第20話 妹の死は、許容範囲だった
第19日の午後。
完成された世界を譲渡するというセレーネの提案に、俺が答えを返せずにいると、回廊の奥から静かで威圧的な足音が響いてきた。
「――そこまでにしておけ、セレーネ。その観測個体には、私からも伝達すべき事項がある」
現れたのは、神界審査長ヴァルドレンだった。
一切の感情を感じさせない冷徹な眼差しが俺を射抜く。セレーネは小さく一礼し、「では、良い返事を期待しています」と言い残して、光と共にその場を立ち去った。
後に残された俺は、ヴァルドレンの促すまま、彼の執務室へと足を踏み入れた。
神界の中枢にあるその部屋は、装飾が一切排除され、空間の至る所に無数の世界の観測データが浮遊している、冷たい計算室のような場所だった。
「ルミナリエルの観測個体よ。お前は、自分のやっていることが絶対的に正しいと信じているな」
ヴァルドレンは水晶の机に腰を下ろすこともせず、俺に向かって問いかけた。
「正しいかどうかは分からない。ただ、現場で起きているバグを直しているだけだ」
「ならば、これを見ろ」
ヴァルドレンが指先を動かすと、部屋の中央に生々しい光景が投影された。
それは、どこかの世界の都市が、炎と暴動によって崩壊していく記録映像だった。
「十一年前、私が直轄で監査した分散世界の崩壊記録だ。当時の管理女神は、住民の自主性を重んじ、各地域に世界炉からの魔力供給権限を完全に分散させた」
映像の中で、魔獣の大群が都市の防壁に迫っている。
「大規模な魔獣の襲撃という危機が訪れた際、防壁を維持するために、各地域は自らの生活魔力を削り、損失を共有しなければならなかった。だが、何が起きたか分かるか?」
ヴァルドレンの言葉と共に、映像の中の都市が内側から自壊していく様が映し出される。
「どの地域も、自分たちの供給削減を拒否した。事前の合意形成もないまま危機に直面した住民たちは、エゴを剥き出しにして互いの魔力網を奪い合い、連携が崩壊した。結果、魔獣に蹂躙される前に、世界は連鎖的に自滅したのだ」
俺は息を呑んだ。炎に焼かれる人々の姿は、決して作られた幻影などではない。
「住民は、平時ならば賢く振る舞う。だが、危機に直面した時、自らの損失には決して合意できない。それが私が立ち会った事実であり、確信だ」
ヴァルドレンの言葉が、重い鉛のようにのしかかってくる。
俺は崖上村で、住民たちが自らの安全のために道を手放すのを見た。彼らは合理的だった。だが、もしあの時、誰か一人でも「自分が我慢して危険な道を降りる」と言い出さなければならない状況だったら、どうなっていただろうか。
多数決で解決できない痛みを前にした時、人間は本当に正しく振る舞えるのか。俺は、ヴァルドレンが突きつけた血の通った歴史的事実を前に、一言で論破することができず、押し黙るしかなかった。
「お前たちがルミナリエルでやろうとしている『支援職による損失回避』や、住民の合意に基づく修正は、平時の砂上の楼閣に過ぎない」
ヴァルドレンは空間に浮かぶ映像を切り替え、今度は無数の球体が連なる立体図を表示した。
「私が統括する二十三の管理世界の資源配分モデルだ。私は限られた神界の維持資源を配分する責任を負っている。資源を最も効率よく使い、世界を維持するための絶対の指標が『英雄の数』と『危機の突破力』だ。強者に資源を集中させ、魔獣を狩り尽くす。それが最も確実で、被害を最小限に抑える全体最適の数式なのだ」
彼は冷徹に、自らの管理責任を語る。
「もし、お前がルミナリエルで行っている非効率な支援行動の評価モデルが、監査神会で正式に認められてしまえばどうなるか。私が過去に行ってきたすべての判断と、二十三世界全体の資源配分に対して『再監査』が必要になる。それは神界のシステムを根底から揺るがすバグだ。私は審査長として、個人的な利害においても、それを認めるわけにはいかない」
残虐な悪趣味などではない。
彼がマルドのような搾取を許容し、英雄を優遇するのは、神界全体の維持という巨大な責任と、冷徹な計算の上に成り立っているのだ。
「だからこそ、お前を神界直属の監査官として迎え入れたい」
ヴァルドレンは、驚くべき提案を口にした。
「お前は、壊れかけたルミナリエルの自己修復反応が生み出した、極めて特異で優秀な観測個体だ。その赤い亀裂を見る力は、神界のシステムをより完璧に近づけるためにこそ使われるべきだ。エリシアのような無能な女神の元で腐らせるには惜しい」
「……妹を殺したシステムを、俺に手伝えと言うのか」
俺は奥歯を噛み締め、絞り出すように言った。
「初期街の初心者迷宮の地下に、あんたが推奨する『英雄生成配置』があった。あそこに魔力を集中させたせいで、辺境の安全指定区域に魔力過負荷の皺寄せがいき、九年前にノアが死んだ。あんたの全体最適のせいでな!」
俺の怒りをぶつけられても、ヴァルドレンの表情は微塵も揺らがなかった。
「そうだ。強力な魔獣を意図的に流入させ、英雄を育成する以上、防衛線の手薄な辺境で一定数の非戦闘員が死亡することは、確率的に避けられない」
彼はまるで、欠陥品を不良在庫として処理するような冷たさで告げた。
「お前の妹の死は、悲劇ではない。世界全体を回し、より多くの命を救うために許容された『仕様内』の損失だ」
仕様。
その言葉を聞いた瞬間、俺の中で張り詰めていた糸が切れそうになった。
エリシアが最初に口にした時は、ただの傲慢な言い訳だった。マルドが口にした時は、搾取を正当化するための盾だった。
だが、ヴァルドレンの口にする「仕様」は違う。何十万という命を天秤にかけ、世界を存続させるために、明確な意思を持って切り捨てられた命のレッテルだ。
激しい怒りが視界を赤く染める。胸ぐらを掴み、その冷徹な顔を殴りつけてやりたかった。
だが、俺はギリギリのところで踏みとどまった。
こいつを殴ったところで、システムは変わらない。それに、こいつの言う全体最適の数式を、俺は論理的に崩す言葉をまだ持っていない。怒りだけでこいつを単純な悪党として切り捨てることは、俺自身の敗北を意味していた。
重苦しい沈黙が執務室を支配した時。
俺の腰に提げていた受信用の小型端末が、場違いなほど軽快な音を立てて振動した。
エリシアが俺に持たせた、ルミナリエルからの遅延通信を受信する端末だ。
ヴァルドレンの冷たい視線を浴びながら、俺は端末の画面に目を落とした。
表示されていたのは、功績札通信網から送られてきた、たった一行の短い観測文だった。
『東部鉱山第4坑道にて、荷揚げ用綱の深刻な摩耗を案内役が発見し、交換。魔獣との交戦なし。死傷者ゼロ。英雄点の発生なし』
それは、神界の統計には決して載らない記録。
魔獣を倒したわけでもなく、誰も血を流していない。英雄が活躍する場が生まれる前に、ただの支援職が地味な点検作業によって、起こるはずだった滑落事故を未然に防いだという、名もなき功績だった。
「……英雄点の発生なし、か」
俺は端末の画面を指でなぞりながら、小さく息を吐いた。
もし俺がヴァルドレンの誘いに乗り、神界直属になればどうなるか。
俺は買おうとしていた通行証など必要なくなり、絶対の安全と権限を手に入れることができる。妹の死のような「仕様」を、今度は俺自身が上から書き換える側に回れるかもしれない。セレーネの言う通り、完成された世界で無駄な摩擦なく生きることもできる。
誘惑は、底なし沼のように深く、甘かった。
だが、俺の手に握られた小さな端末には、今もルミナリエルで泥臭く働き、誰も見ていないところで損失を防いでいる連中の体温が残っている。
「返答は、英雄祝福の実地運用の結果を見てからにする」
俺はヴァルドレンに背を向け、執務室の扉へと歩き出した。
神界の圧倒的な論理と、抗いがたい誘惑。
俺の心は激しく揺れ動いていた。もし俺がこのまま神界のシステムに取り込まれそうになった時、あの不器用な女神は、自らの権限や契約を盾にしてでも俺をルミナリエルに縛り付けてくれるのだろうか。
重い足取りで回廊を歩きながら、俺はエリシアの待つ客室へと向かった。




