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第16話 女神は、無駄の使い道を知っている

第16日の朝。昨夜も村人総出で即席の混合灰を撒き続け、どうにか魔獣の接近を凌ぎきっていた。


 崖上村の集会所は、これまでにない熱気に包まれていた。


 だが、その熱気を作っているのは俺ではない。部屋の中央で、村の老人たちや、街へ出稼ぎに行かずに残っていた数少ない若者たちに囲まれ、熱心に言葉を交わしているのはエリシアだった。


 俺は少し離れた柱の影に寄りかかり、昨日自分が放棄した代替路の図面を見下ろしながら、彼女のやり取りを黙って見つめていた。


「では、あの灯籠祭の『歌』には、三番までしかないということですか?」


 エリシアが羊皮紙に素早くメモを取りながら、長老の一人に問いかける。


「ええ。一番は風を讃え、二番は土に感謝し、三番で火を灯す。昔からそう決まっております」


「なるほど。……そして、若者たちが崖下から灰を運び上げる『競争』は、必ずその歌の二番の終わりまでに広場へ戻らなければならないルールなのですね?」


「その通りです。間に合わなければ、一人前の男とは認められませんからな」


 長老が誇らしげに頷くと、エリシアの瞳に理知的な光が灯った。


 彼女は景観や文化、象徴設計を得意とする、創造女神だ。


 俺には「ただの娯楽」や「危険な力試し」にしか見えなかった祭りの風習を、彼女は『機能』として解き明かそうとしていた。


「見えました。あの祭りは、単なる儀式ではありません。この村が過酷な環境で生き残るための、極めて高度な『安全網』です」


 エリシアは集会所の壁に掛けられた黒板に、採取路の略図を描き出した。


「まず、歌の節回しです。三番まで続くあの歌のリズムは、採取路の危険な足場を昇り降りする際の、正確な『歩幅とタイミング』と完全に一致しています。歌を口ずさむことで、村人たちは無意識のうちに最も安全なルートを歩くように訓練されていたのです」


 村人たちが「おお」と感嘆の声を漏らす。俺も思わず息を呑んだ。


「さらに、若者たちの競争。一見すると危険に見えますが、時間制限を設けることで、彼らは『崖のどの岩が脆く、どこが崩れやすいか』を瞬時に見分ける反射神経を養っていました。そして、競争の最中に彼らが巻き上げる砂埃が風の軌道を可視化し、昨夜のような魔獣の侵入を防ぐ結界の『灰』を撒くための、最適な風向きを測る役目も果たしていたのです」


 エリシアは黒板を振り返り、村人たちを真っ直ぐに見渡した。


「あなたたちは無知ではありません。この過酷な崖の上で生きるための知恵を、長い時間をかけて『文化』という形に織り込んでいたのです」


 数値には出ない価値。


 俺の目は、物理的な亀裂や因果のバグを正確に捉えることができる。だが、「人間がそれをどう使って生きてきたか」という文化の文脈までは読み取れない。


 俺が昨日、図面の上で「非効率だ」「安全のために切り捨てるべきだ」と削り落とそうとしていたものこそが、この村を村たらしめる『命脈』そのものだったのだ。


「ですが、岩肌の劣化が進んでいるのは事実です。このまま昔のやり方を続ければ、いつか取り返しのつかない事故が起きます」


 エリシアは俺の机から、昨日俺が描いた『代替路』の図面を手に取った。


「ユウの図面は、物理的な安全性においては完璧です。私はこの図面の安全性を基盤に、あなたたちの『文化』を組み込んで再設計します」


 彼女は俺の図面の上に、新たな線を書き加えていく。


 神の力で崖を削り直すような、魔法のような解決策ではない。知恵と工夫の再構築だ。


「完全に道を塞ぐのではなく、崩落の危険が高い区間には防護柵を設け、地盤の安定度に合わせて『段階開放』とします。そして、若者たちの競争は単なる速度を競うものではなく、二人一組で互いの安全と足場を確認し合う『交代訓練』のルールへ更新します。さらに、灰の備蓄ルールを厳格化し、常に防壁となる結界を絶やさない仕組みを作ります」


 エリシアの提案は、安全と文化を見事に融合させたものだった。


 村人たちの顔に、昨日までの絶望とは違う、明日へ向かう活力が戻ってくるのが分かった。


「……素晴らしい。それならば、私たちでも安全に灰を取りに行けますし、祭りの伝統も守れます!」


 村長が震える声で賛同すると、若者たちも次々と立ち上がった。


「俺たちでやろう。丸太なら裏山にまだある。今日中に新しい柵を組んでみせるさ!」


 彼らはノコギリや槌を手に取り、生き生きとした顔で集会所を飛び出していった。


 俺はただ、その光景を呆然と見送ることしかできなかった。村の空気が、完全に蘇っていた。


 その日の夕方。


 再設計されたルールのもとで採取路は部分的に開放され、若者たちが無事に新しい灰を持ち帰ることに成功した。


 広場では、中止になりかけていた『灯籠祭』の準備が、小規模ながらも再開されていた。


 俺は広場の隅の切り株に座り、村人たちが笑顔で立ち働く姿を眺めていた。あの鬱屈としていた空気が嘘のようだ。


「……何ですか、その感心したような顔は」


 不意に、俺の隣にエリシアがやってきた。


 彼女の手には、火を灯す前の小さな灯籠と、二つの火打ち石が握られている。神の権能で火をつけるのではなく、村人たちと同じように人間の手で作業を手伝おうとしているらしい。


「いや……見事だったと思ってな。俺には、物理的な安全しか見えてなかった。あんたがいなかったら、俺はこの村を完全に壊してた」


 俺が素直に負けを認めると、彼女は視線を足元に落とし、耳まで赤くした。


「と、当然です。私は創造女神ですからね。文化や祭りの設計において、私の右に出る者はいません」


 高慢な口ぶりだが、その手元はおぼつかない。


 カチ、カチと火打ち石を打ち合わせるが、火花が上手く灯籠の芯に落ちないのだ。


「貸してみろ。手首のスナップが足りないんだよ」


「結構です! 神界の炎を扱える私が、これしきの摩擦火を起こせないはずが――きゃっ!?」


 エリシアがムキになって火打ち石を強く打ち付けた瞬間、大きな火花が散り、灯籠の芯ではなく、彼女が羽織っている過剰に美しい外套の袖口に燃え移った。


「あ、熱っ!? も、燃えて、火がっ!」


 彼女は慌てふためき、焦げた袖を両手でバシバシと叩き消そうとして、さらに煤を顔に擦り付けてしまった。


 神の威厳など微塵もない、あまりにも不格好で間抜けな姿。


「……っ、くくっ」


 俺は口元を手で覆ったが、堪えきれずに肩が震えた。


「あはははっ! なんだその顔、ひどい有様だな。創造女神が聞いて呆れるぞ!」


 腹の底から、自然と笑いが込み上げてきた。


 俺が声を出して笑ったのは、九年前にノアが死んで以来、初めてのことだったかもしれない。


「わ、笑わないでください! これはその、術式の不具合で……!」


 エリシアは顔を真っ赤にして怒ったが、その声には以前のような高圧的な響きはなかった。


 煤だらけの顔でむくれる彼女を見て、俺の心の中にあった「監視すべき対象」や「権能を持った上位者」という壁が、音を立てて崩れ落ちていくのを感じた。


 彼女は万能の神ではない。失敗もするし、不器用で、人の心に怯えるただの少女だ。だが、俺に見えないものを確実に見せてくれる、対等な相棒だった。


 笑い声が収まると、俺は彼女の袖の焦げ跡を指差した。


「……悪かった。でも、その焦げ跡は勲章みたいなもんだ。あんたが住民の暮らしに歩み寄った証拠だ」


「勲章……。そう言われると、なんだか照れくさいですね」


 エリシアは焦げた袖口をそっと撫で、微かに微笑んだ。


 村の広場には、新しい灰を使った灯籠の火が次々と灯り始め、幻想的な光の列が夜闇を照らし出している。


 俺たちの共同作業で、村は確かに救われた。


 だが、問題がすべて終わったわけではない。


「……なあ、エリシア」


 俺は灯籠の火を見つめながら、静かに口を開いた。


「俺たちは結果的に村を救ったが、一度は『命を守るため』と称して、彼らの未来を奪いかけた。多数決を盾にして、自分たちの正しさを押し付けたんだ」


 俺たちが犯した傲慢は、消えるわけではない。


「明日の住民会議で、彼らが俺たちにどんな判断を下すか。……覚悟はしておけよ」


 エリシアは黙って頷いた。住民たちの手に委ねられた俺たちの『修正停止権』の行方は、明日の彼らの決断にかかっている。

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