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第15話 安全な村から、若者が消える

第14日の朝。


 崖上村から若者たちが出稼ぎという名目で集団離村してから、たった一夜しか経っていないというのに、村の衰退はもはや誰の目にも明らかだった。


 広場に面した民家では、数人の老人が寄り集まって冬に備えた屋根の修繕を試みていたが、丸太一本を満足に持ち上げられず、虚しい掛け声だけが響いている。いつもなら若者たちが軽々と終わらせている仕事だ。かろうじて響く薪割りの音も、力強さに欠け、ひどくまばらだった。


 働き手がいなくなるということは、村の血流が止まるということだ。老人たちだけでは、この過酷な辺境の村を維持することはできない。


「……ユウ。彼らはもう限界です。このままでは、冬を待たずに村は放棄されます」


 集会所の隅で、神紋を隠す外套を脱ぎ捨てたエリシアが、窓の外の光景を見つめながら静かに言った。


 俺は彼女の言葉に答えず、机の上に広げた羊皮紙に炭筆を走らせ続けた。


「……分かってる。だから、急いでるんだ」


 羊皮紙には、昨日閉鎖した危険な採取路に代わる『新しい安全な代替路』の設計図面が描かれている。地盤の固い斜面を選び、手すりと階段を設置する。俺の頭の中にあるのは、ひたすら物理的な「安全性」の計算だけだった。


「安全な道さえ完成すれば、樹脂の採取が再開できる。交易が戻って金が回り始めれば、街に出た若者たちだって村に帰ってくるはずだ。だから、今は代替路を完成させることだけを考えればいい」


 俺は自分に言い聞かせるように早口で言った。


 胸の奥で、黒い罪悪感が渦巻いている。俺の推奨した「一時閉鎖」が、結果的に若者たちの心を折り、村の寿命を縮めてしまった。俺の正しさが、彼らの未来を狭めたのだ。


 だからこそ、俺は自分の力でこの損失を埋め合わせなければならない。赤い亀裂の出ない、絶対に安全な道を作ること。それだけが、俺の犯した失敗を取り戻す唯一の手段だと思い込んでいた。


 エリシアは、必死に炭筆を動かす俺の背中を、悲しげな瞳で見つめていた。


 彼女は何かを言いかけたが、やがて小さく首を横に振り、沈黙を守った。かつての彼女なら、女神の権能で強引に崖を削り、一瞬で道を作っていただろう。だが、俺たちの契約はそれを許さないし、彼女自身も、一方的な恩恵が住民を救わないことを学びつつあった。


 その日の夜。


 静まり返っていた崖上村の空気を切り裂くように、境界の監視塔から甲高い警鐘が鳴り響いた。


「魔獣だ! 崖下から、這い上がり魔獣の群れが登ってくるぞ!」


 見張りに立っていた老人の悲痛な叫び声に、俺は手元の図面を弾き飛ばすようにして立ち上がった。


 おかしい。崖上村は常に強い風が吹き抜けており、魔獣の嗅覚を誤魔化すため、これまでの歴史の中で一度も襲撃を受けたことがないはずだ。


 集会所を飛び出すと、村の縁を取り囲む防壁の向こうに、長い四肢を持った異形の魔獣が次々と姿を現していた。数はおよそ二十体。若者が消え、老人ばかりになった今の村の戦力では、到底防ぎきれる数ではない。


「ちぃっ! だから辺境は嫌なんだよ。のんびり商談しに来たはずが、とんだ貧乏くじだぜ!」


 先頭に立つ魔獣を、巨大な大剣が一撃で両断した。


 重装鎧を着込んだその男は、初期街の初心者迷宮を束ねる隊長、ガルドだった。


「ガルドさん!? あんた、どうしてここに」


「武器の手入れに使う特産品の樹脂がパッタリ止まっちまったからな。文句の一つも言いに商人の護衛を兼ねて乗り込んできたら、このザマだ!」


 ガルドは毒づきながらも、見事な剣捌きで次々と魔獣を押し返していく。残っていた数少ない壮年の村人たちも、鍬や松明を手にして必死に防衛線を張っている。


 だが、魔獣は後から後から崖を這い登ってくる。このままでは、疲労がピークに達した瞬間に防衛線が崩壊するのは火を見るより明らかだった。


 俺は剣を抜かず、崖の縁の安全な場所へ走り込んだ。


 戦うのが俺の仕事ではない。なぜ突然、魔獣がこの村に侵入してくるようになったのか、その因果を暴き、条件を壊すことだ。


 眼球に意識を集中させる。


『表層読み』。本日一回目。過去の痛みを伴わない、表面の因果候補だけの視覚化。


 視界が暗転し、村を取り囲む空間に、赤い髪筋ほどの亀裂が無数に浮かび上がった。亀裂は魔獣そのものではなく、村の周囲を流れる『風の層』に集中していた。


 風の層の中身が、欠落している。


 俺は理解した。崖上村の風そのものが魔獣を遠ざけていたわけではない。村人が毎年『灯籠祭』の際に撒いていた『特殊な灰』の残滓が、風に乗って村全体を覆うことで、人間の匂いを消し、魔獣の忌避する結界の役割を果たしていたのだ。


 祭りが中止になり、灰が撒かれなくなった。備蓄も底を突き、風に乗るはずの忌避成分が完全に枯渇した。だから、魔獣たちは人間の匂いを嗅ぎつけ、崖を登ってきたのだ。


「灰だ……。匂いの結界が消えたんだ」


 原因が分かれば、戦う必要はない。


「エリシア! 窯場にある普通の『窯灰』を全部広場に持ってきてくれ! 村長は、村に残ってる『樹脂の粉』をあるだけかき集めるんだ!」


 俺の指示に、二人は戸惑うことなく走り出した。


 数分後、広場には大量の黒い窯灰と、交易に出せなかった細かな樹脂の粉が集められた。俺はそれらを大きな布の上で乱暴に混ぜ合わせ、即席の代替灰を作り上げた。灯籠祭で使う特殊な灰には及ばないが、強烈な匂いと微弱な魔力を放つ煙幕にはなる。


「ガルドさん! 魔獣を崖の西側に誘導してくれ!」


 俺は即席の混合灰が詰まった袋を抱え、崖の縁へと走った。


 本日二度目の『表層読み』。


 視界の圧迫感と頭痛を堪えながら、夜の崖沿いを吹き抜ける複雑な風の軌道を正確に視覚化する。風は常に一定ではない。崖にぶつかり、うねり、渦を巻いている。


 俺は、ガルドたちが魔獣を押し込んだポイントの真横に立ち、風の軌道が『崖下へ向けて吹き下ろす』一瞬のタイミングを待った。


 三秒。二秒。一秒。


「今だ!」


 俺は袋の口を全開にし、混合灰を風に向かって一気に撒き散らした。


 漆黒の灰と樹脂の粉末が、俺が読み取った通りに風の渦に乗り、崖を這い登ろうとする魔獣たちの顔面を直撃した。


 樹脂の強烈な匂いと灰の刺激が、魔獣たちの敏感な嗅覚と方向感覚を完全に狂わせる。


「ギャアァァッ!」


 魔獣たちは混乱し、互いにぶつかり合いながら崖下へと転げ落ちていった。残った数体も、人間の匂いを見失い、気味の悪い鳴き声を上げながら退去していく。


 剣で群れを倒すのではなく、彼らが侵入するための『条件』を破壊したのだ。一人の犠牲者も出すことなく、一晩の危機は去った。


 翌日、第15日の朝。


 村人たちは昨夜の働きを口々に感謝してくれた。だが、村を覆う絶望感は昨日よりもずっと深かった。


 俺が撒いた即席の灰は、すでに風で散ってしまっている。今夜また魔獣が来れば、今度は防ぎきれない。


 俺は集会所の机に座り、充血した目で代替路の図面に向かっていた。


「……あと少しだ。今日中に安全な道の設計を終わらせる。そうすれば本物の灰が採りに行けて、村の安全は恒久的に守られる」


 手首が痛むが、炭筆を止めるわけにはいかなかった。俺の「正しさ」で、なんとかこの村の損失を埋め合わせなければならない。


 しかし、集会所の扉が開き、村長をはじめとする村人たちが重い足取りで入ってきた。


「監査官殿。昨夜は本当に、村を救っていただき感謝します」


 村長は深く頭を下げた後、俺の手元にある図面を真っ直ぐに見つめ、信じられない言葉を口にした。


「ですが……もう、代替路の設計は止めてください」


「……は?」


 俺は炭筆を止め、間抜けな声を出した。


「何を言ってるんだ。道を作らないと、灰も採れないし、交易もできない。今夜また魔獣が来たら、村は全滅するんだぞ!」


「分かっています。それでも、どうか新しい道を作る権限を、停止していただきたいのです」


 村長の目から、堪えきれない涙がこぼれ落ちた。


「安全な道ができれば……今村に残っているわずかな若者たちも、老人や荷物を安全に連れて、この村を捨ててしまうでしょう。危険な採取路があったからこそ、若者は鍛えられ、村に残り、私たちはここで生きてこられたのです」


 彼は血の滲むような声で訴えた。


「私たちは、怪我人が出ない安全なだけの場所で、ゆっくりと干からびて死ぬことを望んではいない。……もう、あなたの『安全な道』はいらないのです」


 俺は何も言い返せなかった。


 事故を防ぎ、命を救う。俺がずっと信じてきた「正しさ」が、住民たちの口から明確に拒絶されたのだ。


「……ユウ。あなたの負けです」


 背後から、エリシアの静かな声が響いた。


 彼女はゆっくりと前に歩み出ると、俺の机の上に広げられた図面にそっと手を置いた。


「あなたの目に見える赤い亀裂は、安全と危険のズレを示してくれます。ですが、それは『人がどう生きたいと願っているか』という、正解の形までは教えてくれないのです」


 エリシアは、村人たちに向き直った。


「測れる正しさだけでは、人が生きたい世界は作れない。……ユウが塞いでしまった損失は、私が埋め合わせます。無駄の使い道なら、私の専門ですから」


 女神は、俺の行き詰まった計算を静かに脇へ除け、次の解決役として堂々と舞台の中央に立った。

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