第2話 女神さま、それは仕様ではありません
空を濃い橙色に染める夕日が、ルミナリエルの結晶樹海に長い影を落としていた。
村の入り口では、無事に救出されたティアを囲んで大人たちが安堵の声を上げている。討伐隊を待たずに危機が去ったことで、彼らは空から降り立った女神の奇跡だと信じて疑わない。
だが、俺は歓喜の輪には加わらず、急ぎ足で村の裏手へと向かっていた。
奇跡などではない。あれは、強大な神力によるただの『応急処置』だ。
エリシアが施した力技の修正は、魔力流の滞留を中和した代わりに、その余波を別の場所へ押し流したに過ぎない。俺の目には、先ほどまで採取場に固まっていた赤い亀裂が、村の生活水と微弱な魔力を供給する『水源側』へとずるずると移動していくのが見えていた。
森から追い払われた魔獣群が、今度はその歪みに引き寄せられ、水源へと向かっている。
水路が走る岩場に到着すると、澄んでいたはずの水がどす黒く濁り、逆流し始めていた。
本日三度目の『表層読み』。これで一日の上限だ。
鈍い頭痛と共に視界が暗転し、水面に浮かび上がる無数の亀裂が見える。流れは完全に水源の奥底へ向かっており、このままでは数時間以内に魔獣が村の裏口からなだれ込んでくる。
だが、表層の因果候補だけでは、水路のどこを直せばこの逆流が止まるのかが分からない。亀裂の数が多すぎる。
正確な切替点を見つけるには、もう一段階深く潜る必要があった。
『深読み』。
原則として一日に一回しか使えない、因果の最深部を特定する観測。
代償は、単なる頭痛ではない。
意識を沈めた瞬間、脳髄を直接殴られたような衝撃が走った。
「――っ、あ……!」
視界が弾け、過去の強烈な反響が現在の感覚を塗り潰していく。
聞こえるはずのない音。青鈴花を結んだ採取籠が風に揺れて鳴る、あの嫌な高い金属音。
『ユウ、お兄ちゃん……!』
九年前。ノアの小さな手が俺の指先から滑り落ちていった時の、どうしようもない絶望感と、肺が潰れるような息苦しさ。失敗した時の痛みと恐怖の記憶が、濁流となって神経を焼き切ろうとする。
見えない。亀裂の底が見えない。痛みに視界が歪み、俺は水路の冷たい石畳の上に倒れ込み、喉から声にもならない喘鳴を漏らした。
視界の端が黒く染まり始めた、その時だった。
「――無茶をしないでください、脆弱な人間の身で!」
涼やかな声と共に、ひんやりとした柔らかな感触が、泥にまみれた俺の右手を強く握りしめた。
途端に、脳を焦がしていた失敗痛の反響が、嘘のようにスッと引いていく。
荒い息を吐きながら顔を上げると、そこには美しい外套を翻したエリシアが膝をつき、俺の顔を覗き込んでいた。
「……お前、なんでここに」
「私の修正した魔力流が不完全だとでも言いたげな顔で走っていくから、追ってきたのです。案の定、自滅しかかっているではありませんか」
彼女は俺の手を握ったまま、ふいっと顔を逸らした。
村人たちの前で見せた絶対的な神の威厳はなりを潜め、その横顔には、他者の痛みに直面した不器用な動揺が浮かんでいる。
「勘違いしないでください。あなたの観測は役に立ちましたから、精神が崩壊されては困るだけです。これはあくまで、負荷を軽減するための術式接続に過ぎません」
高貴な言葉遣いで武装してはいるが、言い訳がましい。
それに、ただの術式接続なら手を直接握り続ける必要はないはずだ。彼女の手は微かに震えており、俺が受けた反響の痛みを、接続を通じて彼女自身も感じ取っているのが分かった。
敵対的な関係から始まったはずなのに、この手から伝わってくるのは、間違いなく俺を痛みから守ろうとする確かな体温だった。
その時。俺の眼球に微かに残っていた深読みの視界が、彼女の胸の奥底――神力を生み出す『神核』の表面に、髪筋のような細い亀裂が走っているのを捉えた。
だが、今はそれを問いただしている余裕はない。
「……助かる。おかげで見えた」
俺は彼女の手を握り返し、水路の奥、古びた石管と結晶樹の根が絡み合っている一点を指差した。
「あそこだ。古い水路の継ぎ目に根が入り込んで、魔力流の蓋になってる。そのせいで圧力が逆流してるんだ。そこだけをピンポイントで焼き切ってくれ」
「……分かりました」
エリシアは空いた片手をかざし、短い神言を紡ぐ。
細く鋭い光の束が放たれ、俺が指定した継ぎ目の根だけを正確に消し炭に変えた。
ボコン、と空気が抜けるような音がして、濁っていた水が一気に下流へと流れ出す。水面のあちこちに散らばっていた赤い亀裂が、音を立てて縫い合わされるように消滅していった。
魔力流が正常化し、森の奥から近づいてきていた不穏な気配も、霧散するように遠ざかっていく。
今度こそ、完全に修正できた。
俺は深く息を吐き出し、濡れた地面に座り込んだまま、懐から一冊の古い帳面を取り出した。
炭筆を走らせ、今日の日付、採取場で起きた異常連鎖、そして水源での魔力逆流を簡潔に書き留める。
エリシアが、俺の隣に立ったままその帳面を不思議そうに見下ろした。
「それは、何ですか?」
「『死亡台帳』。公式の記録には残らない、辺境で起きた事故死や異常を俺が独自に記録してるものだ。九年前の採取場の事故もここにある」
俺は帳面をめくり、ノアが死んだ日のページを開いた。今日の事故と全く同じ、安全指定区域での魔獣発生と魔力滞留の記録だ。
エリシアはそれを見ると、細い眉をひそめ、虚空に指を走らせた。彼女の目の前に、淡く光る神界の公式統計板が浮かび上がる。
「……おかしいですね。私の持つ公式記録と照合しましたが、そのような『同型事故』の死亡者は存在しません。九年前のその事故も、別の単独事故として処理されています」
その言葉に、俺は炭筆を持つ手を止めた。
「記録がない? そんなはずはない。村の人間が死んだんだぞ」
「本当です。神界の統計上、この地域の安全指定区域内での魔獣による死亡率は、過去十年間『ゼロ』になっています」
エリシアの冷たい宣告が、夕闇の迫る水路に響き渡る。
背筋にぞくりと冷たいものが走った。
ただの欠陥じゃない。
神界のシステムは、世界が壊れているという事実を隠すために、死者そのものを記録から消し去っているのだ。




