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第26話 女神は妹を殺したのか

第24日。初期街のギルド会議室の空気は、凍りつくように冷たかった。


 長机の上に並べられた、ノクトが開示した二枚の書類。『百年前の改変命令書』にはエリシアの署名があり、『辺境復旧申請却下記録』には彼女が申請者として記されていた。


「……説明しろ、エリシア」


 俺は机に両手をつき、俯く彼女に向かって低い声で言った。


「あんたが、意図的に王都へ魔力を集中させたのか? そして、復旧申請が却下された事実と危険推計を、住民に隠したのか」


 エリシアは、俺から視線を逸らさなかった。


 彼女の顔は蒼白だったが、言い訳を探すような浅ましさはなかった。


「……百年前。私がこのルミナリエルの再生担当として着任した直後、『黒日災害』と呼ばれる大規模な魔力崩壊が起きました。王都を直撃すれば、三十万人の命が失われる未曾有の危機でした」


 彼女は静かな声で、過去の事実を語り始めた。


「私は、王都の防壁を維持するため、全域の魔力網を中央塔へ強制的に迂回させる命令を下しました。それが、一枚目の『改変命令書』です」


「その結果、辺境の魔力網が過負荷になり、強力な魔獣が流入するようになったんだな」


「はい。私が直接、辺境に魔獣を放ったわけではありません。ですが、私の選択が、辺境の事故率を劇的に上げる『背景条件』を作ったのは事実です」


 大勢を救うための、緊急の全体最適。それ自体は、管理者の判断として理解できなくもない。だが、問題はその先だ。


「事態が落ち着いた後、私は辺境の魔力流を元に戻すための『復旧申請』を神界へ提出しました。……ですが、申請はすべて却下されました」


「どうしてだ! 危険だと分かっていたはずだろ!」


 俺が声を荒げると、エリシアは初めて苦しげに顔を歪めた。


「神界の評価です……。一度引き上げた王都の防衛力と、辺境で発生し始めた強力な魔獣による『英雄の討伐点』の増加。ヴァルドレン審査長の定めた基準において、それは『極めて優秀な資源出力』と見なされ、復旧申請は退けられました。私は再申請を続けることも、住民へ却下の事実を知らせることもせず、その評価を受け入れたのです」


 彼女は両手をきつく握りしめ、言葉を絞り出した。


「だから私は、危険推計のデータを隠蔽しました。辺境で起きている事故は、あくまで『一時的な異常』であり、安全指定区域の結界は機能していると……住民に、嘘をつきました」


 ドクン、と。俺の心臓が嫌な音を立てた。


 九年前。採取場でノアが魔獣に襲われた時。


 大人は皆、「ここは安全指定区域だから大丈夫だ」と言って、俺の警告を笑った。


 彼らが愚かだったわけではない。神界の、創造女神の出した『ここは安全だ』というお墨付きを、ただ信じていただけだったのだ。


「ノアを殺した直接の原因は、英雄生成配置のバグと、魔獣の襲撃だ。あんたが直接手を下したわけじゃない」


 俺はエリシアの目を真っ直ぐに見据えた。


「でも、あんたは『そこが安全ではない』と知っていながら、俺たちを危険な場所へ行かせた。……あんたの隠蔽と放置が、ノアを殺したんだ」


 エリシアは「大勢を救うためには仕方がなかった」といった自己弁護の言葉を、一言も口にしなかった。


 彼女はただ、己の罪の重さを噛み締めるように、深く頷いただけだった。


「……はい。私が、あなたから家族を奪いました」


 その言葉を聞いた瞬間、俺の中で張り詰めていた糸が、完全に切れた。


 俺は、昨日彼女がくれた美しい筆――自動保全機能のついたその筆を、机の端へ乱暴に押しやった。


「あんたがずっと、住民との対話を恐れていた理由がよく分かったよ。感謝を受け取るのが怖いんじゃない。『嘘をついている』という罪悪感があったから、俺たちの目を見られなかったんだな」


「……」


「俺は、世界のバグを直すためにあんたと契約した。だが、最初から嘘をつかれていたんじゃ、これ以上一緒に世界を直すことなんてできない」


 俺は背を向け、会議室の扉へと歩き出した。


「住民監査官としての『修正契約』は、たった今をもって破棄させてもらう。……もう、俺に構わないでくれ」


 扉に手をかけた時、背後から引き留める声が聞こえるかもしれないと思った。


 だが、エリシアは何も言わなかった。


 彼女は許しを乞うことも、世界を救うために残ってほしいとすがることもせず、ただ俺の拒絶という罰を、静かに受け入れていた。


 振り返ることなく、俺は会議室を後にした。


 初期街の宿屋の一室。


 俺はベッドの上に座り込み、床下の隠し箱から持ち出していた古い革袋を開けた。


 ジャラッ、と音を立てて、大量の銀貨と金貨がベッドの上に転がる。


 村の何でも屋として貯めていた金。そして、この数日間の監査官としての正式な報酬。それらをすべて合わせると、中身はついに、別の世界へ渡るための額にまで到達していた。


 安全な中央地域、あるいは別の世界へ逃げるための『通行証』を買える額だ。


『お兄ちゃん、いつか安全な場所に行けたら、地上の海を見てみたいね』


 ベッドの上に転がる硬貨を見つめながら、不意にノアの言葉が脳裏に蘇った。


 浮遊島であるルミナリエルから降り、海のある世界へ繋がる港。そこへ行くための通行証。


 俺はずっと、ノアの死が防げた事故だったと証明するために、そして俺の警告を信じてくれる相手を探すために、この特異な目を使ってきた。


 エリシアは、俺の能力を必要とし、不器用ながらも共に世界を直してくれた。昨日、彼女がくれた筆を見た時、俺は確かに彼女への好意を自覚し始めていた。彼女となら、この壊れかけた世界で生きていけるかもしれないと。


 だが、その土台は、百年前の隠蔽という最悪の形で崩れ去ってしまった。


 彼女の嘘がノアを殺したという事実は、俺の中に芽生えかけた好意を、絶望的な冷たさで塗り潰していた。許せるはずがなかった。


 俺には今、完全な自由がある。


 手元の金で通行証を買い、明日にはこの初期街を出て、港へ向かう馬車に乗ることができる。


 もう、赤い亀裂を見るたびに痛みに耐える必要もない。


 世界炉の供給が止まり、半年後にこのルミナリエルが崩壊しようが、俺には関係のないことだ。俺は十分働いた。バグの正体も暴いた。これ以上、この嘘にまみれた世界に義理立てする理由は、どこにもない。


 俺は通行証の代金となる硬貨の山を、両手でしっかりと握りしめた。


 窓の外では、陽が落ち、初期街の夜の喧騒が始まろうとしている。


 エリシアは今頃、あの冷たい会議室で一人、何を考えているのだろうか。


 彼女への許しは出ないまま、俺は薄暗い部屋の中で、この世界から逃げ出すための硬貨の冷たさを、いつまでも手のひらに感じ続けていた。

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