第31話 女神の神核を、世界炉へくべる
第31日。王都の広場に張られた仮設テントの中で、俺とエリシアは沈黙に沈んでいた。
机の上には、王都の特権余剰を辺境へ回し、世界全体で損失を共有する新しい光脈網の再設計図が広げられている。構造自体は、ヴァルドレンの耐久試験にも耐えうる理にかなったものだ。
だが、それを起動させるための莫大な魔力――古い光脈から新しい光脈へ切り替える一瞬の『橋渡し』となるエネルギーが、決定的に不足していた。
「……隣の第二十七世界から、一時的に魔力を借り受けることはできないのか?」
俺が左耳の鈍い耳鳴りを堪えながら、代替案を口にする。
エリシアは首を横に振った。
「物理的な距離と、神界の承認プロセスを考えれば、どんなに早くても一ヶ月はかかります。監査のタイムリミットには到底間に合いません」
「なら、王都の防壁への出力をさらに一割削って、起動用の魔力に回すのは」
「それも不可能です。昨日、あなたが実測した『命の光』の数値を覚えているでしょう。防壁の出力をこれ以上削れば、最低限の魔獣忌避ラインを下回ります。起動中に魔獣の群れに直撃されれば、王都は全滅します」
いくつもの代替案を机上に並べ、検討しては、すべて論理的に棄却されていく。
時間が経つにつれ、テント内の空気は重く、息苦しくなっていった。知恵を絞り、住民の痛みを伴う合意を取り付けたとしても、それを動かすための燃料がない。設計図はただの紙切れだった。
「……ユウ」
長い沈黙の後、エリシアが静かな声で俺を呼んだ。
「一つだけ、この新しい光脈網に命を吹き込む方法があります」
「なんだ。出し惜しみするな」
彼女は自分の胸元――神紋が刻まれている心臓のあたりにそっと手を当てた。
「私自身の『神核』の一部を切り離し、移行のための緩衝材として、世界炉へくべます」
「……は?」
俺は思考が一瞬停止し、それからドンッと机を叩いて立ち上がった。
「馬鹿なことを言うな! 神核ってのは、あんたの命そのものだろうが! 先日のレオンの一件で、すでに亀裂が入って軋んでるのを俺は見てるんだぞ。それを削れば、最悪死ぬか、良くても神の力を完全に失うことになる!」
俺は彼女を真っ直ぐに睨みつけた。
「百年前の隠蔽の罪を、自己犠牲でチャラにするつもりか? 死んでお詫びして綺麗に終わるなんて、そんな身勝手な贖罪は俺が許さないぞ」
「違います!」
エリシアもまた、俺から視線を逸らさずに強く言い返した。
「私は、死んで責任から逃げようとしているのではありません。……私は、生きたいのです」
彼女は震える両手を強く握りしめ、言葉を紡いだ。
「私は百年もの間、住民と向き合うことから逃げ、嘘をついてきました。その罪は、決して消えません。……でも、私は、真実を知り、私の嘘に怒っているこの世界の人たちに、それでも最後は管理者として選ばれ、この世界に残りたいのです」
彼女の瞳には、かつてのような住民への恐怖はなかった。
「神界から押し付けられた女神としてではなく、住民に選ばれた存在になるために。これは私自身がこの世界に残る『資格』を得るための、私自身の負担です。……ユウ、私に、世界を直させてください」
その声には、死を望む者の諦めではなく、確かな未来を見据えた熱がこもっていた。
俺は荒くなっていた呼吸をゆっくりと整え、再び椅子に腰を下ろした。彼女の覚悟を、感情論だけで否定するのは間違っている。
「……分かった。あんたの神核を、再設計図の起動動力として組み込む」
俺が炭筆を手に取ると、エリシアの顔にパッと安堵の色が浮かんだ。だが、俺はすぐに釘を刺した。
「ただし、無条件の自己犠牲は認めない」
俺は設計図の余白に、新たな実行手順のルールを書き加えた。
「神核を世界炉へ接続し、新光脈の魔力網が安定した時点を『成功条件』として術式を自動解除する。そして、あんたの生命活動に致命的な影響が出る手前の数値を『中止条件』として設定し、そこに達した瞬間にすべての移行プロセスを強制遮断する。……いいな」
俺が書き込んだのは、彼女の命を物理的に保護するための安全装置だった。
「……ユウは、本当に過保護な監査官ですね」
エリシアは泣き笑いのような表情を浮かべ、小さく頷いた。
「同意します。あなたの設計したルールに従いましょう」
俺たちが新たな計画の合意に至った、まさにその直後だった。
テントの隅に置かれていた受信卓の水晶が、不吉な真紅の光を放ち、鼓膜を劈くような警告音を鳴らし始めた。
「なんだ、また光脈の欠損か!?」
俺が受信卓に駆け寄ると、そこに表示されたのはルミナリエルからの報告ではなく、神界から直接送り込まれた強烈な干渉通信だった。
『ルミナリエルの観測個体、ならびに下位女神エリシアよ』
空気を凍らせるような、ヴァルドレン審査長の冷徹な声がテント内に響き渡る。
『貴様らが王都で企てている光脈の再設計は、神界が規定した資源配分の原則を著しく逸脱している。それはもはや修正ではない。神界の秩序に対する反逆たる、無許可改修だ』
ヴァルドレンの声には、有無を言わさぬ絶対の権力が宿っていた。
『これ以上の無意味な抵抗は許さん。私は審査長の権限において、ルミナリエルの心臓部たる【世界炉】の物理停止を命じる』
世界炉の停止。
それは魔力循環と気候制御の完全なストップを意味し、この世界が数時間で死の星へと変わることを意味していた。
「待て! 俺たちは今、世界を直すための設計図を――」
『無駄だ。すでに停止の術式は起動状態に入っている』
ヴァルドレンの宣告に、俺の背筋が粟立った。
だが、その絶望的な通信に、別の回線から極めて冷静な、無機質な声が割り込んだ。
『――世界炉の物理停止プロセス、エラー。実行要件を満たしていません』
「ノクト……!」
監査補佐官ノクトの声だった。
『神界の規則第百四十二条。世界炉の物理停止には、審査長命令に加え、住民影響監査官一名と、監査神会所属一柱の副署が必要です。……私は、該当改修案に対する『住民影響評価』が欠落していることを理由に、監査官としての副署を拒否します』
『ノクト、貴様……規則を盾に私に逆らうか』
ヴァルドレンの低い怒声が響くが、ノクトは一切怯まない。
さらに、通信の向こう側から、もう一人、透き通った声が介入してきた。
『私も、副署を保留します、ヴァルドレン審査長』
「セレーネ様……」
エリシアが信じられないというように呟く。上位創造女神であり、監査神会の一席を持つセレーネ。彼女の副署がなければ、停止命令は物理的に発動しない。
『あの観測個体が見出したシステムが、このまま朽ちるか、それとも世界を更新するか。……私は、私が直接ルミナリエルへ降りて『現地確認』を完了するまで、監査神会としての副署は行いません』
ヴァルドレンの沈黙が、通信越しにも重く伝わってくる。
『……いいだろう。規則は規則だ。だが、現地確認と影響評価が終わるまでの猶予は七十二時間。それを過ぎれば、世界炉は強制停止される』
通信がブツンと切れ、テント内に静寂が戻った。
俺は大きく息を吐き出し、受信卓に手をついた。
ノクトも、セレーネも、俺たちに個人的な情けをかけたわけではない。彼らはただ、神界の『規則』を厳格に執行することで、世界炉の停止を食い止め、俺たちに時間を与えてくれたのだ。
「エリシア。ノクトが残した監査記録を覚えてるか?」
「はい。『損失と代替策を公開し、対象地域の同意を得た構造変更は、監査猶予中の正規改修として仮登録できる』……」
「そうだ」
俺は、机の上の再設計図を強く叩いた。
「ヴァルドレンはこれを無許可改修だと言った。なら、ルミナリエル全域の住民から『地域連署』を集め、神界の法に則って正規の改修として叩きつけてやればいい。そうすれば、奴は二度と手出しできなくなる」
残された猶予は、七十二時間。
このタイムリミット内に、通信網を駆使して全地域の合意を集め、仮登録を完了し、エリシアの神核を使って新しい光脈網を起動させる。
俺たちの、世界を賭けた最後の大仕事が始まろうとしていた。




