第25話 合格より重い一票
第23日の朝。初期街のギルド会議室は、静まり返っていた。
昨日のレオン暴走による石橋の崩落と、その後の復旧作業。街は疲労に包まれていたが、それでも魔獣の侵入を防いだことで、確かな安堵の空気が流れていた。
だが、神界との戦いは終わっていない。
長机を挟んで俺とエリシアの対面に座るノクトは、いつものように分厚い書物を開き、無機質な声で口を開いた。
「昨日、ヴァルドレン審査長が宣告した通り、指定個体の英雄化が解除されたことで、規定の出力基準は未達となりました。当初の予定であれば、この時点でルミナリエルの中間監査は『失格』として処理されるはずでした」
ノクトの言葉に、エリシアが小さく肩を震わせる。
だが、ノクトはそこで書物のページを一枚めくった。
「しかし、判定は覆りました。結論から申し上げます。ルミナリエルは中間監査を『条件付きで合格』とします」
「……合格? 失格じゃなかったのか」
俺が身を乗り出すと、ノクトは机の上に数枚の羊皮紙を並べた。
そこには、ガルド隊長の無骨な署名と、ミレナの几帳面な字、そして街の商業ギルドや職人たちの連名がびっしりと書き込まれていた。
「初期街の住民代表から、神界の監査部門宛てに正式な『実地救命の報告と、監査官への支持表明』が提出されました。彼らの証言と被害推計によれば、もし英雄化された個体を放置していれば、市街は全壊し、初期街の経済と人的資源は完全に消滅していたと証明されています」
ノクトは眼鏡の位置を直し、淡々と事実を告げる。
「一人の英雄が生み出す資源よりも、街一つが消滅する損失の方が大きい。住民が提出した現場の被害推計が、審査長の事前計算を論理的に上回ったのです」
俺は机の上の署名を見つめた。
神界の圧倒的な力に平伏するしかなかった人間たちが、自分たちの街と生活を守るために、神の監査に対して自ら異議を申し立てたのだ。
「神界の監査において、住民の意見が『正式な監査資料』として採用されたのは、これが初めてのケースです。あなた方の現場検証が、上層部の決定を押し返しました」
それは、ただの合格よりもずっと重く、価値のある一票だった。
「ですが、審査長の命令に背いて橋を落とすような強引な構造変更を、このまま野放しにするわけにはいきません」
ノクトは書物に羽ペンを走らせながら、厳格な声で言った。
「よって、監査記録に新たな特例条項を明記します。『損失と代替策を公開し、対象地域の同意を得た構造変更は、監査猶予中の正規改修として仮登録できる』。……以後の大規模な修正は、この手続きを踏む限りにおいて、神界の法に触れない合法的なものと見なします」
ノクトが書き込んだその一文の意味を理解し、俺は息を呑んだ。
住民の合意があれば、世界の仕様を合法的に書き換えられる。これでもう、ヴァルドレンの「無許可改修」という言いがかりに怯える必要はない。俺たちの泥臭い戦いが、ついに神界のルールそのものに風穴を開けたのだ。
「では、私は正式な登録手続きに入ります。一時、席を外します」
ノクトが会議室を出て行き、重い扉が閉まる。
残された室内には、最大の危機を乗り越えた安堵と、静かな達成感が満ちていた。
「……ユウ」
沈黙を破ったのは、エリシアだった。
彼女は椅子から立ち上がり、俺の隣まで歩いてくると、そっと一つの木箱を差し出した。
「これは?」
「受け取ってください。神界の支給品ではありません。……私個人の、あなたへの贈り物です」
箱を開けると、そこには白銀の美しい装飾が施された一本の『筆』が収められていた。
「それは、書いた文字を自動で永久保全する筆です。そして……持ち主がどんなに深い迷宮にいても、必ず私――管理者のいる方向を指し示す羅針盤と、持ち主が倒れた際に自動で救難信号を発する機能を持たせてあります」
エリシアは、俺がずっと着ている神界の外套――彼女が火打ち石で焦がしてしまった袖口をそっと指先で撫でた。
「あなたはいつも、一人で危険な場所に踏み込んでいってしまうから。……どこにいても、必ず私のところに帰ってこられるように」
彼女の頬は朱に染まり、その声には、女神としての威厳は欠片もなかった。ただ、一人の不器用な少女として、俺に気持ちを伝えようとしている。
あの分厚い壁が取り払われ、互いの距離がゼロになろうとしていた。俺がその筆を受け取り、口を開きかけた、その瞬間だった。
バンッ、と。
乱暴な音を立てて、会議室の扉が開かれた。
入ってきたのは、先ほど退出したはずのノクトだった。だが、彼の雰囲気は先ほどまでの事務的なものとは完全に異なっていた。その瞳には、容赦のない冷徹な刃のような光が宿っている。
「……ノクト? どうしたんだ、急に」
俺の問いに答えず、ノクトは足早に机に歩み寄り、抱えていた古びたファイルの束を叩きつけるように置いた。
「ユウ・アルセイド。あなたに、監査補佐官として開示すべき重大な事実があります」
「開示? 合格の判定は出たばかりだろ」
「昨日のことです。あなたが石橋を切り離した際、地下の岩盤が露出しましたね」
ノクトの言葉に、俺の背筋に冷たいものが走った。
昨日見た、地下の光脈。百年前から存在し、強引な術式で王都の方向へと魔力を強制迂回させていた、あの巨大な設計痕のことか。
「私は昨日から、あの異常な光脈の迂回痕について、神界の書庫の過去記録と物理的に照会を続けていました。偶然のバグなのか、意図的な改変なのかを特定するために」
ノクトは一番上にある色褪せた書類を指差した。
「百年前の『黒日災害』。王都の防壁を維持するため、辺境の魔力流を中央塔へ集中させるという大規模な構造改変が行われました。その結果、辺境の魔力網は慢性的な過負荷に陥り、強力な魔獣が流入する『英雄生成配置』が固定化された」
「……ああ。そこまでは推測がついていた。王都の三十万人を救うための、非情な全体最適だ。誰がそんな命令を出したんだ」
俺が問うと、エリシアが小さく、本当に小さく、「やめて」と悲鳴のような息を漏らした。
彼女は王都の話題が出るたび、いつも中央塔の方角から不自然に目を逸らしていた。
ノクトは感情を交えず、ただ書類の署名欄を俺に見せた。
「これが、百年前の王都への魔力集中を命じた『改変命令書』です」
そこには、流麗な文字でサインが刻まれていた。
見間違えるはずもない。今、俺の目の前にある筆に込められた神紋と同じ、エリシアの署名だ。
「……エリシア。あんたが、やったのか」
俺の声は、自分でも驚くほど低く、掠れていた。
「待て。王都の三十万人を救うための緊急措置だったなら、仕方ない面もある。だが、あの地下には、辺境の異常を訴えた『復旧申請』が却下された記録板が埋まっていたはずだ。あれは誰が却下したんだ」
ノクトは二枚目の書類をめくった。
「ええ。事態が落ち着いた後、管理者エリシアから、辺境の魔力流を元に戻すための『復旧申請』が神界へ提出されました。しかし、ヴァルドレン審査長の評価基準に基づき神界側で却下され、辺境の危険推計と却下の事実は住民に一切公開されることなく、隠蔽されました」
二枚目の『復旧申請却下記録』。
その申請者欄にも、エリシアの名がはっきりと残されていた。
頭の芯が、冷たく凍りついていくのを感じた。
彼女は、辺境が危険だと知っていた。魔力が過負荷を起こし、初心者が死ぬような魔獣が溢れかえることを、百年前から分かっていたのだ。
分かっていながら、住民にそれを隠蔽し、放置した。
九年前。安全指定の採取場で、何も知らないノアが魔獣に襲われて死んだ。
あの理不尽な死は、単なる仕様のバグではない。彼女が百年前についた嘘と隠蔽が、九年前にノアを殺したのだ。
俺は、彼女がくれた美しい筆を机の上に置いた。
「……エリシア」
俺が名前を呼んでも、彼女は顔を上げなかった。
言い訳も、神の威厳を盾にした反論も、彼女の口からは出てこなかった。
彼女はただ、すべての隠蔽が終わることを受け入れたように、青ざめた顔でじっと床を見つめ、震えていた。
先ほどまでの暖かな信頼は跡形もなく消え去り、そこには修復不可能な絶望的な断絶だけが横たわっていた。




