第32話 住民が、自分の世界に署名する
第32日。王都広場に設営された仮設テントの中で、俺は中央受信卓の前に張り付いていた。
七十二時間。ヴァルドレン審査長が世界炉を停止するまでの合法的な猶予期間であり、俺たちがルミナリエル全域から『地域連署』を集めるためのタイムリミットだ。
左耳が拾う音は相変わらず水の中にいるようにくぐもっており、高い音が抜け落ちた不均衡な聴覚が軽い頭痛を引き起こしている。だが、休んでいる暇はない。受信卓の水晶には、ルミナリエル各地に構築された功績札通信網から、遅延を伴いながら無数の短文報告が押し寄せていた。
神界からの一方的な命令ではない。痛みを伴う再設計図に対し、住民自身が損失を引き受ける覚悟があるかどうかの意思確認。届く通信は、決して諸手を挙げた無条件の賛成ばかりではなかった。
『初期街よりミレナ。各治癒院の馬車総動員により重症患者の地下移送網、構築完了。これをもって、病院予備魔力の一律削減に同意します』
『初期街ギルドよりガルド。防壁縮小に伴う防衛線の後退案、全権委任はしねえ。各隊長の判断責任欄を追加した独自の防衛陣形を組む条件でなら同意する』
『辺境よりバルク。中継器の設置予定地、三番目の窪地は雪解け水で沈む。尾根側へずらすなら同意する』
俺は遠隔地にいる彼らの状況を直接見ることはできないし、演説で説き伏せることもできない。できるのは、受信卓にカタカタと表示される短いテキストを読み取り、彼らの条件闘争を受け入れていくことだけだ。
だが、俺は手元の再設計図に彼らの要求を書き込みながら、自然と笑みをこぼしていた。
「……どいつもこいつも、素直に頷きやしない」
「それが、あなたの望んだ『住民の合意』でしょう?」
隣で術式の調整をしていたエリシアが、呆れたように、けれどどこか誇らしげに言った。
そうだ。彼らは自分たちの生活を守るために、俺の引いた正解の図面を自分たちに合うように修正している。現場の人間がシステムを疑い、意見をぶつけてくることこそが、この世界が生きている証拠だった。
順調に連署の数が積み上がっていく中、受信卓の端で一つの通信が赤く点滅し、エラーを吐き出した。
「ん? 辺境村からの通信か。……異議申し立て?」
俺が水晶を指でなぞると、そこには辺境村の少女、ティアの名前があった。
『ティアより。新しいルールの草案、読みました。子どもの観測札は精度が低いから、正式記録じゃなくて「参考資料」に留めるって、どういうことですか。反対します』
俺は眉をひそめた。確かに、子どもが持つ観測札のデータは、遊び半分で書き込まれることも多く、光脈網の自動補正システムに組み込むにはノイズが多すぎるという大人たちの判断で、草案段階で一段階ランクを下げていたのだ。
だが、続く通信文が、俺の胸の奥を鋭く突き刺した。
『子どもだって、変な風の音や、土の匂いには気づけます。大人には見えないものが見えることもあります。私たちの見つけた異常を、また「気のせい」にして終わらせるつもりですか。私たちの観測札も、本当の記録にしてください』
俺の左耳の奥で、鳴るはずのない高い金属音が響いた気がした。
九年前。採取場でノアが青鈴花の動きを見て「風が変わる」と記録した時。大人は誰もそれを信じず、「子どもの気のせいだ」と笑って参考資料にすら留めなかった。その結果がどうなったか、俺は誰よりもよく知っているはずじゃないか。
「……ユウ?」
エリシアが心配そうに俺の顔を覗き込む。
俺は深く息を吸い込み、受信卓の返信盤に手を置いた。
ティアの異議は、わがままや反発ではない。大人が作ったこの新しいシステムに対する、彼女なりの切実な『信頼』なのだ。記録すれば、今度こそ大人が信じてくれるはずだという、命懸けの願い。
「……エリシア。草案の条件を書き換える」
俺は通信網を通じて、全域に向けて新たな通達を送信した。
「『子どもの観測札を参考資料から外し、正式記録として扱う』。これを、地域連署の合意条件に追加する。ノイズの処理は、大人が現場の目視確認を二重で行って弾けばいいだけだ。もう二度と、子どもの警告を気のせいになんてさせない」
通信を送った数分後、辺境村から『ティア。同意します』という短い、だが力強い返信が届いた。
これで、彼女はただ助けられるだけの庇護対象から、この世界を観測し、記録し、自分の意志で署名する『主体』へと変わったのだ。
そして、第34日。
ヴァルドレンの宣告した七十二時間のタイムリミットが、今日の夕刻へと迫っていた。
俺の目の前にある受信卓のカウンターは、辺境や各街からの連署を集め、ノクトが正規改修として仮登録するために必要な『必要数』の九割にまで到達していた。
テントの奥では、エリシアが目を閉じ、自らの神核を世界炉へ繋ぐための術式回路を黙々と編み上げている。
彼女の顔に悲壮感はない。自分の命を削るという代償を背負いながらも、住民たちが自らの痛みを伴う改修に署名してくれている事実が、彼女に『この世界に残るための責任』を果たす力を与えていた。
「……あと少しだ。最後の地域からの連署さえ届けば、システム全体を再設計する仮登録が完了する」
俺は焦燥感に駆られながら、受信卓の表示を睨みつけた。
届いていないのはただ一つ。ルミナリエル最大の魔力消費地であり、特権を削られることに猛反発していた『王都中枢』――貴族区と神殿からの連署報告だった。
ヘルムート長官が自ら王都中枢へ出向き、防壁縮小と余剰魔力停止への同意を取り付けるために、徹夜で直接交渉に当たっているはずだった。
だが、数時間前から、王都中枢からの通信がパタリと途絶えていた。
「なぜ来ない。遅延のレベルじゃないぞ……」
俺は受信卓を何度も叩いたが、反応はない。
貴族たちの反発で交渉が完全に決裂したのか。あるいは、特権層の私兵が通信施設を物理的に封鎖したのか。俺は遠隔地への視点を持たないため、ヘルムートが今どうなっているのかを知る術がない。
「ユウ。神核の接続準備、完了しました」
エリシアが静かに立ち上がり、俺の横へやってきた。
彼女の胸元で、神紋が限界を告げるように明滅している。準備はすべて整っている。俺の引いた設計図も、各地域の合意も、エリシアの覚悟も。
だが、最後の王都連署が届かなければ、神界の規則上、俺たちの計画は『住民意思の欠落した無許可改修』として弾かれ、世界炉は無慈悲に物理停止される。
テントの外の空が、夕暮れの赤に染まり始めていた。
タイムリミットまで、あと一時間。
絶望的な沈黙を保つ受信卓の前で、俺は額に冷たい汗を滲ませながら、ただ届かない最後の通信を待ち続けることしかできなかった。




