第21話 女神は俺を引き留めない
第20日の朝。
神界に用意された俺とエリシアの客室は、白い石材だけで構成された、ひどく無機質で冷たい空間だった。
装飾も生活感もなく、ただ必要な機能だけが備わっている。セレーネの管理するあの完成された都市と同じ、息の詰まるような完璧さがそこにはあった。
窓際に立っていたエリシアが、振り返って俺を見る。
「……ヴァルドレン審査長は、何と?」
俺は部屋の中央にある簡素な椅子に腰を下ろし、昨日突きつけられた事実を淡々と語った。
中間監査の実地課題として、ルミナリエルの一人の若者に『英雄祝福』が付与されること。それが、俺たちが今まで否定してきた効率と犠牲を前提としたシステムであること。
そして――上位創造女神セレーネから、ルミナリエルを見捨てて、彼女の完成された世界を受け取らないかと提案されたこと。
すべてを聞き終えたエリシアは、激昂することも、取り乱すこともなかった。
彼女はただ静かに伏し目がちになり、少しの間、沈黙した。
やがて、彼女はゆっくりと俺の前に歩み寄り、懐から一枚の羊皮紙を取り出して机の上に置いた。
羊皮紙には、創造女神としての彼女の神紋が淡く発光しながら刻まれている。
「これは……?」
「『修正契約解除書』です。ここにあなたが署名すれば、私とあなたがルミナリエルで結んだ監査官としての契約は、神界の法に則り、完全に白紙に戻ります」
エリシアは両手を体の前で組んで、俺の目を見据えた。
「あなたは本来、辺境の村で通行証を買うための資金を貯めていましたね。危険な土地を捨てて、安全な場所で暮らすために」
「……ああ」
「私は、ルミナリエルを救うという大義名分を盾にして、あなたのその正当な目的を奪い、理不尽な痛みを伴う観測に縛り付けていました。……私の傲慢です」
彼女の言葉は、酷く冷静だった。
村人たちの前で見せていた威厳も、俺に食ってかかるときの不器用な感情の昂りもない。ただ、自らの責任を正確に切り分けているようだった。
「セレーネ様の管理するエリュシオンは、確かに窮屈かもしれません。ですが、あそこには魔獣も、飢えも、理不尽な仕様による死も存在しない。何より……あなたが赤い亀裂を見て、過去の失敗の痛みに苦しむ必要がないのです」
彼女は、俺が昨日エリュシオンの防壁試験場で見せた無力感を、理解していた。
バグを直す必要がない世界なら、俺はもう痛まなくて済む。
「もしあなたがセレーネ様の世界へ行くというのなら、私は止めません。この解除書に署名し、自由になってください」
俺は、机の上の羊皮紙と、エリシアの顔を交互に見た。
「……いいのか。俺がいなくなれば、あんたの世界は次こそ本当に廃棄されるぞ」
「それは、管理責任者である私が背負うべき結果です。住民であるあなたを犠牲にしてまで世界を延命させる権利は、私にはありません」
言い切る彼女の顔は、透き通るように白かった。
俺の目には、彼女の強がりの奥に潜む異常がはっきりと見えていた。彼女の胸の奥底――神の命そのものである『神核』の表面に走る赤い亀裂が、彼女の心が軋むのに合わせて、僅かに脈打つように痛みを放っている。
本心ではない。
俺を手放せば、彼女は世界ごと消滅するのだ。残って助けてほしいに決まっている。
神の権力で俺を脅すこともできただろう。泣き落としで情に訴えかけ、罪悪感で俺を縛り付けることもできただろう。
だが、エリシアはそのどれもしなかった。
彼女は、俺を世界を救うための便利な「観測装置」としてではなく、自分の人生を選ぶ権利を持った「一人の人間」として尊重し、ただ自由だけを返してきた。
「……期限は」
「明日の正午。神界が実地課題の準備を締め切る時刻までです。それまでに、決断してください」
俺たちは無言のまま客室を出て、監査のための事前準備室へと向かった。
神界の施設内は、莫大な量の魔力圧と、無数の世界の処理データが飛び交っている。俺の特異な目は、その情報量の多さに耐えきれず、歩いているだけで眼球の奥がズキズキと痛み出していた。
準備室の無機質な机に並んで座った瞬間、軽い目眩に襲われ、俺は思わずこめかみを強く押さえた。
「……ッ」
その時だった。
机の下で、エリシアの冷たくて柔らかな手が、俺の右手を強く握りしめた。
崖上村で火の粉を浴びて焦がしてしまった彼女の外套。その焦げ跡が残る長い袖口で、周囲の視線から隠すようにして、しっかりと俺の指に自分の指を絡めてくる。
神力が流れ込み、脳を焦がしていた魔力の反響がスッと引いていった。
「……術式接続ですか。人間の体には、神界の空気は負担が大きすぎますから」
エリシアは前を向いたまま、誰に言い訳をするでもなく小さく呟いた。
俺は握られた右手に意識を向けた。
彼女の手は微かに震えていた。遠くの席では、上位創造女神であるセレーネが、静かな視線をこちらに向けている。
エリシアの横顔には、セレーネに対する明らかな嫉妬と、明日には俺がこの手を振り払って消えてしまうかもしれないという、隠しきれない不安が色濃く浮かんでいた。
強がらなくていい。引き留めてくれれば、俺は……。
俺がそう思い、握り返そうと指に力を込めた、その瞬間だった。
スッ、と。
エリシアは、自分からその手を離した。
「……え?」
俺が間の抜けた声を出すと、彼女は袖口を整え直し、膝の上に両手を綺麗に揃えて座り直した。
「痛みが引いたのなら、十分ですね。あとはご自分で耐えてください」
突き放すような言葉だったが、その意図は明らかだった。
彼女は、俺の痛みを和らげるために手を握った。
だが、その手の温もりで俺の心を縛り、選択を誘導するような真似は決してしなかったのだ。
引き留めない。泣かない。命令しない。
ただ、俺が俺自身の意思で明日を選ぶことだけを、静かに待っている。
俺の右手から、彼女の体温が急速に失われていく。
机の上には、ルミナリエルの運命を決める英雄祝福の課題資料と、客室から持ってきた白紙の『修正契約解除書』が並べられていた。
完成された安全な世界への切符は、すぐ目の前にある。
だが、俺の心の中にあったのは、逃げ道を見つけた安堵ではなく、不器用な女神から手渡された重すぎる「自由」への戸惑いだった。
署名の期限まで、あと二十四時間を切っていた。




