第34話 神の手を離れた朝
第35日の朝。
王都広場のテントに差し込む淡い朝日で、俺は目を覚ました。
固い長椅子の横に置かれた簡易ベッドで、青ざめていたエリシアの頬に少しずつ赤みが戻り、規則正しい寝息が聞こえている。昨夜、俺の腕の中で倒れた時は本当に心臓が止まるかと思ったが、俺が組み込んだ中止条件が土壇場で作動したらしく、命に別状はないようだ。
俺は左耳に軽く手を当てた。やはり、外を吹き抜ける風の音や、遠くで荷車が動く高い金属音は、綺麗に抜け落ちている。右耳だけで拾う音は距離感が掴みづらく、まだ慣れない。だが、痛みはない。
「……ん、ユウ……?」
ベッドの上で、エリシアがゆっくりと目を開けた。
「無事か、エリシア。身体の具合はどうだ」
「……はい。とても、体が重くて……まるで、鉛を背負っているみたいです。それに、お腹が空きました」
彼女はゆっくりと身を起こし、不思議そうに自分の両手を見つめた。
無理もない。神核を燃やし、その力をほぼ使い果たした今の彼女の身体は、完全に『人間と同等』の質量と制約を抱え込んでいるのだから。
「魔力網の接続は、完璧だ。受信卓を見てみろ」
俺が指差す先、中央受信卓の水晶には、ルミナリエル全域の光脈網の稼働データが静かに明滅していた。
「神界からの『どこへ魔力を配分しろ』という中央命令がなくても、各地域が独自の判断で足りない場所へ魔力を融通し合ってる。バルクが試作した交換式部品も、問題なく機能しているみたいだ」
「それだけではありませんよ」
テントの入り口に立っていたノクトが、記録書物を開きながら言った。
「王都の防壁縮小に伴い導入された『灯渡し』ですが……昨夜一晩で、完全に住民の夜間監視の『文化』として定着しました。彼らは神の結界に依存せず、自らの行動で街の安全を担保し始めています」
俺とエリシアは顔を見合わせた。
すべてが、神の手を離れ、住民自身の手で回り始めている。昨日までの絶望的な状況が嘘のように、世界は静かで力強い脈動を取り戻していた。
だが、その穏やかな朝の空気は、突如として響き渡った冷徹な宣告によって無残に引き裂かれた。
『ルミナリエルの管理者、ならびに観測個体に告ぐ』
テント内の空気が凍りつく。神界審査長ヴァルドレンの、感情を削ぎ落とした威圧的な声だった。
『貴様らが提出した地域連署と正規改修の仮登録は、規則に則り受理した』
「……受理しただと? なら、世界炉の停止は――」
『ああ、世界炉の停止命令は撤回してやろう。だが、思い上がるな』
ヴァルドレンの声が、一段と冷酷な響きを帯びる。
『私は審査長の権限において、登録済みである【最終耐久試験】の日程を、明日、第36日へと前倒しして実行する』
「なっ……!」
俺は受信卓を強く叩いた。
「ふざけるな! 猶予期間は七十二時間あるはずだろ!」
『世界炉の停止の猶予はな。だが、すでに登録されている試験の日程を変更するのは、私の単独の裁量で可能なのだよ』
「……その通りです、ユウ」
ノクトが、淡々と規則の壁を解説する。
「世界炉の停止には副署が必要ですが、『日程権限』は審査長が単独で行使できる合法的なものです。私たちには、これを止める法的根拠がありません」
俺は奥歯を噛み締めた。ヴァルドレンは、俺たちが築き上げた新しい光脈網が本当に機能するかどうかを、猶予期間を与えずに叩き壊しに来たのだ。
『神力を持たぬ泥人形と、欠陥を抱えた観測個体。貴様らの作った砂上の楼閣が、明日の魔獣の波にどこまで耐えられるか、見せてもらうとしよう』
その宣告を最後に、神界からの強烈な圧はフッと消え去った。
「……明日、か」
俺は大きく息を吐き出した。神力を持たない今の俺たちにとって、一日も早く準備の時間を削られることは致命的だった。
「ユウ」
背後で衣擦れの音がして、振り返る。
エリシアが、ベッドの端に座り、小さな木箱から針と糸を取り出していた。
彼女の膝の上には、あの過剰な装飾が施された美しい外套が広げられている。崖上村の祭りで袖を焦がし、昨日の瓦礫撤去で泥にまみれ、あちこちが破れてしまった代物だ。
かつての彼女なら、神の権能を使い、指先一つで一瞬にして新品同様に修復していただろう。だが、今の彼女は、震える手で不器用に針に糸を通し、破れた箇所を一針ずつ、手縫いで繕い始めていた。
「……そんなこと、今やらなくても」
「いいえ、やらせてください」
彼女は針先を見つめたまま、ポツリと言った。
「私は、神力を失いました。もう、奇跡でこの世界を直すことはできません。だから……せめて自分の破れた服くらい、自分の手で直せるようになりたいんです」
チクッ、と針が指先を刺し、小さな血の玉が滲む。彼女は小さく「痛っ」と声を漏らしたが、それでも縫う手を止めようとはしなかった。
俺は、その不格好に縫い合わされていく外套の袖を、黙って見つめていた。
彼女が痛みに耐え、手縫いで服を直したからといって、百年前の隠蔽の罪が帳消しになるわけではない。ノアの死に対する免罪符にもならない。俺の腹の底にある怒りも、そう簡単に消え去りはしない。
許しの結論は、まだ出ていないのだ。
だが、それでも。
「……エリシア」
俺は、彼女の隣に腰を下ろし、縫い終わって結び目を作ろうとしている彼女の手を、そっと押さえた。
「あんたはもう、女神の権能は使えない。空から奇跡を起こす力もない。……だから、明日の最終試験には、俺たち人間と同じ地面に立つ『文化設計者』として、現場に来てほしい」
エリシアは、驚いたように目を見開いた。
「あの『限定再契約』は、互いの干渉を防ぐための冷たい義務だった。だが、明日は違う」
俺は、彼女の不器用な繕い目を見つめながら言った。
「契約なんてなくても、俺たちは同じ現場へ向かう。あんたが作った文化と、俺が見つけたバグの修正で、この世界がヴァルドレンの理不尽に耐えられるってことを、一緒に証明してやるんだ」
それは、監査官と管理女神という義務的な関係を超えた、新しい形の『相棒』としての提示だった。
エリシアの目から、ポロリと一粒の涙がこぼれ落ちた。
彼女は手元の不格好な外套を愛おしそうに抱きしめ、そして、ひどく人間らしい、泥臭くて美しい笑顔を見せた。
「……はい、ユウ。私たちはもう、逃げません」
神の奇跡がない世界。俺の片耳の聴力も、彼女の強大な力も失われた。
だが、住民たちの合意と、互いの欠落を補い合う意志だけが、確かな武器として残っている。
俺たちは、明日迫る神界からの最後の試練――最大の魔獣潮を迎撃するため、テントを出て王都の現場へと歩き出した。




