第22話 完成世界より、あなたの失敗を選ぶ
第21日の朝。
神界の無機質な客室で、俺は机の上に置かれた一枚の羊皮紙を見下ろしていた。
創造女神の印が押された、白紙の『修正契約解除書』。エリシアが俺に差し出した、自由への切符だ。署名の期限である正午まで、あと数時間しか残されていない。
俺は椅子に深く腰掛け、頭の中の天秤を揺らした。
上位創造女神セレーネが提示した「完成されたエリュシオンの管理者」という条件。それは、理屈で考えればこれ以上ないほど魅力的な提案だった。
あそこに行けば、バグに怯える必要はない。赤い亀裂を見るたびに、眼球の奥を焼かれるような反響痛に耐える必要もないのだ。何より、九年前のノアのような理不尽な死は、あの世界には絶対に存在しない。
俺は元々、辺境の村を出て、魔獣の出ない安全な中央地域へ移住するための『通行証』を買おうとしていた。セレーネの提案に乗れば、通行証のための資金など全く無意味になるほどの、絶対的な安全が約束される。
自分の命と精神の摩耗を考えれば、エリシアの解除書に署名し、セレーネの元へ行くのが最も合理的で「正しい」選択だった。
だが、サインをするための炭筆を握る手は、どうしても動かなかった。
「……少し、頭を冷やしてくる」
俺は誰に言うともなく呟き、客室を出て、神界の回廊に設置された受信卓へと向かった。
水晶の卓の前に立つと、ルミナリエルの初期街から、試験導入されたばかりの功績札通信網を通じて、短い遅延報告が次々と届き始めた。一昨日、俺がセレーネとの視察を終えた後に見ていた、ミレナたちの動向の続きだ。
『初期街ギルド:薬材の共同購入ネットワークにおいてトラブル発生。各治癒院の利益分配と、拠出金の割合を巡って激しい対立が勃発。一部の治癒院が離脱を宣言』
文字列を読み、俺は小さく息を吐いた。
やっぱり、そう簡単にうまくはいかない。制度の欠陥を直しても、今度は新しく手にした権利や利益を巡って、人間同士の欲がぶつかり合う。セレーネが「未完成な世界は無駄な損耗を生む」と切り捨てた通りの展開だった。
エリュシオンであれば、このような摩擦はシステムによって未然に計算され、最適な分配が強制されることで争い自体が起こらない。
だが、受信卓の光は止まらず、数時間遅れの『追報』をカタカタと印字していった。
『追報:ミレナの主導により、緊急会議を広場にて開催。各治癒院の患者数、薬材の消費量、功績札の実績データをすべて公開。離脱を宣言した治癒院も含め、全員で数値を照合』
『追報:激しい議論の末、消費量に応じた変動拠出制を導入することで妥結。離脱は撤回され、共同購入ネットワークの維持が決定』
その文字列を見た瞬間、俺の胸の奥で、何かが熱く弾けた。
彼らは神に祈って奇跡を求めたわけではない。不完全な制度の中で生じた争いを、記録を公開し、互いに文句を言い合い、妥協点を見つけることで、自分たちの手で『折り合いをつけた』のだ。
セレーネの完成された世界には、そもそも失敗も争いも存在しない。だが、失敗がないということは、そこから先の「更新」もないということだ。
ルミナリエルの住民は、泥臭くぶつかり合いながら、確実に昨日よりもマシな制度へと世界を更新している。その力強い歩みは、俺が昨日エリュシオンで感じた「息苦しいほどの安全」よりも、ずっと尊く、血の通った価値を持っていた。
俺が本当に欲しかったのは、ただ安全なだけの水槽じゃない。
間違えた時には止めてくれて、失敗したら一緒に直していける相手だ。
俺は踵を返し、エリシアの待つ客室へと迷いなく歩き出した。
客室の扉を開けると、窓際で外の景色を見つめていたエリシアが、びくりと肩を震わせて振り向いた。彼女の顔には、死刑宣告を待つような強張った表情が浮かんでいる。
俺は机の上にあった白紙の『修正契約解除書』を手に取った。
「ユウ……」
エリシアが消え入るような声で俺の名を呼ぶ。
俺は羊皮紙を破り捨てることはせず、そのまま彼女の胸元へと突き返した。
「……これは、あんたに返す」
エリシアは目を見開き、突き返された羊皮紙と俺の顔を交互に見た。
「セレーネ様の世界は、完璧だ。安全だし、効率的だし、何より俺が痛みを感じなくて済む。彼女のやり方を否定するつもりは微塵もないし、あっちの方が管理者として優秀なのは間違いない」
「なら、どうして……!」
「でも、俺は『失敗できる世界』の方が好きらしい」
俺は肩をすくめ、彼女の顔を真っ直ぐに見据えた。
「初期街の連中は、俺たちがいない間にも自分たちで揉め事を起こして、記録を突き合わせて自分たちで解決した。彼らのその『更新力』を、俺はもう少し側で見ていたい。それに……」
「それに?」
「不器用で、人の目線に怯えて、すぐに袖を焦がすような鈍臭い相棒を放っておいたら、この世界は本当に半年で終わっちまうからな」
エリシアの瞳から、ポロリと大粒の涙がこぼれ落ちた。
彼女は顔を真っ赤にして、慌てて目元を外套の袖で乱暴に拭う。
「ど、鈍臭いとは失礼な! 私は創造女神ですよ! あなたがどうしても私のもとで働きたいと懇願するなら、この契約書は破棄してあげても構いませんが!」
泣きながら精一杯の虚勢を張る彼女を見て、俺は思わず吹き出した。
「懇願はしない。ただし、俺はあんたを無条件に信頼して残るわけじゃないぞ」
俺は笑いを収め、真剣な声で告げた。
「これから先も、世界の構造を変更した記録はすべて住民に公開し続けること。それが、俺がこの世界に残る継続条件だ。神界からの強制的な契約じゃなく、これは俺とあんたの自発的な契約だ」
「……っ」
エリシアの顔にぱっと広がっていた喜びの色が、ほんの一瞬だけ、強張った。
記録をすべて公開し続ける。それは、隠し事をしないという健全な約束だ。だが、彼女の瞳の奥には、その条件に対する言い知れぬ『隠蔽が暴かれることへの恐怖』が確かに混ざっていた。
彼女はまだ、俺に言っていない何か重大な秘密を抱えている。
だが、それでも彼女は、震える手で羊皮紙を握り潰し、はっきりと頷いた。
「……分かりました。その条件、創造女神の名においてお受けします」
俺たちが新たな契約を結び直した、その直後だった。
神界の回廊全体に、空気を震わせるような重々しい鐘の音が鳴り響いた。監査の間からの、全域に向けた通達の合図だ。
俺とエリシアは顔を見合わせ、急いで回廊へと出た。
空間に浮かび上がった巨大な光の文字が、明日行われる中間監査の実地課題の詳細を無慈悲に告げていた。
『通達。明朝、ルミナリエル初期街における実地課題【英雄祝福】を実行する。対象個体は、冒険者ギルド所属の若手剣士・レオンとする』
「レオン……」
それは、俺たちが初期街で何度か顔を見たことのある、血気盛んだが腕の立つ若者の名前だった。
ヴァルドレン審査長の冷徹な効率主義が、一人の若者の精神と肉体をどう歪め、世界にどんな皺寄せをもたらすのか。
俺たちは決意を新たに、最も過酷な監査の始まりを告げる鐘の音を聞き続けていた。




