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第19話 完璧な女神の世界

翌、第19日。上位創造女神セレーネが開いた転送門をくぐり抜けた先には、俺の知るいかなる街とも違う、異様なまでに完成された景色が広がっていた。


「ここは私の管理する第二十八世界、『エリュシオン』の中央都市です」


 先導するセレーネの声には、誇張も謙遜もない。ただ事実としての自信だけが満ちていた。


 都市の景観は、すべてが白亜の石材で統一されている。建物の高さは区画ごとに寸分の狂いもなく揃えられ、道路には塵一つ落ちていない。街を流れる魔力流は、ルミナリエルのように自然の川や森を蛇行するのではなく、地下に張り巡らされた直線の導管を通って、各施設へと完璧な効率で分配されていた。


「素晴らしい街だ。……だが、息が詰まる」


 俺が率直な感想を口にすると、セレーネは振り返り、淡く微笑んだ。


「ええ。息苦しさはあるでしょうね。この世界では、職業は生まれ持った適性値によってシステムが自動で最適分配します。居住地の移住には、街の資源バランスを崩さないよう十年単位の事前申請が必要です。もちろん、不測の事態を防ぐため、夜間の外出や『祭り』の開催規模、消費カロリーに至るまで、すべて私が安全に管理しています」


「……そこまでやるのか。人間を飼育しているのと変わらないじゃないか」


「ですが、結果としてこの世界における魔獣の侵入率、餓死者、そして事故死者の数は、神界の統計上『ゼロ』を維持し続けています」


 その言葉に、俺は足元から這い上がってくるような悪寒と、強烈な誘惑を同時に感じた。


 自由はない。泥臭い活気もない。だが、安全なのだ。


 もし九年前、俺とノアがこの世界に生まれていたら。


 危険な採取路に向かうこと自体がシステムに弾かれ、あんな無意味で理不尽な死に方をすることは、絶対にあり得なかった。安全指定のバグなどというものは、この完璧な女神の世界には存在しないのだから。


 俺は、自分がこの管理体制を完全には否定できないことに気づき、奥歯を強く噛み締めた。


「あなたに、私の世界の『端』を見てもらいましょう」


 セレーネは俺を都市の郊外にある、巨大なドーム状の施設へと案内した。


 そこは、都市を覆う魔力防壁の限界値を測るための試験場だった。中央に設置された結界発生器に対し、複数の魔術師が安全な隔離室から意図的な過負荷をかけ、耐久試験を行っている。


「安全を証明するためには、極限状態のデータが必要です。あの中は現在、ルミナリエルの初心者迷宮の数十倍の魔力圧が渦巻いています。もちろん、内部には誰も――」


 セレーネが解説を終えるより先に、俺の眼球の奥が鋭い痛みを訴えた。


『表層読み』。本日一回目。


 反射的に発動した視界の中で、視認を拒むような分厚い防壁の向こう側に、夥しい数の赤い亀裂が走り出すのが見えた。


 亀裂は、結界発生器の頭上にある、古い点検用の足場に集中している。そして、その足場の影には、想定外の魔力流の乱れによって退避が遅れ、孤立してしまった一人の整備員の姿があった。


 俺は亀裂の動きから、三秒後に足場の右側が崩落し、男が魔力の奔流に飲み込まれる因果の線をはっきりと視覚化した。


「おい、止めろ! 上に人が残ってるぞ!」


 俺は隔離室のガラスを叩き、喉が裂けるほどの声で叫んだ。


 だが、俺の声は分厚い防音結界に完全に遮断され、中の魔術師たちには届かない。俺はこの世界の住民監査官ではない。ただの外部の観測者だ。システムに介入する権限も、結界を止める手段も、何一つ持っていない。


 ただバグが見えるだけの、完全な無力。


 足場の固定具が限界を迎え、ひしゃげる音が響いた。


 その瞬間、セレーネの目が鋭く細められた。


「……規定外の生体反応。なぜあそこに」


 彼女はすぐさま指先を翻し、虚空に無数の術式を展開した。エラーの原因を特定し、結界の出力を強制低下させ、崩落する足場から整備員の身体を光の帯で包み込んで安全地帯へと引き寄せる。


 その神業のような手際により、整備員はかすり傷一つ負うことなく救出された。


 結果だけを見れば、完璧な救済だ。


 だが、俺は見逃さなかった。


 セレーネが異常を検知してから、実際に救助の術式を展開するまでに、「約五秒」の遅延が生じていたことを。


「……今の五秒は、何だ」


 俺が問い詰めると、セレーネは隠すことなく答えた。


「私のシステムは、想定内の事故に対しては即座に自動対応します。ですが、あの整備員が立ち入ったのは『システム上、人間が存在するはずのない座標』でした。そのため、規定外の事象として処理が管理者である私に回され、状況を再計算し、最適な救助ルートを割り出すまでに時間を要したのです」


 安全を極限まで管理した世界だからこそ、想定外のバグに対する初動がどうしても遅れる。


 誰もがマニュアル通りに動く世界では、マニュアルを外れた瞬間に命の保証が消えるのだ。


 視察を終え、俺たちは神界の回廊に並ぶ『受信卓』の前へと戻ってきた。


 エリシアもここで待機しているはずだが、今は姿が見えない。


 俺が水晶の卓の前に立つと、ルミナリエルに構築した『功績札通信網』から、試験導入されたばかりの光信機能を通じて、短い遅延報告が次々と届き始めた。


『初期街ギルド:新米の治癒師より、昨日の戦闘記録において不当な査定申告の疑いありとの通報を受理。冒険者と激しい口論に発展』


 それを見て、セレーネが静かに息を吐いた。


「ほら、やはり未完成な世界では、すぐに摩擦と争いが起きます。人間同士に自由に権利を持たせれば、欲がぶつかり合い、無駄な損耗を生むだけです」


 だが、受信卓にはその続きの短文がカタカタと表示されていく。


『追報:ガルド隊長が介入。双方の功績札の物理記録を広場にて公開照合。冒険者側の過大申告と判明し、話し合いにて妥結。罰金なし、差額の返還のみで合意』


『ミレナより通達:上記トラブルを受け、各治癒院の在庫データを功績網で共有する仕組みを試験稼働。薬材の共同購入ネットワークを立ち上げます』


 俺は、その文字列を見つめながら、自然と口角が上がっている自分に気づいた。


 セレーネの言う通り、ルミナリエルは摩擦だらけで、常に誰かが揉めている。


 だが、彼らは俺が用意したシステムをただ受け入れるだけでなく、問題が起きるたびに自分たちで記録を突き合わせ、喧嘩をし、折り合いをつけながら、泥臭くシステムを「更新」しているのだ。


 失敗を隠さず、全員で直していく世界。俺の目には、それがひどく愛おしく、体温のあるものに思えた。


「……あなたのその目です」


 セレーネが、俺の横顔を見つめながら静かに言った。


「私の世界は、安全ですが硬直しています。先ほどの事故のように、システムが想定外の事態に直面した時、どうしても判断に遅れが生じる。私一人で世界のすべてのバグを先読みすることは不可能です」


 彼女は俺に向き直り、透き通った瞳で俺を射抜いた。


「ユウ・アルセイド。私には、あなたのその赤い亀裂を見る目と、現場の記録を繋ぎ合わせて物理的なシステムに落とし込む手腕が必要不可欠です」


 彼女の言葉は、熱烈な告白よりも重く、真摯だった。


「間もなく行われる中間監査で、ルミナリエルはヴァルドレン審査長の理不尽な試験に晒されます。エリシアの力では、到底あなたの命を守りきれません」


 セレーネは俺に向けて、白く輝く手を差し出した。


「崩壊の運命にあるあの世界を見捨て、私の元へ来なさい。私と契約を結ぶのなら、あなたに『管理世界を一つ』、丸ごと与えましょう。そこでなら、あなたはもう理不尽な死に怯えることも、誰かの無知に阻まれることもなく、思う存分にシステムを設計できる」


 それは、俺が買おうとしていた「通行証」などというチャチな逃げ道ではない。


 神の権能によって保証された、飢えも理不尽な死もない、絶対的な安全の玉座。


 俺の脳裏に、ノアの死に顔と、崖上村から逃げていった若者たちの背中がよぎる。この手を取れば、二度とあんな思いをしなくて済む。


 だが、その完璧な世界の玉座の横には、一緒に煤まみれになって不格好に笑い合う、あの不器用な女神の席は用意されていないのだ。


 完成された安全な世界か。失敗を繰り返す泥臭い世界か。


 突きつけられた究極の選択を前に、俺は差し出された白い手を見つめたまま、一言も発することができなかった。

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