第14話 事故ゼロのため、祭りを止めた
第13日の昼下がり。
崖上村の唯一の危険箇所であった採取路が、強固な丸太の柵によって物理的に封鎖されてから、まだ半日ほどしか経っていない。
俺の目には、昨日までそこかしこで明滅していた赤い亀裂の残像は一切見えない。危険な場所に人が近づけないのだから、滑落事故は物理的に起こり得ない。俺の仕事の目的である『安全の確保』は、これ以上ないほど完璧に達成されていた。
だが、村を包む空気は、平穏とは程遠いものだった。
奇妙なほど静かで、ひどく澱んでいる。
崖下で採れる希少な樹脂の供給が止まり、商人の馬車が村を素通りしていったことで、交易の収入はすでに途絶えていた。
それだけではない。広場の隅では、十代後半から二十代前半の若者たちが、所在なげに地面に座り込んでいた。
行き場のない体力を持て余し、彼らの間には鬱屈とした重い空気が蔓延していた。
俺とエリシアが村の集会所を覗くと、そこでは数人の老人たちが頭を抱え、重苦しい溜め息をついていた。
「……やはり、駄目ですか」
「ああ。村の倉庫を全部ひっくり返したが、去年採った灰の残りは小袋三つ分しかない。これじゃあ、灯籠の芯を十個も作れんよ」
来月に迫った、村の伝統行事『灯籠祭』。
その祭りで使われる灯籠の芯には、特定の魔力を帯びた特殊な灰を混ぜ込む必要がある。そしてその灰は、閉鎖された採取路の奥深く、特定の岩肌からしか採取できないものだった。
備蓄が完全に底を突き、祭りの準備そのものが暗礁に乗り上げてしまったのだ。
「……仕方がない」
深く皺の刻まれた顔を上げ、村長が苦渋の決断を口にした。
「灰がなければ、灯りを作れん。灯りのない灯籠祭など開催できるはずがない。……今年の祭りは、中止とする」
「村長! しかし、それでは……」
「分かっておる。だが、若者の命を危険に晒してまで灰を取りに行かせるわけにはいかんのだ。監査官殿の言う通り、命より重いものはない」
村長は俺の方をちらりと見て、力なく頷いた。
その日の午後、広場に集められた村人たちに向けて、灯籠祭の中止が正式に通達された。
集まった人々の間から、深い落胆のどよめきが漏れる。
灯籠祭は、単なる形ばかりの儀式ではない。老いも若きも総出で準備にかかる、村最大の『共同作業』の場だ。そして何より、祭りを目当てに外部から訪れる客に村の特産品を売り、長く厳しい冬を越すための資金を稼ぐ『最大の収入源』でもあった。
祭りが中止になるということは、村の経済活動と、住民たちの心を一つにする結束の場が、同時に失われることを意味していた。
肩を落として家路につく村人たちの背中を見つめながら、俺は胸の奥からせり上がってくる罪悪感を必死に抑え込んでいた。
間違ったことは言っていない。あの道は危険だった。赤い亀裂がそれを証明していた。
「……これは、代替路ができるまでの数日の辛抱だ」
俺は隣に立つエリシアに言い聞かせるように、いや、自分自身を正当化するように呟いた。
「安全なルートさえ確保できれば、交易も再開できるし、来年からは祭りだってやれる。命には代えられない、一時的な損失だ。俺の推奨した安全対策は、間違ってない」
「……」
エリシアは何も言わなかった。
神紋を隠す外套を脱ぎ捨て、美しい素顔を晒している彼女は、村人たちの悲しげな顔を静かに見つめている。一方向の宣告しかできなかった彼女は、住民たちが自らの安全のために選び取った結果を、口を挟まずに見守ろうとしていた。
だが、現実の崩壊は、俺が考えていた『数日の辛抱』などという甘い見通しを許してはくれなかった。
その日の夕方。
村の広場に、粗末な革袋や荷物を背負った若者たちが集まってきた。その数は十数人。村の貴重な働き手の、ほぼ全員だった。
「お前たち、その荷物は一体どうしたんだ……?」
血相を変えて駆けつけた村長に対し、若者たちの中で一番年上の青年が一歩前に出た。
「村長。俺たち、街へ出稼ぎに行こうと思うんだ」
「出稼ぎだと? 祭りがなくなったからといって、いきなり街へ行くなど――」
「祭りだけじゃない!」
青年は首を横に振り、沈痛な声で叫んだ。
「あの道が塞がれてから、俺たちには仕事がない。身体を鍛える場所もない。いつできるかも分からない代替路を待って、ただ安全なだけの村でじっとしていても、俺たちには先がないんだよ!」
彼の言葉に、後ろに立つ若者たちも次々と頷いた。
「冬を越す金も稼げないなら、俺たちが街に出て仕送りするしかないだろ」
「ごめんよ、母さん。でも、ここにいても俺たち、どうしていいか分からないんだ」
誰か一人の扇動者が焚きつけたわけではない。
危険な道を塞がれ、仕事も祭りも奪われた若者たちが、自分たちの未来を考えた末に下した、ごく自然で合理的な選択。事実上の移住だった。
「待ってくれ、お前たちがいなくなったら、この村は……」
老人がすがりつくように手を伸ばすが、若者たちは目を伏せ、荷物を背負い直して村の出口へと歩き出した。
働き手が一気に村を出ていく光景を前に、俺は足が床に縫い付けられたように動けなかった。
若者が消えれば、どうなる。
冬に向けた薪割りは誰がやる。雪で屋根が痛んだ時、誰が修繕する。力仕事の担い手を失った老人たちだけで、この辺境の村が一年先まで維持できるはずがない。
村の生活基盤が、音を立てて根底から崩れ去っていく。
事故はゼロになった。魔獣の脅威もない。
だがその代償として、村は『明日へ繋がる動き』を完全に失った。
成功判定が、見事に反転したのだ。
安全を確保したはずの俺の「正しさ」が、結果的に彼らの未来と選択肢を狭め、村から活力を根こそぎ奪ってしまった。
俺は、自分がどれほど致命的な失敗を犯したのかを理解し、愕然として立ち尽くした。安全になった村から、人が逃げ出していく。




