を焼くような過去の失敗痛は一切流れ込んでこなかった。他者の記録をフィルターにしているため、俺自身のトラウマに直結しないのだ。おまけに、一日の使用回数の上限も消費していない。
「これが……俺の目の、新しい使い方」
俺は痛みのない視界で、地図上に浮かび上がった赤い線を追った。
だが、安堵したのも束の間だった。
「……待て。線が、途切れている」
北東の山岳地帯を『異常の発生源』として形作られようとしていた赤い線が、山岳の入り口付近で、まるで不自然なノイズに掻き消されるようにブツリと途切れてしまったのだ。
理由は明白だった。
俺の左耳の欠損を補うために、他者の記録を繋ぎ合わせている。しかし、その『他者の記録』自体に、何か決定的な欠落や見落としがあれば、バグの全体像はこうして歪んでしまう。
「北東が異常源じゃないのか……? だが、全地域のデータは北東を指している。俺の推測が間違っているのか?」
俺が地図の座標を睨みつけ、焦りに額の汗を拭った、その時だった。
ピリリリッ! と。
受信卓の隅で、一つの通信が高い優先度で割り込んできた。
正式な観測者として認められた、辺境村の少女・ティアからの『観測札』のデータだった。
『ティアより、至急報告。ガルド隊長たちは北東から魔獣が来ていると言っていますが、風の動きがおかしいです』
俺は息を呑み、彼女の短いテキストを目で追った。
『北東から強い風が吹いているのに、私の持っている採取籠の金属音が、風上からじゃなくて、南の渓谷の方から高く鳴っています。金属音は、魔力流の歪みに共鳴する音です。……絶対に、南の渓谷に私たちをおびき寄せる罠があります』
「……南の、渓谷」
俺は無意識に、音が拾えない自分の左耳に触れた。
風向きと、金属音の不一致。
それは、高音域が聞こえなくなった今の俺の耳では、現場にいたとしても絶対に気づけなかった決定的な『矛盾』だった。
もし昔の俺なら。「俺の目が一番正しい」「俺の解析によれば北東が異常源だ」と、子どもの観測データをただのノイズとして弾き飛ばし、間違った防衛線を敷いて全滅していただろう。
俺だけが正解を見つけられるという、あの傲慢で孤独な感覚。
俺はそれを、完全に手放した。
「……聞こえない音は、お前の耳に任せるよ、ティア」
俺は、ティアの送ってきた『南の渓谷からの金属音』のデータを、最大の重みづけをして立体地図に再入力した。
ガルドの戦闘記録、ミレナの医療データ、バルクの負荷データ。それらはすべて、北東に注意を向けさせるための『陽動』だったのだ。
ティアの観測データを接着剤にした瞬間。
途切れていた赤い線が、地図の上でうねるように向きを変え、北東ではなく南の渓谷の奥深くへと真っ直ぐに繋がり、巨大な『誘導罠』の構造を鮮明に描き出した。
「見えたぞ……!」
俺は通信用の伝声管を掴み、ルミナリエル全域に向けて叫んだ。
「ユウより各地域へ! 北東の魔獣はただの陽動だ! 本隊の異常源と巨大な誘導罠は『南の渓谷』に仕掛けられている!」
自分の目だけで出した仮説ではない。住民たちの目と耳が導き出した、確かな新仮説だ。
「ガルド、防衛線を南へ向けろ! ミレナ、野戦病院を北へ後退させろ! バルク、南側の光脈出力を最大まで引き上げろ!」
俺の通信に対し、各地域から即座に短い了承の合図が返ってくる。
もはや俺は、一人で世界を背負う孤独な観測装置ではない。現場の人間たちと記録を繋ぎ、彼ら自身の判断で世界を動かすための、ただの『調整役』だった。
「これで、魔獣潮の第一波の軌道は完全に読み切れましたね」
背後で、エリシアが泥だらけの顔を綻ばせて言った。
「ああ。バグはもう、俺一人には見えない。……この世界の人間全員で、ヴァルドレンの理不尽な試験を叩き潰すぞ」
空を覆う鉛色の雲の下。
神の奇跡に頼ることなく、住民たち自身の目と記録でバグの正体を暴いたルミナリエルの反撃が、今まさに始まろうとしていた。




