第28話 許すかどうかは、今決めない
第27日の朝。
初期街のギルド会議室の長机に、俺は数枚の羊皮紙を等間隔に並べていた。
一番左にあるのは、昨日崩落した北縁集落の『全住民生還名簿』。俺の指示によって、誰一人欠けることなく高台へ逃げ延びた村人たちの名前が連なっている。
その隣には、ギルドがまとめた『被害報告書』。村の防壁と井戸が完全に奈落へ落ち、土地そのものが失われた事実を示す冷酷な記録だ。俺の目は危険を予測できても、土地を直すことはできないという無力さの証明でもあった。
さらにその横へ、別の書類を二枚並べる。
一枚は、功績札通信網から届いた昨日の記録の写し。権限を返上して神力が使えないはずのエリシアが、南部水路で泥だらけになりながら人力で瓦礫をどかし、住民の避難誘導を指揮したという報告。
そして最後の一枚は、ノクトが開示した百年前の『復旧申請却下記録』。辺境の危険を隠蔽し、結果として九年前のノアの死を招いた、彼女の逃れようのない罪の証拠。
俺は腕を組み、それらの書類を睨みつけた。
免罪はできない。大勢を救うための全体最適だったとしても、百年間嘘をつき続け、辺境を犠牲にした責任は極めて重い。だが同時に、彼女を『悪意を持った単独の殺害者』だと断定することも、今の俺にはできなかった。
彼女は自分の罪を世界中に公開し、石を投げられる覚悟で逃げなかった。そして昨日、俺が北縁集落で人を逃がしている間、彼女もまた別の場所で必死に命を繋いでいたのだ。
許せる事実と、許せない事実。
俺は深く息を吐き、腰のポーチから一枚の硬い羊皮紙を取り出し、机の真ん中に置いた。
今朝、ギルドの窓口で貯めた硬貨と引き換えに手に入れた、安全な地上の港へ向かうための『通行証』だった。
控えめなノックの音が鳴り、会議室の扉が開いた。
入ってきたエリシアを見て、俺はわずかに目を細めた。
彼女の身なりは酷い有様だった。神界支給の美しい外套は煤と泥で汚れ、ところどころが破れている。白魚のようだった手には、瓦礫を素手で退けたことによる無数のすり傷が刻まれていた。
彼女は俺と目を合わせようとせず、机の前に立ち尽くした。
「……これを見ろ」
俺は机の中央に置いた『通行証』を指差した。
「あんたの隠蔽の事実を知って、俺はすぐにこれを買った。今日にでも馬車に乗って、この腐った世界から逃げ出すつもりだった」
エリシアの肩が、びくりと跳ねた。彼女の顔は青ざめ、血の気が完全に引いている。彼女は反論も命乞いもせず、ただ静かに俺の言葉を受け止めようとしていた。
「でも、俺はまだここに乗らないことにした」
「え……?」
初めて、エリシアが顔を上げて俺を見た。
「勘違いするな。あんたの嘘を許したわけじゃない。ノアの死の原因を作ったあんたへの怒りは、今でも腹の底で煮え滾っている。だけど……」
俺は机に並べた、北縁の生還名簿と彼女の救難記録を指で叩いた。
「あんたは昨日、逃げなかった。自分の罪を全住民に公開し、神力もないのに泥だらけになって南部水路の連中を助けた。だから、俺も逃げるのをやめる」
俺は通行証を手に取り、それを死亡台帳のページの間に挟み込んだ。
「許すかどうかは、今決めない。この世界が完全に崩壊するのを止めるまで、俺はあんたへの判決を『保留』する」
エリシアの目から、大粒の涙が溢れそうになった。彼女は両手で口元を覆い、しゃくり上げるのを必死に堪えている。
だが、俺は歩み寄って彼女を抱きしめるような真似はしなかった。あの時芽生えかけた甘い好意は、百年前の隠蔽という事実によって一度完全に凍りついている。謝罪と涙で元の相棒関係に戻れるほど、人間の感情は単純にできていない。
「判決を保留する代わりに、あんたと新しい契約を結ぶ」
俺は羊皮紙を引き寄せ、炭筆で素早く条件を書き殴った。
「互いの干渉と、過剰な権限の行使を防ぐための『限定再契約』だ。今日から、俺とあんたの担当区域と権限を完全に分離する」
俺は羊皮紙をエリシアの方へ滑らせた。
「俺の担当は『王都西部と輸送橋』。あんたの担当は『外縁貯留区と南部水路』。調査も実測も、すべて同時並行で別々に行う。そして……」
俺はエリシアの目を真っ直ぐに見据えた。
「明確な『救難信号』が出た時以外、互いの担当区域への『越境』を一切禁止する」
エリシアは、羊皮紙に書かれた冷たい契約条件を見つめた。
それは、以前のような互いの欠落を補い合う温かい関係ではない。監視と不信を前提とし、互いの領域を明確に線引きする、氷のように冷徹な契約だ。俺が危機に陥っても、明確な救難信号がない限り、彼女は助けに来ることを禁じられる。
「……分かりました」
エリシアは一切の異議を唱えず、震える手で自身の神紋を契約書に押し当てた。
「私が犯した隠蔽の罪と、失われた信頼を考えれば、当然の措置です。この限定契約、確かに結びました」
契約が成立し、羊皮紙が淡い光を帯びて消滅する。
会議室の空気は、再び重く冷たい静寂に包まれた。俺たちは互いの距離を測りかねたまま、黙って立ち尽くしていた。
その静寂を打ち破るように、会議室の扉が勢いよく開け放たれた。
「緊急事態です、ユウ、エリシア様!」
飛び込んできたノクトは、いつもの冷静さを欠き、眼鏡の奥の目を大きく見開いていた。彼の手にある通信用の書物が、危険を示す真っ赤な光を明滅させている。
「どうした、ノクト。最終監査はまだ先のはずだろ」
「監査ではありません! 先ほど、王都の光脈網の中枢から、致命的な異常データが送信されてきました!」
ノクトは息を呑み、絶望的な事実を口にした。
「王都西部、防壁区画、そして輸送橋。それらの基幹光脈が、同時に崩壊の兆候を示しています。原因不明の魔力歪曲です。……中間監査を待たずして、世界そのものの物理的な崩壊が始まりました!」
「なんだと……っ!」
王都西部と輸送橋。それは、今さっき俺が限定契約で引き受けたばかりの担当区域だ。
「エリシア様が担当する外縁貯留区と南部水路でも、同様の異常数値が観測されています。もはや一刻の猶予もありません。広範囲での同時実測と修正が必要です!」
事態は急転直下だった。
迷っている暇はない。俺は死亡台帳を腰に提げ、ギルドの会議室を飛び出した。
「行くぞ。契約通り、俺は王都西部と輸送橋の実測に向かう」
「……はい。私は外縁貯留区と南部水路へ向かいます」
エリシアの声は、背中越しに小さく聞こえた。
俺たちは廊下で二手に分かれた。
昨日までは、赤い亀裂を見る俺の目と、彼女の反響遮断の神力は常にセットだった。だが今の俺たちは、先ほど結んだ『越境禁止』の限定契約により、互いの助けを呼ぶことができない。
もし向かった先でどちらかが致命的なエラーに直面しても、明確な救難信号を出さない限り、相手は助けに来られないのだ。
自ら課した冷たいルールの重みを背負いながら、俺は王都へ通じる転送門へと向かって、一人で走り出した。




