第27話 救った三十万人と、隠した辺境
第26日の朝。
初期街の宿屋の薄暗い部屋で、俺は机の上に積み上げられた硬貨の山をただ見つめていた。
通行証を買うための資金。エリシアが百年前についた嘘と、隠蔽の事実を知った俺は、監査官としての契約を破棄し、この世界から逃げ出すための切符を完全に手中に収めていた。いつでも荷物をまとめて、港へ向かう馬車に乗れる。
だが、その一歩を踏み出せないまま、淀んだ朝の空気を吸い込んでいた、その時だった。
突然、窓の外の景色が黄金色に染まった。
太陽の光ではない。空全体が発光し、物理的な距離を完全に無視した、圧倒的な神威を伴う声がルミナリエル全土に降り注いだのだ。
『――ルミナリエルの、全住民に告げます』
エリシアの声だった。創造女神のみに許された、世界中へ強制的に音声を届ける一方向の機能『全域神託』。
『私はこれより、百年前の黒日災害における、神界の未公開資料を開示します』
俺は弾かれたように立ち上がり、窓を開け放った。
空に浮かび上がったのは、昨日ノクトが開示した『改変命令書』と『復旧申請却下記録』、そして辺境の事故率上昇を予測した『危険推計』の膨大なテキストだった。
エリシアは、淡々とした声で自らの罪を読み上げていく。
百年前に王都への魔力集中を強行し、辺境に英雄生成配置を固定化したこと。その後、現場から上がってきた復旧申請を、神界の評価を保つために自身の判断で却下したこと。そして、辺境が安全ではないと知りながら、その事実を百年間隠蔽し続けたこと。
彼女は、王都の中央塔を避けていた理由も、ノアのような犠牲者が出た構造的要因も、すべてを白日の下に晒した。
『王都の三十万人を救うための苦渋の決断だった』というような、功績による自己弁護は一言も発しなかった。ただ事実と、己の隠蔽の責任だけを並べ立てた。
『神託は一方向ですが、私は逃げません』
空から響く声が、微かに震えた。
『以後の反論、非難、および質問は、四日後の王都の公開席、ならびに各地域の集会にて、私自身が直接受け付けます』
双方向の対話を何よりも恐れ、感謝を受け取ることすら怯えていた彼女が。
特権を奪われる王都の人間からの非難と、見捨てられていた辺境の人間からの怒り、その両方を正面から受ける覚悟を決めたのだ。
『隠蔽の責任を取り、私、エリシアは本日をもって、ルミナリエルの監査および修正権限を神界へ返上します』
その言葉を最後に、空の黄金色はフッと消え去り、元の白みかけた朝の空へと戻った。
俺は宿を飛び出し、ギルドに設置された受信卓へと走った。
案の定、功績札通信網の石板は、全土の住民たちからの混乱と怒りの短文で埋め尽くされ、激しく明滅していた。
だが、俺の目は、その怒りの文字列の間に紛れ込んだ一つの『緊急報告』に釘付けになった。
『緊急:北縁集落にて光脈の欠損を確認。大規模な地盤崩落が発生中。救援求む』
「北縁集落……!」
初期街から馬で一時間の距離にある、急斜面に作られた小さな集落だ。エリシアが修正権限を返上したことで、老朽化していた光脈の自動補正が切れ、物理的な崩壊が始まったのだ。
俺はもう、監査官ではない。契約は昨日破棄した。
だが、俺の身体は考えるより先に動き、ギルドの馬を借りて北へ向かって駆け出していた。
北縁集落に到着した時、事態は最悪の様相を呈していた。
地面に深い地割れが走り、集落の中心を通る石橋が今にも崩れ落ちそうになっている。住民たちはパニックに陥り、荷物を抱えて右往左往していた。
俺は馬から飛び降り、眼球に意識を集中させた。
『表層読み』。本日一回目。
視界が暗転し、石橋の土台に真っ赤な亀裂が走るのが見えた。
「止まれ! その橋は三秒後に落ちる!」
俺が怒号を上げ、渡りかけていた住民たちを強引に引き留めた直後、轟音と共に石橋が谷底へと崩れ落ちた。
退路を絶たれ、絶望する住民たちを前に、俺はすぐに次の因果を探る。
『表層読み』。本日二回目。
鋭い頭痛がこめかみを突き刺す。俺は集落の裏手にある、苔むした『旧採取路』の地盤を視覚化した。
赤い亀裂はない。長年使われていなかったが、岩盤は安定している。
「裏の旧採取路へ回れ! あそこの地盤は生きている!」
俺が先頭に立ち、老人や子どもを庇いながら急斜面の旧道を登り始める。だが、足元の震動はさらに激しさを増していた。集落全体を支える光脈が完全に千切れかかっているのだ。
『表層読み』。本日三回目。
一日の上限。脳味噌を直接鷲掴みにされるような激痛と、視界を押し潰すような圧迫感に、強烈な吐き気が込み上げる。
俺は血の滲むような痛みを堪え、集落全体が崩落するまでの『タイムリミット』を正確に測り出した。
「あと四十秒で、村の半分が落ちる! 荷物を捨てろ! 走れぇっ!」
俺の的確な指示とタイムキープにより、最後の一人が安全な高台に飛び込んだ直後だった。
凄まじい轟音と共に、北縁集落の防壁と、命の綱である井戸が、地滑りを起こして奈落の底へと消えていった。
土煙が舞い上がる中、怪我一つなく助かった住民たちが、へたり込んで泣き声を上げている。
全員の命は救えた。
だが、俺は自分の無力さに打ちのめされていた。
俺の目は、因果を読んで人を逃がすことはできる。だが、どれだけ正確にバグの形を把握できても、根源の光脈を繋ぎ合わせ、土地を直す力(神の権能)はないのだ。
俺は震える手で腰の『死亡台帳』を開き、死者ゼロの記録の横に、「北縁集落、崩落により放棄」と力なく書き込んだ。
頭痛に耐えながら息を整えていると、俺の腰の小型端末が鳴った。
功績札通信網からの、別の地域からの報告だった。
『南部水路にて光脈崩落。エリシア様が現地に到着。神力の行使なし。人力で瓦礫を撤去し、住民の避難誘導中』
その文字列を見た瞬間、俺の胸がギュッと締め付けられた。
彼女は、権限を返上した。だから、光脈を術式で直すことはできない。
神核の亀裂がひどく痛むはずなのに、彼女は逃げ出さず、遠く離れた別の地域で、俺と同じように泥だらけになって住民の命を救っていたのだ。
一人ではダメなのだ。
俺の目と指示がなければ、彼女の強大な力はバグの正解を見つけられない。彼女の権能がなければ、俺の目は人を逃がせても、人が生きる土地を直すことができない。
俺たちは互いに仕事を放棄していなかった。だが、協働しなければ、世界を真に救うことはできないのだ。
その日の夕方。
泥だらけになって初期街の宿屋へ戻ってきた俺は、机の上に広げられたままの『通行証の代金』を見下ろした。
ノアの死の原因を作った彼女の隠蔽は、絶対に許せるものではない。俺は今でも腹の底から怒っている。
だが、彼女は嘘を白日に晒し、逃げない覚悟を見せた。
このまま通行証を買って世界を離れるか。
それとも、あの不器用な相棒の隣に、条件付きで戻るのか。
俺は硬貨の山に手を伸ばしたまま、窓の外の赤く染まる空を、いつまでも見つめ続けていた。結論はまだ、出せないままだった。




