第13話 危険な道を、住民は閉じた
第12日。初期街から東へ半日ほど馬車に揺られ、俺とエリシアは次の目的地である『崖上村』に到着した。
その名の通り、切り立った巨大な崖の頂上に広がるこの村は、常に強い風が吹き抜けているおかげで魔獣の匂いが滞留せず、襲撃記録は皆無。死亡台帳にもこの村の名前は一度も載ったことがない。
だが、村に足を踏み入れた俺たちを出迎えたのは、異様なまでの静けさだった。
すれ違う村人は老人ばかりで、空き家が目立つ。安全なはずの村から、人が消え続けているというノクトの言葉は事実だった。
「ようこそおいで下さった、監査官殿」
俺たちを出迎えた村長は、人の良さそうな、しかし深く疲弊した顔の老人だった。彼は俺たちを村の端――崖の縁へと案内した。
「我が村が抱えている問題は、これです」
村長が指差した先には、断崖絶壁に沿って下へと伸びる、人一人がやっと通れるほどの細く険しい道があった。『採取路』と呼ばれるその道は、強い風に晒され、足元の岩肌はところどころ崩れかけている。
「この道は、崖下へ降りるための唯一のルートです。崖下で採れる希少な樹脂は、街の商人との重要な『交易品』になります。また、あそこで集める特殊な灰は、来月行われる我が村の伝統『灯籠祭』に欠かせないものです。そして何より……この険しい道の上り下り自体が、若者たちの足腰を鍛え、村の防衛を担うための『訓練』の場でもありました」
村長は溜め息をつき、崖下を覗き込んだ。
「ですが近年、岩肌の劣化が進み、滑落する者が後を絶ちません。死者こそ出ていませんが、足の骨を折るなどの重傷者が月に何度も出ています。このままでは、村の若者が皆、歩けなくなってしまう」
彼の目には、若者たちを案じる切実な親心が浮かんでいた。
俺は一歩前へ出て、崖下の道に向けて眼球に意識を集中させた。
『表層読み』。本日一回目。
視界から色が消え、崖の岩肌や崩れかけた足場に、異常を示す赤い亀裂が無数に浮かび上がる。
亀裂が示す因果は極めて単純明快だった。風化によって足場が脆くなっており、そこに人が体重をかけることで崩落が起きている。赤い亀裂は「この道を通れば怪我をする」という物理的な事実を、残酷なまでに正確に示していた。
だが、俺の胸の奥に、チクリとした違和感がよぎった。
なんだ、この感覚は。
赤い亀裂は「道が壊れている」と正解らしきものを示している。なら、直すか、使わなければいいだけだ。しかし、赤い亀裂を眺めていると、それとは全く別の次元で「何か大事なものを見落としている」ような、言語化できない焦燥感があった。俺は首を振り、その不確かな迷いを無理やり胸の奥へ押し殺した。俺の仕事は現場の危険を排除することだ。勘に頼って被害を広げるわけにはいかない。
その日の夜。村の集会所で、村人全員を集めた会議が開かれた。
初期街のような搾取や悪意はここにはない。集まった村人たちは皆、家族の安全を真剣に考える理性的な人々だった。
「監査官殿も危険だと認めたんだ。もう、あんな道に息子たちを行かせるわけにはいかない」
「ああ。樹脂の交易が減るのは痛いが、命には代えられない。怪我をして一生歩けなくなるよりはずっとマシだ」
村人たちの意見は、採取路の『全面閉鎖』へと傾いていた。親が子を心配する、あまりにも正当で合理的な判断だ。誰も彼らを無知だとは責められない。
「……待ってくれ」
俺は集会の中心で声を上げた。
「確かにあの道は今、極めて危険な状態だ。だが、完全に塞いでしまえば村の収入も祭りも止まる。俺が推奨するのは、安全な『代替路』の設計と開通が終わるまでの『一時閉鎖』だ。時間をくれれば、俺とエリシアで安全なルートを作り直せる」
「代替路ができるまで、どれくらいかかるんだね?」
「最低でも数日はかかる。岩盤の耐久性を調べ直す必要があるからな」
「ならば、その数日の間にも若者たちが無理をして崖を降りないよう、今すぐ物理的に道を塞ぐべきだ。多数決を採ろう」
村長の発案に、集会所にいた村人たちが次々と賛成の挙手をした。満場一致だった。
多数決という、最も民主的で誰もが納得する形での決定。
集会所の隅で様子を見ていたエリシアも、住民たちが自らの命を守るために下した判断を前に、何も口を挟まなかった。彼女は、住民の意思を尊重することを学ぼうとしているのだ。
俺もそれ以上は反論しなかった。彼らの判断は、安全管理という点において百パーセント正しい。俺の胸の内に残るあの不気味な違和感など、多数決の重い結論の前では口に出す価値もないように思えた。
翌日、第13日の朝。
村人たちは総出で丸太を切り出し、採取路の入り口に巨大で頑丈な柵を築き上げた。
「よし、これでもう誰もあの危険な道には入れないぞ」
額の汗を拭いながら、村の男たちが安堵の笑みを浮かべる。母親たちは、もう息子が血まみれになって運び込まれてくる心配をしなくていいのだと、胸を撫で下ろしていた。
俺は完成した柵の前に立ち、もう一度崖下を見た。
昨日まであんなに激しく明滅していた赤い亀裂の残像が、嘘のように綺麗に消え去っている。人が危険な場所に近づかない構造になったのだから、事故は物理的に起こり得ない。バグは潰せた。「安全にする」という目的は、見事に達成されたのだ。
だが、その日の午後。
村の空気は、安堵から別の何かへと急速に変質していった。
いつもなら村の広場にやってくるはずの隣街の商人が、荷馬車を停めることなく村を素通りしていった。「採取路が塞がれて樹脂の納品がないなら、ここに寄る意味はない」という冷酷な通告だった。
集会所では、来月の『灯籠祭』の準備をしていた老人たちが、手を止めて呆然と座り込んでいた。祭りに使う特殊な灰が採れない以上、これ以上作業を進めても意味がないのだ。
そして何より俺をゾッとさせたのは、村の若者たちの姿だった。
彼らは怪我こそしなくなったものの、過酷な採取路での『訓練』という日課を奪われ、完全に手持ち無沙汰になっていた。行き場と役割を失った彼らは、ただ虚ろな目で広場に座り込み、足元に転がる石を蹴飛ばしている。
事故はゼロになった。
だが同時に、交易の収入も、祭りの活気も、若者たちの目的も、すべてがパタリと止まってしまった。
俺は背筋に冷たい汗が伝うのを感じた。
昨日感じたあの違和感の正体。赤い亀裂は「危険」を教えてくれたが、あの道が持っていた「村を回すための見えない価値」までは教えてくれなかったのだ。
俺たちは、合理的で正しすぎる民主的な判断によって、村の未来へと続く脈動を完全に止めてしまった。怪我人が出なくなった安全な村で、静かで致命的な『崩壊』が始まっていた。




