第23話 祝福が、人を英雄に壊す
第22日の朝。神界での過酷な謁見を終え、俺とエリシアは転送門を通じてルミナリエルの初期街へと帰還した。
ギルド前の広場は、朝から異常な熱気に包まれていた。足の踏み場もないほど密集した群衆の中心には、粗末な革鎧を着た若き剣士が立っている。初期街の初心者迷宮で何度か顔を見たことがある、レオンという真面目な青年だった。
上空の雲が渦を巻き、天から神界審査長ヴァルドレンの冷徹な声が響き渡る。
『これより、中間監査の実地課題を開始する。指定個体レオンに、神界より【英雄祝福】を付与する』
宣告と同時に、天頂から極太の黄金の光柱が降り注ぎ、レオンの身体をすっぽりと包み込んだ。
すさまじい魔力の圧風が広場を吹き抜け、野次馬たちが悲鳴を上げて後ずさる。光が収まった後、そこに立っていたレオンの姿は、先ほどまでとは別人のように変貌していた。
彼の身体の周囲には、濃密な魔力が陽炎のように揺らめいている。レオンが何気なく腰の剣を抜いて一振りしただけで、鋭い突風が巻き起こり、広場の石畳に深い亀裂が走った。
「す、すげえ……! なんだよこの力、身体が羽みたいに軽い! 力が無限に湧いてくる!」
レオンは自分の両手を見つめ、無邪気な、しかしどこか常軌を逸した高い声で叫んだ。
祝福がもたらしたのは、劇的な身体能力の上昇だけではない。彼の瞳孔は不自然なほど見開き、その表情には「自分は絶対に負けない」という絶対的な万能感が張り付いていた。
「すごいぞ、レオン!」「彼がいれば、もう魔獣なんて怖くない!」「俺たちの英雄だ!」
周囲の冒険者や住民たちが、彼を取り囲んで熱狂的な歓声を上げる。莫大な力を与えられた存在を前に、人々は自ら考えることを放棄し、「彼がいれば安心だ」という盲目的な崇拝へと傾いていく。
レオン自身も、その期待と歓声を全身で浴び、恍惚とした笑みを浮かべていた。「俺がこの街を守る。もう眠らなくたって、何日でも戦い続けられるんだ!」
洗脳の魔法がかけられたわけではない。だが、極端に与えられた過剰な力と、周囲からの無責任な期待の連鎖が、一人の素朴な若者を、暴力の象徴である『英雄』という怪物へと急速に作り変えていくのが分かった。俺は隣に立つエリシアを見た。彼女は顔を青ざめさせ、震える手で自身の外套の裾を握りしめていた。
その日の午後。
英雄という存在がどれほど危ういバグを孕んでいるか、現実がすぐに証明した。
初期街の近郊、物流の要となっている街道沿いに、数十体規模の魔獣の群れが出現したのだ。本来であれば、ガルド隊長が指揮を執り、支援職を含めたパーティ同士で強固な防衛陣形を組んで迎撃するはずの事態だった。
だが、事態を聞きつけたレオンは、誰の指示も待たずに単独で飛び出していった。
「退いてろ! 俺一人で十分だ!」
善意と使命感に駆られたレオンは、ガルドたちが陣形を整える間も無く、魔獣の群れのど真ん中へと突撃した。
圧倒的だった。彼が大剣を振り回すたびに、上位の魔獣すら紙切れのように両断され、血飛沫が宙を舞う。だが、その戦い方は完全に狂っていた。
魔獣の爪がレオンの肩を深く抉っても、彼は顔をしかめることすらしない。痛みを全く感じていないのだ。自らの肉体の損耗に気づかないまま、彼はただ目の前の動くものを破壊するためだけに、狂ったような速度で剣を振り続けていた。
恐怖を覚えた魔獣の残党が、本能に従って蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。
「逃がすか! 一匹残らず俺が狩り尽くしてやる!」
万能感に酔いしれたレオンは、陣形に戻るという基本すら忘れ、逃げる魔獣を執拗に深追いし始めた。その結果、どうなったか。
追い詰められた魔獣たちが逃げ込んだのは、初期街の居住区に繋がる大通りと、巨大な物流用石橋の方向だった。
「きゃあああっ!」
「逃げろ! 魔獣が街に入ってくるぞ!」
逃げ惑う住民たちの悲鳴が響き渡る。魔獣の反撃の炎が民家の屋根を焼き、レオンが放つ無軌道な斬撃の余波が、石橋の土台を無惨に削り取っていく。
「大丈夫だ、俺が全部倒すから安心してくれ!」
瓦礫が降り注ぎ、街が破壊されているというのに、レオンは自分が街を壊している自覚すら持っていなかった。彼はただ、魔獣を狩る己の力に陶酔し、狂ったように笑いながら剣を振るっている。
彼は悪人ではない。ただ、神のシステムによって歪められ、ブレーキを完全に壊されただけの哀れな犠牲者だった。
俺は逃げ惑う人々の波を逆走し、石橋のたもとへと走った。
眼球に意識を集中させる。
『表層読み』。本日一回目。
視界が暗転し、レオンの身体をすっぽりと覆っている分厚い魔力の層――『祝福』の正体が、異常な赤い亀裂となって視覚化される。
だが、表層をなぞっただけでは、彼の精神がどういう順序で壊れているのかが分からない。亀裂の動きが速すぎた。
「……もっと奥だ。根本の切替点を見極める」
俺は、激しい頭痛を覚悟の上で、さらに一段階深く意識を沈めた。
『深読み』。原則一日に一回。
発動した瞬間、脳髄を焼き切るような激痛が俺を襲った。
視界が明滅し、瓦礫の山が、九年前の泥にまみれた採取場へと変貌する。
青鈴花を結んだ採取籠の金属音が、風に揺れて高く、酷く鈍く鳴り響く。指先から滑り落ちていくノアの冷たい手の感触。何度警告しても、大人の誰一人として信じてくれなかったあの絶対的な無力感が、喉の奥を塞ぐように這い上がってくる。
「……ぐ、ぅっ!」
膝から崩れ落ちそうになる痛みに耐え、俺はレオンの精神を侵食している因果の線を辿った。
分かった。祝福が彼を狂わせている順序。
彼は万能感に酔って痛みを感じなくなったのではない。逆だ。
最初に強制的な『痛覚の完全遮断』が行われ、肉体の限界を知らせるアラートがすべて切られた。その絶対的な無痛状態が、彼の精神に「自分は傷つかない」という『判断の歪曲』を生み出し、万能感という怪物を作り出しているのだ。
痛みを戻さなければ、彼は死ぬまで止まらない。
「エリシア……!」
フラッシュバックの痛みに喘ぎながら俺が振り向くと、そこには神紋を輝かせたエリシアが立っていた。
「レオンは限界だ! 橋が落ちる。魔獣とあいつを、これ以上市街の奥へ入れるな!」
「分かりました!」
俺が示した解析結果と警告を、彼女は一瞬の迷いもなく信じた。かつてのように「それは仕様の範囲です」と疑うことはしない。俺たちはもう、言葉を尽くさずとも互いの判断基準を共有する相棒になっていた。
エリシアは両手を天に掲げ、神威を解放した。
黄金の光が市街を包み込み、逃げ遅れた住民たちの足元に光の道を作り出して安全な高台へと誘導する。同時に、彼女は魔獣とレオンが向かっていた居住区への経路――石畳の道路と、崩れかけていた石橋の接続部分の魔力流を操作し、物理的にスッパリと切断した。
凄まじい地響きと共に、巨大な石橋の中央部分が切り離され、市街への直通ルートが完全に絶たれる。
エリシアの胸の奥で、神核の亀裂が痛みに軋むのが見えた。だが、彼女は顔をしかめるだけで、決して術式を緩めようとはしなかった。
経路を断った直後、俺は再び眼球に意識を戻した。
『表層読み』。本日二回目。
視界の圧迫感にめまいを覚えながらも、俺は切り離された橋の上で暴れ回るレオンの動きの隙と、石橋の最終的な限界点を測る。
「よし……被害の拡大は防いだ。魔獣もあらかた片付いた」
俺たちの連携により、市街の完全な崩壊と住民の犠牲は、ギリギリのところで食い止められた。
だが、問題は解決していない。
切り離された橋の中央に取り残されたレオンは、周囲に敵がいなくなったにもかかわらず、まだ見えない敵を探すように大剣を振り回している。虚ろな目で笑いながら、自分の限界を超えた魔力を放出し続けていた。
「レオンを止めなければ、彼は自身の放出する魔力に耐えきれずに自壊します」
エリシアが肩で息をしながら、悲痛な声で言った。
「ああ。アイツの目を覚まさせるには、神界からの『祝福』そのものを解除して、ただの人間に戻すしかない」
俺がそう言って一歩踏み出そうとした、その時だった。
厚い雲の隙間から、世界全体を冷たく見下ろすような、ヴァルドレン審査長の声が響き渡った。
『待て、ルミナリエルの管理者たちよ。それは許可できない』
空を震わせる絶対的な神の威厳。
『その個体は、まだ神界が規定した英雄の出力基準に達していない。今、その者の祝福を人為的に停止すれば、実地課題は失敗と見なす。その時点で、ルミナリエルは中間監査において完全な【失格】となり、世界炉の供給は直ちに断たれることになる』
その無慈悲な宣告に、俺の足がピタリと止まった。
それは、究極の二択だった。
世界の合格――神界が定めた「順位」を守るために、一人の若者が壊れた英雄のまま自滅するのを黙って見届けるか。
それとも、順位を捨てて、彼をただの住民に戻し、世界を道連れにするか。
舞い上がる瓦礫の埃の中、俺とエリシアは無言のまま、互いの視線を強く交わし合った。




