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第24話 順位を捨てて、一人を住民へ戻す

初期街の居住区へ通じる巨大な石橋は、無惨にも中央から真っ二つに分断されていた。


 崖下へと崩れ落ちた瓦礫の土煙が舞い上がる中、切り離された橋の先端で、レオンは一人、虚空に向かって大剣を振り回していた。


 彼の周囲にはすでに一匹の魔獣も残っていない。だが、『英雄祝福』がもたらした過剰な魔力と精神の歪曲は、彼に戦いをやめることを許さなかった。「俺は英雄だ」「俺が全部倒すんだ」と、焦点の合わない血走った瞳で叫びながら、限界を超えた力で石畳を叩き割っている。


 彼を止めるには、神界から付与された祝福そのものを強制解除するしかない。


 しかし、上空の厚い雲の向こうからは、神界審査長ヴァルドレンの冷酷な声が、ルミナリエルという世界全体の首根っこを掴むように響いていた。


『その個体の祝福を停止すれば、予定された英雄出力に達しない。その時点でルミナリエルは監査失格となり、世界炉の供給は断たれる』


 俺は息を呑み、隣に立つ創造女神エリシアを見た。


 彼女は、迷っていなかった。


「……一人の住民の精神と肉体を壊して得られる合格など、私は必要としません」


 エリシアは上空の雲に向かって、凜とした声で堂々と宣告した。


「私は、ルミナリエルの管理者として、これより指定個体レオンの『英雄祝福』を全面解除します!」


『……愚かな。自ら破滅を選ぶというのなら、好きにするがいい』


 ヴァルドレンの嘲笑を含んだ冷たい声が響き、空の気配が遠ざかる。


 エリシアは両手を前に突き出し、レオンに向けて黄金の光の帯を放った。祝福の魔力を中和し、彼をただの人間に戻すための解除術式だ。


 だが、光の帯がレオンの身体に触れようとした瞬間。


「嫌だぁぁぁッ!!」


 レオンが獣のような咆哮を上げ、大剣を一閃した。


 凄まじい衝撃波が巻き起こり、エリシアの解除術式が空中でバツンと弾け飛ぶ。


「俺から、俺から力を奪うな! 俺は英雄なんだ、俺がいなきゃこの街は……!」


 彼は大剣を構え直し、俺たちを明確な「敵」として睨みつけた。


 祝福の副作用である『万能感』に完全に支配されているのだ。元の無力で平凡な若者に戻る恐怖が、彼の精神をパニック状態に陥らせていた。


「ユウ、ダメです! 強引に祝福を剥がせば、彼の精神そのものが耐えきれずに崩壊してしまいます!」


 エリシアが悲痛な声で叫んだ。


 魔獣のように力ずくで拘束し、一括で解除することはできない。安全に魔法を解くには、彼自身が「力を手放す」ことに同意する必要があった。


「俺たちがやる! エリシアは解除の準備だけしておけ!」


 背後から駆けつけてきたガルドが、巨大な重盾を構えて前に出た。そのすぐ後ろには、息を切らしたミレナが杖を構えて続いている。


 役割分担だ。俺、ミレナ、ガルドの三人で、あの狂った英雄を説得する。


「目を覚ませ、レオン! お前は街を守りたかっただけだろうが!」


 ガルドが怒号を上げながら、レオンの無軌道な大剣の一撃を盾で受け止める。


 ガァンッ! という鼓膜を破るような金属音が響き、ガルドの巨体が後方に滑る。英雄の筋力から放たれる一撃は、ただ受けるだけでも命がけだ。


 だが、ガルドは反撃の剣を振るわない。彼はただひたすらに盾を構え、レオンの体力を削るための防戦に徹した。


「その力は、お前自身のものじゃない! お前はそんな化け物にならなくたって、立派な冒険者だったはずだ!」


「うるさい、うるさい、俺は選ばれたんだぁぁっ!」


 ガルドの背後から、ミレナが素早く治癒術を放ち、ガルドの痺れた腕の筋肉を回復させる。同時に、彼女はレオンの周囲で暴走している魔力に向けて、『封魔の術』をギリギリの距離から当て続けた。


「レオンさん、お願い、剣を下ろして! もう誰もあなたを責めないから!」


 二人の必死の呼びかけが、石橋の上に響き渡る。


 俺は少し離れた位置から、戦場全体を俯瞰していた。レオンの肉体はすでに限界を超えている。大剣を振るうたびに腕の筋肉が微かに断裂し、皮膚の下で毛細血管が破綻して血が滲んでいるのが見えた。祝福による痛覚遮断が、彼にその壊れゆく肉体を自覚させていないだけだ。


 彼を安全に人間に戻すには、祝福の層を一枚ずつ、正しい順番で剥がしていく必要がある。


 俺は眼球に意識を集中させた。


『表層読み』。本日三回目。


 視界が暗転し、レオンを覆う分厚い魔力の層が視覚化される。


 赤い亀裂が、彼の神経、筋肉、そして脳髄にまで複雑に絡みついていた。


 だが、層が厚すぎる。表層をなぞっただけでは、どこから解きほぐせば精神が崩壊せずに済むのか、正確な手順が読み取れない。


「……さっき潜った時の残像を、もう一度手繰るしかないか」


 俺は奥歯を強く噛み締め、激しい反響痛を覚悟の上で、先ほどの深読みの残像を無理やり呼び戻した。


 焼き付いたままの、因果の底の記憶。


 呼び戻した瞬間、脳髄を白く焼き切るような、絶対的な激痛が俺を襲った。


 視界がぐにゃりと歪み、石橋の風景が、九年前の暗い森の奥へと変貌する。


 土の冷たさ。青鈴花を結びつけた採取籠の、高く鈍い金属音。指先から滑り落ちていく、ノアの小さな手の感触。何度叫んでも大人が信じてくれなかった、あの絶対的な無力感が脳を焼く。


「……ッ、が、ぁっ……!」


 膝が折れそうになるのを必死に堪え、俺は血の味のする口内で呼吸を繋ぎ、レオンの精神を侵食している因果の構造を解析した。


 見えた。


 祝福の層は、三段階に分かれている。


 一番外側にあるのが『身体強化』。その内側に『盲信誘導』。そして、最も深い中枢に根を下ろしているのが『痛覚遮断』だ。


「……順序は、下からだ。痛みを戻さないと、こいつの妄想は覚めない」


 俺は霞む視界の中で、エリシアに向けて叫んだ。


「エリシア! まず『痛覚遮断』だけを部分解除しろ! 他の層はまだ残しておけ!」


 俺の言葉に、エリシアは一瞬の迷いも見せず、術式の構造を組み替えた。


 光の帯が細い針のように変形し、レオンの脳髄に絡みついていた一番奥の層だけを正確に撃ち抜く。


 パキン、とガラスが割れるような音がした。


 次の瞬間。


「――――ァァァァアアアアアアッ!?」


 レオンが、絶望的な悲鳴を上げてその場に頽れた。


 当然だ。限界を超えて暴れ回ったことで断裂した筋肉、破綻した血管。その蓄積されたすべての肉体的ダメージが、遮断を失ったことで一気に彼の脳を直撃したのだ。


 彼は大剣を取り落とし、自分の腕を抱え込んで石畳の上をのたうち回った。


 痛みが戻ったことで、彼を支配していた『自分は無敵だ』という万能感の層に、ピシリと大きなヒビが入ったのが分かった。


「レオン! これが現実だ!」


 ガルドが重盾を捨て、のたうち回るレオンの胸ぐらを掴んで引き起こした。


「痛いだろう! 苦しいだろう! それが人間の身体だ! お前は神でも英雄でもない、ただの街の冒険者なんだよ!」


「あ、ああぁっ、痛い、腕が、もげる……っ!」


「思い出せ! お前は誰を守りたかった! 化け物になって街を壊すためじゃないだろうが!」


 ガルドの怒号と、ミレナの必死の治癒術の温もりが、ヒビの入った彼の盲信を少しずつ溶かしていく。


 レオンは荒い息を吐きながら、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を上げた。


 彼の目に映っているのは、破壊された自分の街と、自分を必死に助けようとしている仲間たちの姿だった。万能感の魔法が解け、そこには恐怖に震える等身大の若者が戻ってきていた。


「……俺、は……」


 レオンは震える唇を噛み締め、ポロポロと涙をこぼした。


「こんな、こんな力……いらない……! 俺を、元に戻してくれ……っ!」


 本人の明確な同意。


 それを受けたエリシアが、残りの『盲信誘導』と『身体強化』の層を一気に解除する。


 レオンの身体を覆っていた黄金の魔力が、霧散するように空気中へと溶けて消え去った。すべての力を失った彼は、そのままガルドの胸の中に崩れ落ち、完全に意識を手放した。


 ただの人間に、一人の住民に戻ったのだ。


 その直後。


 ルミナリエルの空が、不吉な真紅の色に染まった。


『指定個体の祝福解除を確認。予定された英雄出力の未達。これより正式な減点を行い、ルミナリエルの中間監査を【失格】とする』


 ヴァルドレンの無機質な宣告が響き渡り、空の赤い光が消えると同時に、背後でエリシアがガクンと膝を折った。


「エリシア!」


 俺は咄嗟に駆け寄り、倒れ込む彼女の身体を抱き留めた。


 彼女の身体は氷のように冷たく、ひどく震えていた。術式の反動だけではない。世界の管理者として、監査失格という絶望的なペナルティを正面から引き受けたことによる神力の激しい減衰だ。


「……ユウ、ごめんなさい。私の世界は、これで……」


 彼女は消え入るような声で呟き、自嘲するように目を伏せた。


 だが、俺の胸の中にあったのは、失格への絶望ではなく、彼女に対する強い敬意だった。


 彼女は、世界を維持するための順位よりも、目の前の一人の人間の命を選んだ。己の保身や神界の論理に逃げ込まず、俺たちと同じ地面に立って、同じ痛みを引き受けてくれた。


 俺の中で、彼女に対する見方が「監視対象」から、確かな熱を伴った「個人的な好意」へと明確に変わり始めていた。


 俺の目には、彼女の胸の奥で、神核の亀裂がさらに深く、決定的なほどに刻み込まれたのが見えていた。それでも、俺は彼女の肩を強く抱き寄せた。


「謝るな。あんたの選択は間違ってない。絶対に俺たちが直してやる」


 俺がそう言って立ち上がろうとした、その時だった。


 激闘と橋の崩落によって、石橋のたもとの地盤が大きく吹き飛んでいた。


 俺の視線が、その抉れた巨大なすり鉢状の穴の底に吸い寄せられた。


 岩盤が剥き出しになった地下深く。そこに、街の魔力や気候、治癒の補助など、世界全体のインフラを支える基幹網――『光脈』が露出していた。


 青白い光を放つその太い脈動は、自然の地形に沿って流れているわけではなかった。


「なんだ、あれは……」


 俺は愕然と声を漏らした。


 露出した光脈は、巨大で強引な術式の杭によって、本来流れるべき辺境の方向ではなく、不自然な直角を描いて『王都の方向』へと強制的に迂回させられていたのだ。


 最近生じたバグではない。その術式の杭は完全に岩盤と一体化しており、百年単位の長い時間をかけて固定された、巨大な『設計痕』だった。


 さらに、その強制迂回ポイントのすぐ横、旧管理施設の壁面だったと思われる崩れた石壁に、一枚の古い金属プレートが埋め込まれているのが見えた。


 それは、神界とやり取りするための古い記録板だった。


 そこに刻まれていたのは、かつて誰かがこの異常な光脈の偏りを神界に申請し、そして『却下』されたという、生々しい記録。


 点と点が、一本の線に繋がった。


 今日のレオンの事故も、九年前のノアの死も、決して偶然ではなかった。百年前の意図的な改変と隠蔽が、今この瞬間に繋がっている。


 俺たちはついに、この世界を腐らせている一番深い闇の入り口に立っていた。

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