第18話 神界中間監査、四日前
第18日の朝。
崖上村の広場に、空間を切り裂くような光の亀裂が生じ、そこから巨大な転送門が姿を現した。
本来ならもっと先のはずだった神界の中間監査は、審査長ヴァルドレンの単独権限によって第22日へと前倒しされている。今日はその事前謁見の日だ。住民監査官という公的な立場にある以上、俺もまたこの転送門をくぐり、神々が待つ監査の場へ出頭しなければならない。
「ユウ、転送の術式は安定しています。いつでも出発可能です」
門の傍らで、監査補佐官のノクトが分厚い書物を閉じながら無機質に告げた。
俺が頷いて歩き出そうとしたその時、上空から一切の無駄がない純白の光の柱が降り注いだ。
光の中から現れたのは、エリシアとは違う、冷ややかなほどに整った美貌を持つ女神だった。彼女の身にまとう衣服にはエリシアのような過剰な装飾はなく、機能性と威厳だけを極限まで追求したような研ぎ澄まされた意匠だ。
「あなたが、ルミナリエルの観測個体……ユウ・アルセイドですね」
彼女は宙に浮かぶこともせず、静かに石畳の上に降り立ち、俺の目を真っ直ぐに見据えた。
「初めまして。私は上位創造女神、セレーネ。今日は中間監査に先立ち、特異な事象が起きているというこの辺境の事前査察に参りました」
嫌味も敵意もない、透き通った声だった。彼女は俺の腰に下がる『功績札』と『死亡台帳』に視線を落とし、興味深そうに目を細めた。
「現場の行動を物理デバイスで固定化し、通信網で繋いで改竄を防ぐ。……人間の手による泥臭い仕組みですが、極めて合理的です。エリシアでは到底思いつかない、現場からのボトムアップの設計ですね。あなたの『バグを観測する力』と、そのシステム構築の知見は、正当に評価されるべき価値があります」
セレーネは、俺の能力を厄介なものとしてではなく、極めて有用な機能として正確に評価した。
だが、彼女のその冷徹な眼差しは、俺の顔色をスキャンするように動いた。
「……しかし、ひどい顔色ですね。眼球の毛細血管に魔力の反響ダメージが蓄積しています」
セレーネは振り返り、少し離れた場所で唇を噛み締めているエリシアに冷ややかな視線を向けた。
「エリシア。あなたの未完成で欠陥だらけの世界は、この優秀な人間の命と精神を不当に消耗させている。管理者として、ひどく非効率で残酷なことをしている自覚はありますか?」
その言葉には、エリシアを貶めようとする悪意は一切なかった。ただ、絶対的な正論と論理だけで、未完成な世界を管理する最下位女神の非を突いているのだ。
エリシアは言い返す言葉を持たず、苦しげに目を伏せた。
「査察は十分です。監査の場でお待ちしていますよ、ユウ・アルセイド」
セレーネは光と共に、神界へと帰還していった。
後に残されたのは、重苦しい沈黙だ。俺はため息をつき、ノクトの待つ転送門へと足を向けた。
「ま、待ってください!」
門をくぐる直前、背後から切羽詰まった声がした。
振り返ると、エリシアが焦ったように駆け寄ってくる。彼女の腕には、三段重ねの巨大な風呂敷包みが抱えられていた。
「これを……持っていきなさい。私も、支度を整え次第そちらへ向かいます」
彼女は半ば押し付けるようにして、その重い包みを俺の腕に預けた。
「なんだこれ」
「お、お弁当です! 神界での監査は長引くかもしれませんから。それに、神界の食事は魔力効率に特化しすぎていて、人間の口には到底合いません。監査官が途中で飢えて倒れられては、私の世界の監査に響きますからね!」
早口で捲し立てる彼女の顔は、耳まで真っ赤になっていた。
中身が弁当だとすれば、あきらかに十人前はある過剰な量だ。だが、この不格好で過剰な荷物は、彼女の言葉にならない感情そのものだった。
彼女は俺に「神界の完璧なシステムに惹かれて、私を見捨てないで」とは言えないのだ。未完成な世界の管理者である自分には、俺を引き留める権利がないとでも思っているのだろう。
だからこそ、神の権能や命令ではなく、ただ俺が飢えないようにという不器用な世話焼きの行動で、必死に俺をこの世界に繋ぎ止めようとしていた。
「……重いな」
俺は風呂敷包みを抱え直し、先日、彼女が火打ち石で焦がしてしまった外套の袖口に目をやった。
「でも、もらうよ。腹が減ってはバグは直せないからな。行ってくる」
俺は無言の引き留めに対し、それ以上多くを語らず、光の渦巻く転送門の中へと足を踏み入れた。
転送門を抜けた先は、雲が浮かぶような牧歌的な天国ではなかった。
巨大な水晶の柱が幾重にもそびえ立ち、無数の光の管が血管のように張り巡らされた、冷たく無機質な管理施設。情報の明滅する受信卓が整然と並び、神界の役人たちが足音一つ立てずに歩き回っている。
「こちらです。監査の間へご案内します」
前を歩くノクトが、幾何学的な模様の刻まれた回廊を進みながら、振り返らずに口を開いた。
「監査に臨む前に、神界の意思決定構造について最低限の規則を共有しておきます」
「頼む」
「神界の最高意思決定機関は、十一席からなる『監査神会』です。ルミナリエルの維持承認や、大規模な制度改定を通すには、この十一柱の神々のうち過半数である『六票』が必要になります。なお、私のような補佐官に投票権はありません」
ノクトはそこで一度言葉を区切った。
「ですが、今回のように登録済みの試験日程を『前倒し』する権限だけは、審査長であるヴァルドレンの単独の裁量で可能です。彼は効率を極限まで重んじる方です。不用意な発言は控えてください」
巨大な両開きの扉が自動で開き、円形にすり鉢状になった『監査の間』へと出た。
すり鉢の底にあたる中央の壇に俺が立たされる。見上げると、最上段の席から、冷徹な光を宿した瞳が俺を見下ろしていた。
神界審査長、ヴァルドレン。
残虐嗜好などではない、ただ冷たい数式のように世界を弾き出そうとする、全体最適の化身。
『ルミナリエルの観測個体よ。中間監査の前倒しに応じたことを評価しよう』
ヴァルドレンの言葉が、脳内に直接響き渡る。
『現在のルミナリエルは、支援行動などという遅々とした手段でわずかに資源出力を回復させた。だが、それは真の効率とは呼べない。これより中間監査の実地課題を通達する』
ヴァルドレンの指先から、一つの光の球が放たれ、俺の目の前の空間に映像を映し出した。
そこに映っていたのは、初期街で何度か見かけたことのある、腕の立つ若き剣士の姿だった。
『実地課題。これよりルミナリエルの指定個体に神界からの【英雄祝福】を付与し、その実地運用を観察する』
英雄祝福。
一人の人間に莫大な魔力と権能を集中させ、魔獣を単独で狩り尽くす存在を作り出すシステム。つまり、万能の力で手っ取り早く安全と資源を確保しようという、俺たちが今まで否定してきたやり方の極致だ。
『祝福は中間監査当日に付与される。その経過が我が神界の基準を満たせば、監査は継続とする。下がれ』
一方的な宣告と共に、監査の間での謁見は終了した。
重い足取りで回廊へ出た俺の前に、再び純白の光が降り立つ。
「……効率と英雄の出力。それがヴァルドレン審査長の信奉する指標です」
セレーネが、静かな足取りで俺の横に並んだ。
「過酷な監査が本格化する前に……ユウ。一度、私の『完成された世界』を見ておきませんか? 欠陥だらけのルミナリエルとは違う、完璧な安全と秩序がどういうものか、あなたになら理解できるはずです」
それは、疲弊した俺にとってあまりにも正当で、甘美な提案だった。




