第35話 最終監査が、魔獣潮を起動した
第36日の朝。
王都の外縁部に急造された前線基地の空気は、張り詰めた弓の弦のように冷え切っていた。
俺の隣には、手縫いで繕われた不格好な外套を羽織るエリシアが立っている。彼女はすでに神力を失い、ただの人間と同じように朝の寒さに肩を震わせていた。
空を見上げると、いつもの透き通った青空はなく、不吉な鉛色の雲がルミナリエル全土を重く覆い尽くしていた。
『これより、ルミナリエルの最終耐久試験を開始する』
鉛色の空から、ヴァルドレン審査長の無機質で圧倒的な声が響き渡る。
『試験内容は、複数浮遊島を横断する魔力流の意図的遮断、およびそれに伴う【魔獣潮】の発生である』
その宣告と同時だった。
王都から遠く離れた空域に、巨大な黒い靄のようなものが複数出現した。それは瞬く間に膨れ上がり、ルミナリエルの空を喰い尽くすかのような巨大な群れ――何万という魔獣の津波となって、各地域へと波状的に押し寄せ始めた。
「来ます……! 過去のどのデータにもない規模の魔獣潮です!」
基地の観測員たちが悲鳴のような報告を上げる。
ヴァルドレンは、俺たちが新しく組み上げた光脈網と防衛線がどれだけ耐えられるかをテストするために、登録基準ギリギリの最大負荷をかけてきたのだ。
俺は前線基地の観測台に立ち、眼球に意識を集中させた。
『表層読み』。本日一回目。
視界が暗転し、魔獣の群れが向かおうとしている因果の線を捉えようとする。
だが。
「……っ!?」
俺は思わず片目を押さえた。
空中の赤い亀裂が、ブツブツと途切れて見えないのだ。
試験結界による強烈な魔力干渉だけが原因ではない。俺の『左耳』だ。
二度目の深読みの代償として高音域の聴覚を失った俺の身体は、今まで無意識に拾っていた「魔獣の羽ばたき」や「遠くの風が岩肌を削る音」といった微細な環境音を空間情報として統合できなくなっていた。
入力データが物理的に欠落しているせいで、バグの先読みが上手く結像しない。
「ダメだ、もう一度……!」
俺は焦りを覚えながら、立て続けに力を行使した。
『表層読み』。本日二回目。
強烈な頭痛がこめかみを殴りつけるが、やはり結果は同じだった。
王都へ向かう本隊の動きはなんとなく分かる。だが、群れがどこで分岐し、どの村の防壁を狙おうとしているのか、細かな因果の分岐点がノイズにまみれて完全に断片化している。
「くそっ……見えない! 魔獣潮の正確なルートが特定できない!」
俺は観測台の柵を強く叩き、吐き捨てるように言った。
今までの俺は、一人で世界全体のバグを俯瞰し、誰よりも早く正解を出して現場に指示を出してきた。だが、今の俺は、自分の身体の欠損のせいで、迫り来る危機を正しく捉えることすらできない。
このまま正確な指示が出せなければ、ガルドたちが展開している防衛線は魔獣の波に呑まれ、瓦解する。
絶望的な無力感が、俺の足元から這い上がってきた。
「ユウ」
その時、隣にいたエリシアが、そっと俺の腕に触れた。
神の力による反響遮断はない。ただの、冷えた人間の体温だった。
「焦らないでください。あなたはもう、一人でこの世界すべてを見る必要はないんです」
彼女は、前線基地の奥に設置された通信用の中央受信卓を指差した。
「……私たちの世界には、すでに彼らの『目』があります」
エリシアの言葉に導かれるように受信卓を見ると、巨大な水晶の盤面が、けたたましい勢いで発光と印字を繰り返していた。
ルミナリエル全土に敷かれた『功績札通信網』。
そこから、各地域で魔獣潮を迎え撃っている住民たちの観測データが、滝のように流れ込んできているのだ。
『初期街・ミレナより。東部街道にて負傷者三名発生。裂傷の角度から、魔獣の群れは上空からではなく低空を滑空していると推測』
『迷宮隊・ガルドより。第二陣形突破された。群れの進行速度、事前の想定より三割速い。足元の岩盤が脆くなってる』
『職人街・バルクより。第七中継器の魔力負荷が限界値スレスレだ。このままじゃ熱で基盤が溶けるぞ!』
さらに、俺の目を引く一つの短い通信があった。
『辺境村・ティアより。東の森の風向きが変わりました。いつもは聞こえる青鈴花の音が、今はまったく聞こえません』
それは、俺の左耳では決して拾うことのできない、小さな子どもだけが感じ取れる微細な風の音の記録だった。
「……これを、重ねるのか」
俺は震える手で、受信卓の横に広げられたルミナリエル全域の立体地図のパネルを操作した。
俺の不完全な『表層読み』で見えた断片的な赤い亀裂の映像。
そこに、ミレナの医療データ、ガルドの戦闘データ、バルクの負荷データ、そしてティアの環境データを、テキスト情報として次々と入力し、地図上で重ね合わせていく。
すると、断片的だった赤い亀裂の一部が、地図の上でわずかに繋がった。
「……今のは」
完全な因果線には程遠い。だが、住民の記録を重ねれば、欠けた情報を補えるかもしれない。
「ユウ、第一波の魔獣潮が、各防衛線に接触するまであと数分です!」
観測員の緊迫した声が響く。
「ああ、分かってる」
俺は受信卓の前に立ち、ルミナリエル全域の地図を睨みつけた。
左耳は相変わらず何も聞こえない。だが、俺にはこの世界中に散らばった数万人の『目と耳』が味方についている。
「全地域の観測データを上げ続けろ。俺たちの手で、このふざけた試験のバグを全部炙り出してやる」
俺たちは、神の奇跡に頼ることなく、住民全員の記録という武器を手にして、世界を呑み込もうとする魔獣の津波を迎え撃とうとしていた。




