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第37話 英雄のいない世界が、動き出す

第37日の朝。


 王都外縁の前線基地に設置された中央受信卓は、ルミナリエル全域からの通信データで絶え間なく明滅を繰り返していた。


 俺の左耳は相変わらず高い環境音を拾わない。だが、そんな欠損はどうでもよかった。俺の目の前には、世界中に散らばった数万人の『目と耳』が送ってくる記録が、鮮明な情報として存在している。


「南の渓谷に巨大な誘導罠がある」という新仮説に基づき、各地域の部隊が一斉に動き出していた。


『初期街・ミレナより。分散医療網、完全に稼働中です』


 受信卓に、ミレナからの力強い通信が届く。


 彼女は、負傷者を一つの巨大な野戦病院に集めてパンクさせるような愚かな真似はしなかった。重症度と、魔獣の右側からの回り込み攻撃による『左半身の裂傷』というデータに合わせ、複数の安全な地下施設へ患者を分散移送する『患者移送網』を構築していた。


 医療資源が足りないなら、ネットワークで補う。彼女の泥臭い交渉で勝ち取ったシステムが、死者をゼロに抑え込んでいた。


『迷宮隊・ガルドより。防衛線を南へ向け、大きく後退中。魔獣の圧は凄まじいが、陣形は崩れていねえ』


 ガルドが率いる迷宮隊も、かつてのような『英雄一人の突破力』に依存した無茶な突撃はしていない。


 彼らは重盾を構え、各隊長の責任欄(現場判断)に基づいて少しずつ後退しながら面で支える戦術を取っていた。魔獣を倒すのではなく、俺の仮説に従い、南の渓谷へと『流す』ための戦い方だ。誰か一人の自己犠牲に頼らない、凡人たちの強固な連携がそこにあった。


「……ユウ、南部水路の第三区画で、魔獣の接触による光脈網の一部損傷が報告されました!」


 背後で受信卓のサポートをしていたエリシアが、切羽詰まった声で叫んだ。


 中継器が壊れれば、そこから魔力流が漏れ出し、誘導罠の威力が落ちる。


「バルクの爺さんに通信を繋げ。王都からの予備部品の到着は――」


 俺が指示を出そうとした、その時だった。


『バルクより。王都からの補給なんか待ってられるか。現地の若い衆が、隣村から外してきた交換用パーツをもうはめ込んだ。第三区画、復旧完了だ』


 俺は通信の文字を見て、思わず口角を上げた。


 バルクが試作した『交換式部品』。見た目も素材もバラバラで、俺が設計した共通規格の美しさなど微塵もない代物。だが、核となる接続部だけが規格化されているため、現場の職人がすぐに修理して使い回すことができるのだ。


 俺の独りよがりな正しさが現場の泥臭い現実に敗北した結果が、こうして世界を繋ぎ止めている。


『伝令の兄ちゃんが、パーツを背負って走ってくれたおかげで助かったぜ』


 バルクの通信の末尾に添えられた言葉に、俺は少しだけ目を丸くした。


「……レオン、か」


 先日、エリシアによって英雄の『祝福』を強制解除された若き剣士。


 彼は万能感も、魔獣を紙切れのように両断する圧倒的な筋力も失った。ただの、痛みに顔をしかめ、疲れれば息を切らす普通の若者に戻ったのだ。


 だが、彼は特別扱いされて保護されることを拒んだ。粗末な革鎧を着て、重い交換用パーツを背負い、ただの輸送班員として各拠点を走り回っている。彼もまた、失われた英雄ではなく、この街を守る一人の冒険者として自分の役割を全うしていた。


 ふと、背後でガシャンという木箱が崩れる音がした。


 振り返ると、エリシアが泥濘に足をとられて転び、運んでいた支援物資の木箱を落としてしまっていた。


 彼女は神力を失い、俺たち人間と同等の体力しか持たない。少し重いものを運べば息が上がり、手縫いで直したばかりの外套も、すでに膝のあたりが泥で汚れ、再び小さく破れてしまっている。


「……っ、痛っ……」


 彼女は擦り剥いた手のひらを見て顔をしかめたが、決して泣かなかった。


 すぐに立ち上がり、膝の泥をパンパンと払い落とすと、自分よりも大きな木箱を再び抱え直した。失敗しても、無様でも、彼女は決して自分の役割から逃げようとしない。


 百年前、彼女は住民の顔を見ることができず、真実を隠蔽して安全な中央塔に引き籠もった。だが今の彼女は、神の威厳をすべて失った不格好な姿で、人間たちと同じ地面を踏み締め、泥にまみれて木箱を運んでいる。


「……おい、落とすなよ。中身は貴重な回復薬だぞ」


 俺が声をかけると、エリシアは木箱から顔を半分だけ出し、少しむくれたように唇を尖らせた。


「落としません! これでも、文化設計者として……住民に選ばれるための、大事な仕事ですから!」


 その言葉には、かつてのような恐怖や逃避の響きはなかった。


 俺は、泥だらけの外套を着た彼女の背中を、かつての「隠蔽の罪を監視すべき対象」としてではなく、同じ現場で一緒に世界を直す、対等な『相棒』として見つめていた。許しの言葉はまだ出せないが、彼女の背中を頼もしく思う気持ちに嘘はなかった。


「ユウ! 魔獣潮の第一波が、南の渓谷の手前まで到達しました!」


 観測員の声で、俺は再び受信卓に向き直った。


 立体地図上の赤い線が、南の渓谷に向けて大きく収束していく。作戦は順調だ。


 しかし、渓谷の奥深くに仕掛けられた『巨大な誘導罠』を完全に起動させ、群れを奥まで追い込むためには、最後のフェーズで極端な魔力流の偏りを生じさせる必要があった。


「……ここから先は、俺の指示で動かせる領域じゃない」


 俺は立体地図の魔力配分ゲージを睨みつけた。


 罠を起動させるための魔力を確保するには、どこかの供給を一時的に絶たなければならない。


 王都の防壁をさらに薄くして魔力を南へ回すか。それとも、辺境の避難路の維持を優先し、別の商業区から魔力を引き剥がすか。


 これは、全体の効率を計算して俺が独断で決める『正解』ではない。


「ユウより各地域代表へ」


 俺は伝声管を掴み、ルミナリエル全域へ向けて静かに通達した。


「誘導罠の起動に必要な魔力が足りない。……第30日の会議で取り決めた『事前連署』の内容に従い、各地域で『自分が引き受ける損失』を選択し、実行しろ」


 俺が指示を出すのはここまでだ。


 住民たちは、かつてヴァルドレンが「危機に直面すれば人間はエゴを剥き出しにして自滅する」と断言した通りに、自分の安全を優先して魔力を奪い合うのか。


 それとも、自分たちの意思で署名した連署の通り、自らの痛みを引き受けて世界を回すのか。


 受信卓の水晶が、静かに明滅を続けている。


 王都の特権層が、辺境の住民たちが、それぞれの地域でどんな決断を下すのか。


 英雄のいない世界が、自らの損失を引き受けるための、真の試練の時間が始まろうとしていた。

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