第1話 世界のバグで、妹は死んだ
空に浮かぶ島、ルミナリエル。
この世界は美しい。澄み切った魔力の流れる河川、季節を問わず淡い光を放つ結晶樹海。王都から遠く離れたこの辺境の村であっても、景色だけは神の傑作と呼ぶにふさわしかった。
だが、その美しさが人の命を保障するわけではない。
「ティアが戻らない! 誰か、討伐隊を呼んできてくれ!」
昼下がりの村の境界で、大人たちの怒声と悲鳴が交差していた。
俺――ユウ・アルセイドが現場に駆けつけた時、村の入り口に続く小道の脇には、見覚えのある採取籠が転がっていた。
籠の取っ手には、小さな金属の飾りが結びつけられている。村の少女、ティアの持ち物だ。あいつは「この飾りが鳴る時は、風の向きがおかしい」と、大人たちが気に留めないような些細な観察を口にする癖があった。
その籠の縁には、べっとりと赤い血が付着していた。
ざわめく大人たちをかき分け、俺は採取場の入り口に立つ。
ここは神界から『安全指定』を受けている区域だ。大型の魔獣は侵入できないよう結界が張られており、子どもが一人で青鈴花を摘みに入っても本来なら何の問題もない。
だが、俺の目にははっきりと見えていた。
空間を切り裂くように走る、赤い髪筋ほどの亀裂。意図された設計と、現実の結果が食い違っている場所にだけ現れる『設計痕』だ。
九年前、妹のノアが死んだあの日。安全指定の採取場で、俺はこの赤い亀裂を初めて見た。
背筋に冷たい汗が伝う。俺は懐に忍ばせた古い帳面――公式の記録から漏れた事故死を書き留めている『死亡台帳』――を服の上から強く握りしめ、目を細めた。
『表層読み』。
一日に三回までしか使えない、異常箇所とその因果候補を視覚化する力。
ズキリと、眼球の裏側を鈍い痛みが走る。視界が圧迫され、世界の色彩が一段階落ちた。
見えたのは一つの正解ではない。いくつもの原因が重なり合い、矛盾する残像となってひしめいている。結晶花の異常な開花周期、上空で滞留する魔力の淀み。それが赤い亀裂の周辺で渦を巻いていた。
「すぐに助けに行かないと手遅れになる。結界が破綻してるんだ」
俺が声を上げると、大人たちの視線が一斉にこちらを向いた。その目には、明確な侮蔑と警戒が混じっていた。
「またお前か、ユウ。適当なことを言うな。ここは安全指定の採取場だぞ」
「でも、血が落ちてる! 中で魔力流がおかしくなってるんだ。このままだと――」
「黙れ。村の記録係風情が偉そうに。夜明けまで待つか、隣街の討伐隊を呼ぶのが規則だ。お前の勘違いで村の男たちを危険に晒せるか!」
過去の厄介者扱いが、厚い壁となって立ち塞がる。
多数決も、権威ある規則も、今は何の役にも立たない。ここで彼らを説得する時間はない。
俺は舌打ちをし、制止する大人たちの手を振り払って、単独で結晶樹海の中へと駆け出した。
森の中は、外から見る美しさとは裏腹に、息が詰まるほどの魔力の淀みに満ちていた。
肺に吸い込む空気が重い。足元の青鈴花は季節外れの狂い咲きをしており、異常な光を放っている。
数分ほど奥へ進んだ先の開けた場所で、俺は足を止めた。
「……ティア!」
結晶花の群生地の中央で、小さな背中が震えていた。
彼女を囲んでいるのは、辺境の森には存在してはならない三体の上位魔獣だった。黒い体毛に覆われ、四肢に鋭い魔力の刃をまとった獣。安全指定の結界など、とうに意味を成していない。
剣を抜いたところで、戦闘能力が平均以下の俺が勝てる相手ではない。
俺は木の陰に身を隠し、呼吸を整えて再び眼球に意識を集中させた。
本日二度目の『表層読み』。
再び頭痛が脳を揺らす。視界が明滅し、赤い亀裂が魔獣たちの周囲で複雑に絡み合うのが見えた。
なぜ、安全区域に上位魔獣が引き寄せられたのか。
赤い残像が、三つの要素を線で結んだ。
一つ、足元で一斉開花した結晶花が放つ魔力の滞留。
二つ、上空の淀みが蓋となり、その魔力が逃げ場を失っていること。
そして三つ。ティアの足元に転がっているもう一つの採取籠。その取っ手につけられた金属の飾りが、淀んだ風に揺れて発する『高い金属音』。
これらが最悪の形で連鎖し、魔獣の聴覚と魔力感知を狂わせ、誘引する餌となっていたのだ。
正解が分かれば、戦う必要はない。
俺は腰のポーチから発煙筒と火打ち石を取り出し、結晶花の密集地帯に向かって力任せに投げつけた。
炸裂音と共に煙が立ち上り、一斉開花していた花が衝撃で散る。空間に滞留していた魔力のバランスが崩れ、上空の淀みに風穴が開いた。
魔獣たちが混乱し、一斉に煙の方へ顔を向ける。
その隙に俺は地面を蹴って飛び出し、ティアの足元にあった採取籠を思い切り蹴り飛ばした。
ガキン、と鈍い音がして金属の飾りが岩に砕ける。
誘引の条件だった高い金属音が消え去った。
「立て、ティア! 走れ!」
腰を抜かしている彼女の腕を掴み、強引に引き起こす。
条件を崩された魔獣たちは目標を見失い、その場で唸り声を上げている。
だが、根本的な原因が修正されたわけではない。魔獣たちは苛立ちを募らせ、再びこちらへ狙いを定めようと赤い目を光らせた。
逃げ切れない。そう直感した瞬間だった。
天頂から、視界を白く染め上げるほどの強烈な光の柱が降り注いだ。
光の中から現れたのは、目を奪われるほど過剰に美しい外套を身にまとった一人の女性だった。
銀糸のような長い髪が魔力帯を伴って揺らめき、周囲の空気が一瞬にして浄化される。
神界から降り立った存在。ルミナリエルを管理する創造女神、エリシア。
彼女は宙に浮いたまま、地上で唸る魔獣たちと、息を呑む俺たちを見下ろした。そして、絶対的な権威を帯びた高貴な声で、周囲の空間へ宣告するように言い放った。
「この程度の揺らぎは、世界を維持するための『仕様の範囲』です」
その言葉を聞いた瞬間、俺の中で冷たい怒りが沸点に達した。
九年前もそうだった。ノアが死んだ時、神界から下された調査結果は「想定内の仕様」だった。
「ふざけるな」
俺は這いつくばるティアを庇うように前に立ち、上空の女神を睨みつけた。
「これが仕様だって言うなら、お前の設計が間違ってるんだよ!」
俺は足元に落ちていた石を拾い上げ、まだ散っていない結晶花の群れに向かって正確に投げ込んだ。
石が花を叩き潰し、魔力流が再び局所的に滞留する。
同時に、先ほど蹴り飛ばした金属飾りの残骸を靴底で擦り、嫌な高音を鳴らした。
意図的な条件の再現。
その途端、大人しくなりかけていた魔獣たちが再び狂暴化し、牙を剥いて咆哮を上げた。
エリシアの整った顔が、驚愕に歪む。
「なっ……人間の身で、世界炉の魔力流の因果を意図的にいじったというのですか……?」
「結果を見ろ! お前の言う『仕様』は、ただの欠陥だ。さっさと直せ。俺が原因を教えるから、お前がその無駄にでかい神力で術式を書き換えろ!」
公的な宣告をただの人間によって覆され、エリシアは言葉に詰まった。
だが、彼女は言い訳をするでもなく、不器用な手つきで空中に光の陣を描いた。
「……そこまで言うのなら。魔力流の滞留を中和し、音響の誘引効果を遮断します」
彼女の指先から放たれた光が、結晶樹海を覆う。
俺が見ていた赤い亀裂が、音を立てて閉じていくのが分かった。異常な淀みが消え去り、上位魔獣たちは居心地の悪そうな声を上げると、安全区域の結界の外へと逃げるように退去していった。
森に静寂が戻る。
ティアが泣きじゃくりながら俺の背中にすがりついた。少し遅れて、討伐隊を呼びに行っていたはずの村の大人たちが、恐る恐る森の中へ入ってくるのが見えた。
彼らは宙に浮くエリシアの姿を見るなり、一斉に地面に膝をつき、平伏した。
「おお、女神様……! 我らをお救いくださり、ありがとうございます!」
「どうか、慈悲深き御言葉を……!」
村人たちが祈りを捧げる中、俺はエリシアの顔を見た。
先ほどまでの高貴な態度はどこへやら、彼女は信じられないものを見るような目で平伏する村人たちを見下ろし、明らかに怯えたように視線を泳がせていた。
感謝の言葉を受け取ろうとせず、質問されることを恐れるように、彼女はふいっと顔を逸らし、唇を噛む。一方向の宣告はできても、双方向の対話を極端に恐れているのだ。
だが、彼女が何かを口にするより先に、空の様相が一変した。
澄み切っていた空に、突如として無機質な巨大な光の文字が浮かび上がったのだ。
それは、神界から全住民に向けられた、逃れようのない伝令だった。
『通達。管理世界ルミナリエル、事前査定において基準値未達。このまま最終監査に落第した場合、世界炉への維持資源供給を物理停止する。期限まで、残り四十日』
村人たちの祈りが凍りつく。
四十日。それが、妹を奪ったこの欠陥だらけの世界を救うために残された期限だった。




