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第3話 世界廃棄まで、四十日

翌朝、村の広場は異様な静けさに包まれていた。


 昨晩、空に浮かび上がった巨大な光の文字。それを幻覚だと思いたがる大人たちは小屋に引きこもり、外を歩き回っているのは俺とエリシアくらいのものだった。


 そしてもう一人。村の井戸の縁に、見慣れない黒い外套を着た痩せ身の青年が腰掛けていた。


「初めまして。私は神界の監査補佐官、ノクトと申します」


 青年は手元の分厚い書物から目を離さず、抑揚のない事務的な声で言った。


「昨晩の全域神託の通り、この世界『ルミナリエル』は次回の最終監査において、落第がほぼ確実視されています。私はその事前通知と、現状の記録保全のために派遣されました」


「落第すると、どうなる」


 俺が単刀直入に問うと、ノクトは無感情な目をこちらに向けた。


「世界全体を維持する装置、『世界炉』への資源供給が物理的に停止されます」


「……供給停止? 世界がいきなり吹き飛ぶわけじゃないのか」


「ええ。ですが、魔力循環、食糧生産、そして気候制御が段階的に機能を失います。計算上、半年ほどでルミナリエルの環境は完全に崩壊し、全住民が死に絶えることになります」


 半年。それが、世界に残された真の猶予だった。


 俺は隣に立つエリシアを睨みつけた。彼女はばつが悪そうに目を伏せている。


「あんた、創造女神なんだろ。神界に掛け合って期限を延ばすとか、その無駄にでかい神力で世界炉とやらを一瞬で直すとかできないのか」


「……誤解しないでください。私は世界をゼロから創り上げた原初神ではありません。百年前、老朽化したこの世界を引き継いだだけの『再生担当』です」


 エリシアは唇を噛み、弁解するように早口で言った。


「私に与えられているのは、景観や文化、生態系の表面的な維持権限だけです。世界炉のような根幹の規則を、私の独断で書き換えることなど不可能です」


「王都の中央塔にある世界炉の中枢は、神界審査長の管轄下でもありますからね」


 ノクトが淡々と補足した瞬間、エリシアの肩がびくりと跳ねた。彼女は王都の方向――中央塔があるであろう方角から、意図的に視線を逸らすように顔を背けた。


 その不自然な反応は気になったが、今はそれよりも優先すべき事実がある。世界が半年で終わるということだ。


「少し、時間をくれ」


 俺は二人に背を向け、自分の寝起きしている古い記録小屋へと戻った。


 軋む床板を外し、土の中に隠しておいた木箱を引っ張り出す。中には、ずっしりと重い革袋が入っていた。


 中身を机の上にぶちまける。


 ジャラッ、と鈍い音を立てて、大量の銅貨と数十枚の銀貨が散らばった。


 村の記録係として、また何でも屋として、汚れ仕事を請け負いながら何年もかけて貯め込んできた金だ。


 一枚、二枚と銀貨を数える。


 目的は一つ。この辺境の村を出て、安全な中央地域へ移住するための『通行証』を買うこと。


 魔獣の脅威に怯え、安全指定すら信用できないこの土地を捨てて、俺の警告を笑わない場所へ行く。ノアが死んだあの日から、それだけを目標に金を貯めてきた。


 銀貨の山を数え終える。足りる。通行証を買い、馬車に乗って王都へ向かうだけの額は、とうに貯まっていた。


「……意味、ないよな」


 俺は手の中の銀貨を机に放り投げた。


 銀貨が転がり、床に落ちて虚しい音を立てる。


 今すぐ通行証を買って王都へ逃げたところで、どうなる。世界炉が止まれば、半年後には王都も含めて世界中が死の土地に変わるのだ。魔獣の餌食になるか、飢えと寒さで死ぬかの違いしかない。


「逃げたい」という長年の目的が、足元からガラガラと崩れ去り、「逃げても助からない」という冷酷な現実にすり替わった。


 逃げ道がないのなら、どうするか。


 俺は机の端に置かれた手垢のついた古い帳面――『死亡台帳』に目を向けた。


 広場に戻ると、ノクトはまだ書物に何かを書き込んでおり、エリシアは所在なげに立っていた。


 俺はノクトの目の前に、持ってきた死亡台帳を突きつけた。


「あんた、規則と記録の管理役なんだろ。なら、これを見ろ」


 ノクトは怪訝な顔で台帳を受け取り、ページをめくった。その目が、わずかに見開かれる。


「これは……辺境での事故死の記録ですか。しかし、神界の公式統計では、この地域の死亡率はゼロになっていますが」


「統計が改竄されてるんだ。昨日、この女神と一緒に原因を直した。現実と記録がずれてるのは、俺の目とこの台帳が証明してる」


 ノクトは台帳の記述と、手元の書物を交互に見比べた。


「……興味深いですね。公式統計と矛盾するだけでなく、過去に神界へ提出され、却下された『辺境復旧申請』の時期と、あなたの記録にある死亡増加の時期が奇妙に符合しています」


 彼は眼鏡の位置を直し、俺をまっすぐに見据えた。


「よろしい。規則上、住民からの異議申し立て記録として、この手帳を監査資料に『仮採用』しましょう。神界も、事実と異なる統計で監査を終えるわけにはいきませんから」


「なっ、ノクト! 人間の個人的なメモを監査資料にするなど……!」


 エリシアが慌てて声を上げるが、ノクトは意に介さない。


「仮採用に伴い、最初の調査対象を通達します」


 ノクトは台帳の一つのページを指差した。


「隣の区域、『初期街』。ここ数週間、魔獣の討伐数は安定しているにもかかわらず、なぜか治癒院が閉鎖の危機に陥り、重傷者が放置されているという報告が上がっています。統計上の『安全』と、現場の『危機』が乖離している。まずはここを修正し、世界評価を回復させることが、最終監査を生き残る第一歩です」


「待て」


 初期街へ向けて歩き出そうとしたエリシアの背中に、俺は声をかけた。


 彼女が振り返り、高貴な眉を寄せる。


「何ですか。あなたも逃げ場がないことは理解したはずです。ならば、私の修正作業にその特異な目を貸しなさい。指示通りに動けば――」


「誰が、あんたの部下として動くと言った」


 俺は腕を組み、不機嫌そうな女神を見据えた。


 逃げ場がないのは事実だ。だが、相手も同じだ。俺の目と、この台帳がなければ、彼女は世界の欠陥を見つけることすらできない。


「手伝ってやる。だが、俺はあんたの便利な道具になるつもりはない」


 俺は一歩前に出て、創造女神の目を見返した。


「俺が組むための条件だ。今から言うことを、神界の契約として飲んでもらう」

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