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第29話 王都は光を返さない

限定再契約を結んでから一日が経過した、第28日の午後。


 俺は単独で、王都西部にある広大な物流区画と、そこを貫く巨大な『輸送橋』の監査を行っていた。


 隣に、エリシアの姿はない。


 昨日俺たちが結んだ『限定再契約』により、担当区域と権限は完全に分離されている。俺は王都西部と輸送橋、彼女は王都の反対側である外縁貯留区と南部水路。明確な救難信号が出ない限り、互いの区域への越境は禁止という冷徹なルールが、俺たちを物理的にも心理的にも隔てていた。


 王都は、辺境の村とは比較にならないほど魔力密度が高い。その分、少しでも異常を観測しようとすれば、眼球と脳にかかる負担は跳ね上がる。


 そして翌日、第29日の朝。


 俺は王都西部の防壁の基礎部分に微細な設計痕を発見し、その複雑に絡み合った因果を解析するため、一日の上限である『深読み』をすでに一度、使用してしまっていた。


 脳を焼くような過去の反響痛と、ひどい目眩。普段ならエリシアが手を握り、神力を流し込んで反響を遮断してくれるからこそ耐えられていたのだと思い知る。だが、今の俺は一人で痛みをやり過ごし、疲労を引きずったまま、午後の輸送橋の点検へと向かわなければならなかった。


 午後二時。


 王都の物流の動脈である大輸送橋の上は、無数の荷馬車と商人、そして行き交う住民たちでごった返していた。


 俺が橋の中央付近に差し掛かった、その時だ。


 足元の巨大な石のアーチから、腹の底を揺らすような低い唸り声が響いた。


「……なんだ?」


 俺が立ち止まった瞬間、橋の魔力流を制御する導管が異常な熱を持ち、石畳の隙間から青白い蒸気が噴き出した。それと全く同じタイミングで、橋から数百メートル離れた防壁の一区画からも、岩盤が砕けるような嫌な破砕音が轟いた。


 俺は眼球に意識を集中させた。


『表層読み』。本日一回目。


 視界が暗転し、空間に異常を示す赤い亀裂が走り出す。


 亀裂は、輸送橋を支える二本の主柱と、遠くに見える防壁の基部に同時に集中していた。防壁と橋へ供給されるはずの魔力流が、突如として別の場所へ向けて強引に吸い上げられ、供給不足に陥った基部が自重に耐えきれずに崩壊を始めているのだ。


 表層の因果が示す、崩壊までのタイムリミット。


 ――五秒。長くて六秒。


 俺は背筋が凍るのを感じた。


 橋の上には数百人の商人と住民。防壁の下には密集した居住区。


 エリシアを呼ぶために、腰のポーチから帰還筆を取り出し、救難信号を書く。その動作だけで最低でも三秒はかかる。彼女が空間を跳躍して駆けつけるまでにさらに数秒。


 間に合わない。俺が筆を出している間に、橋と防壁は確実に落ちる。


 住民を逃がすには、橋のどの部分が先に崩れ、防壁がどの角度で倒壊するか、コンマ一秒の狂いもない正確な未来予測と退避ルートを一瞬で弾き出さなければならない。表層の曖昧な亀裂だけでは、指示が遅れる。


 やるしかない。


 俺は、絶対の禁忌に足を踏み入れた。


『深読み』。本日二回目。


 二十四時間以内の連続使用は規則違反であり、感覚器の不可逆損傷を引き起こす。


 だが、俺は血を吐くような思いで、その冷たい意識の底へと強引に飛び込んだ。


「――――ァ、ガッ……!!」


 声にならない絶叫が喉の奥で弾けた。


 朝の深読みとは次元の違う、脳髄に熱した鉄の杭を直接打ち込まれるような破滅的な激痛。


 視界が真っ赤に染まり、九年前の記憶が濁流となって神経を蹂躙する。


 ノアの死んだ採取場の光景。その中で、ノアが持っていた青鈴花を結んだ採取籠の金属音が、ありえないほどの高音となって俺の左耳で鳴り響いた。


 キィィィィン、という耳をつんざくような悲鳴。


 そして、脳の中で、ブツン、と何かが焼き切れる嫌な音がした。


 だが、その強引な解析の代償として、崩落の全貌がスローモーションのように視覚化された。


「馬車を捨てろ! 橋の南側、第三アーチへ走れ! 北側は三秒で落ちる!」


 俺は口から血の泡を飛ばしながら、狂ったように叫んだ。


「防壁下の居住区! 東の広場へ逃げろ、壁は外側じゃなく内側に倒れるぞ!」


 顔面から血を流し、鬼気迫る形相で指示を出す俺の声に、パニックに陥りかけていた住民たちが弾かれたように動き出す。


 商人が荷物を乗せた馬車を放棄し、母親が子どもを抱きかかえて俺の指し示した安全地帯へと駆け込む。


 直後。


 地鳴りのような轟音と共に、輸送橋の北半分が崩落し、遠くの防壁が巨大な土煙を上げて内側の居住区跡地へと倒れ込んだ。


 だが、俺の引いた退避ルートにいた住民たちに、瓦礫は一つも当たらなかった。


「……よかった」


 全員が助かったのを確認した瞬間、俺の足から力が抜け、視界が完全にブラックアウトした。


 石畳に倒れ込むと同時に、腰から転げ落ちたエリシアの帰還筆が、主人の危機を感知して自動的に赤い救難信号を発した。


「ユウッ!!」


 意識を手放す寸前の深い闇の中で、悲痛な叫び声と共に空間が割れる気配がした。


 冷たい石畳の上で、誰かの温かい手が俺の右手を必死に強く握りしめる。


 強烈な神力が流れ込み、俺の脳を焼き尽くそうとしていた反響痛を、まるで冷水で洗い流すように鎮めていく。


「しっかりしてください、ユウ! ごめんなさい、私が、私が傍にいなかったから……!」


 涙で濡れたエリシアの声が響く。彼女は救難信号を受けて、一切の迷いなく外縁貯留区から跳躍してきたのだ。


 だが、遅かった。


 俺たちが結んだ『倒れて救難信号が出るまで越境できない』という限定契約が、彼女の手が俺の痛みを遮断するのに、決定的な数分の遅れを生じさせていた。


 数時間後。


 仮設の救護テントのベッドの上で、俺はゆっくりと目を覚ました。


 ベッドの傍らには、泥と血で汚れた俺の手を、祈るように両手で包み込んでいるエリシアの姿があった。


「……ユウ! 気がついたのですね!」


 彼女は顔を上げ、大粒の涙をこぼして喜んだ。


 だが、俺は自分の身体に起きている決定的な『異変』に気づき、眉をひそめた。


「エリシア……テントの入り口が開いてるな。外の風の音が、聞こえない」


「え……?」


 俺は自分の左耳に手を当てた。


 右耳からは、テントの外を歩く衛兵の低い足音や、エリシアの話し声は聞こえる。だが、左耳からは、風が幕を揺らす高い音や、遠くで荷馬車が鳴らす金属の擦れるような高音域が、見事にすっぽりと抜け落ちていた。


 規則違反の二度目の深読み。その代償として、俺の左耳は『高い金属音』を拾う機能を、恒久的に失ってしまったのだ。


 神の治癒力をもってしても、自身の能力の乱用で焼き切れた神経は元には戻らない。


「私の、せいです……。私があなたを信じきれず、あんな冷たい契約を結んでしまったから……」


 エリシアは自分の唇を噛み破らんばかりにして、震える声で懺悔した。


 だが、俺は彼女のその言葉を遮るように、ゆっくりと身体を起こした。


「あんたのせいじゃない。限定契約のルールは俺が提案したものだし、二度目の深読みを選んだのは俺自身だ」


 俺は、聞こえなくなった左耳を一度だけ強く叩き、まっすぐにエリシアを見た。


「これは、互いの監視を優先し、距離を置くことを選んだ俺たちの『現実の代償』だ。泣いて謝ったって、俺の耳は戻らない。……だから、記録を続けろ。この犠牲を無駄にしないために、何が起きたのかを暴くんだ」


 俺の静かで冷徹な覚悟に、エリシアはハッとして涙を拭った。


 彼女は許しを乞うことをやめ、深く頷いて一人の有能な相棒の顔に戻った。


「……防壁と橋の魔力流が突如として欠乏した原因のデータ、すでに抽出してあります」


 彼女が空間に映し出したデータを見て、俺は片耳の聴力を失った頭で素早く思考を巡らせた。


 本来なら防壁を支えるはずの魔力が、別の巨大な枠組みへと強引に吸い上げられている。


「この枠は……『公共安全枠』か?」


「ええ。ですが、その中身の構成が異常です」


 テントの入り口の幕が上がり、冷ややかな声が響いた。


「そこまで読み解いているのなら、話は早い」


 入ってきたのは、王都の魔力流のすべてを管理する男、光脈庁長官のヘルムートだった。彼は完璧にアイロンのかかった豪奢な服を着こなし、倒れている俺を見ても眉一つ動かさない。


「ヘルムート長官。あんた、この公共安全枠の中に何が混ざっているのか、知っていたな」


 俺が鋭く睨みつけると、ヘルムートは悪びれる様子もなく頷いた。


「もちろんです。公共安全枠という名目の中に、貴族区の巨大な庭園の気候を年中春に保つための魔力、神殿の権威を示すための無駄な終夜照明、そして来月の祝祭のための莫大な予備光が混在して縛り付けられている。その特権層の『余剰』が、防壁を支えるべき魔力を吸い上げ、今日の事故を引き起こした」


「知っていて、なぜ放置した!」


 俺が怒鳴りつけると、ヘルムートは冷たい目で俺を見下ろした。


「政治的連立のためです、監査官殿」


 彼は淡々と、狂った合理性を口にする。


「彼ら特権層の機嫌を損ね、余剰魔力を削れば、光脈庁への予算がストップし、王都全体のインフラが止まります。防壁が落ちるリスクよりも、確実に光脈庁が機能不全に陥るリスクを避けた。私は長官として、最も合理的な判断をしたまでです」


 彼は残虐な悪党ではない。ただ、組織と政治の壁の中で身動きが取れなくなり、特権の余剰を削ることを諦めた『合理的な傍観者』だった。


「……なるほどな。削っていいはずの余剰が、政治の壁に守られているってわけだ」


 俺はベッドから立ち上がり、失われた左耳の感覚を無視して、ヘルムートの前に立った。


「だったら、その壁ごと公開の場でぶち壊してやる。あんたの合理性が間違っていることを、証明してやるよ」


 王都の特権層が抱え込む光を、どうやって取り返すか。


 俺たちは、最大の敵である「政治の壁」と正面から対峙する覚悟を決めていた。

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