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第12話 最下位脱出と、笑えない次の街

第11日の午前。初期街の治癒院の重い木扉を開けると、爽やかな薬草の香りが鼻をくすぐった。


 ほんの数日前まで、ここは血と汗、そして絶望の匂いが充満する場所だった。だが今の待合室には、十分な手当てを受けて包帯を巻かれた冒険者たちが、穏やかな顔で休息を取っている。


 奥の処置室から、清潔な真新しい白衣に身を包んだミレナが小走りで現れた。


「あ、監査官さん! それに……」


 彼女の視線が、俺の背後に隠れるように立っている、みすぼらしい外套姿のエリシアへと向く。


「二人とも、本当にお疲れ様です。おかげでこの通り、治癒院はすっかり元通りです」


 ミレナは嬉しそうに、背後の薬品棚を指差した。


 棚には、先日まで空っぽだった瓶が所狭しと並んでいる。魔力逆流を抑える『封魔のガーゼ』の束や、傷を塞ぐ上級ポーションが十分な数だけ備蓄されていた。


「功績札のおかげで、迷宮から戻った冒険者さんたちの記録が、すぐにギルドの窓口で現金化されるようになったんです。マルドさんがいなくなって、薬材商会も適正な価格で直接取引してくれるようになりましたし」


 彼女の言葉には、確かな実感がこもっていた。


 俺が作った功績札は、ミレナたち支援職の行動を透明化した。命を救うために高価な薬を使えば、その分がギルドから正当に支払われる。治癒院の経営は一気に黒字化し、彼女は徹夜で無茶をする必要もなくなったのだ。


 マルドというシステム上のバグが取り除かれたことで、善人が報われる当たり前の生活が、この街に確実に根を下ろし始めていた。


「……よかったですね」


 俺の背後で、エリシアがぽつりと呟いた。


 その声を聞いたミレナが、少しだけ姿勢を正し、彼女の前に進み出た。


「あの時は……患者さんの魔力逆流を止めていただいて、本当にありがとうございました。あなたがいなければ、あの剣士さんは助かっていませんでした」


 面と向かって向けられた、真っ直ぐな感謝の言葉。


 エリシアの肩が、びくりと大きく跳ねた。彼女は無意識のうちに後ずさりし、俺の外套の裾をきつく握りしめる。


 これまでの彼女なら、ここで神威を放って一方的な宣告をするか、何も言わずに逃げ出していただろう。失望されるリスクを伴う『双方向の対話』は、彼女が何よりも恐れるものだからだ。


 だが、エリシアは逃げなかった。


 彼女は震える指先で、深く被っていたみすぼらしい旅用外套の留め具に触れた。


 バサリ、と音を立てて粗末な布が床に落ちる。


 露わになったのは、銀糸のような長い髪と、神界の威光を示す過剰に美しい外套。そして、その肌に刻まれた創造女神の神紋だった。


 突如として現れた本物の女神の姿に、待合室にいた患者たちが息を呑み、畏れから慌てて距離を取る。全員が彼女に親しみを持ったわけではない。突然の非日常に対する当然の戸惑いと警戒だ。


 それでも、ミレナだけは逃げずにエリシアの目を見つめていた。


「じゅ、住民よ……」


 エリシアが、微かに震える声で口を開いた。


「そ、その感謝は……せ、世界の維持に貢献した、そなた自身の……その……っ」


 用意していたであろう高貴な返礼の言葉が、盛大に宙を舞った。


 エリシアは顔を真っ赤にして口を噤み、恥ずかしさのあまり両手で顔を覆いそうになる。だが、彼女は必死にそれを堪え、ミレナを真っ直ぐに見つめ直した。


「……次は」


 不器用で、たどたどしい、ただの言葉。


「次は……私が宣告するより先に、あなたの声を聞きます。約束します」


 それは神の威厳など欠片もない、痛々しいほど人間臭い返答だった。


 ミレナはきょとんとした後、ふっと表情を和らげ、「はい、よろしくお願いします」と深く頭を下げた。


 一方的に伝えることしかできなかった女神が、初めて住民からの感謝を受け取り、言葉を返した。俺は、顔を赤くして俯く彼女が、恐怖を抱えながらも決して現実から目を背けない、強い芯を持った相棒なのだと知った。


「感動的な交流の邪魔をして申し訳ありませんが、通達があります」


 治癒院を出た俺たちの前に、いつの間にか監査補佐官のノクトが立っていた。相変わらず、分厚い書物から目を離さずに事務的な声を発する。


「昨夕の集計をもって、我がルミナリエルの世界評価が最下位を一つ脱出したことが、正式に確定しました。初期街の機能回復が、維持資源の増幅に大きく貢献したと神界が認定したのです」


「最下位脱出か。なら、これで少しは寿命が延びたのか?」


「いいえ。落第の基準線を下回っていることに変わりはありません。期限は依然として迫っています」


 ノクトは眼鏡の位置を直し、俺とエリシアを交互に見た。


「それに、手放しで喜べる状況でもありません。神界のヴァルドレン審査長が、今回の結果に強い関心を示しています。彼は『英雄の討伐数』ではなく、『支援行動の増加』によって資源出力が上がったという事実に、警戒を抱いているようです」


 英雄生成配置。迷宮で見たあの狂った魔力流の設計。


 強者を作り出して世界を回すというヴァルドレンの効率至上主義にとって、俺たちが作った功績札のシステムは、前提を揺るがす異物に映っているはずだ。神界からの風当たりは、間違いなく強くなる。


「それで、次の調査対象はどこだ。さっさとバグを潰しに行くぞ」


 俺が先を促すと、ノクトは書物のページを一枚めくった。


「次の対象は、ここから東にある『崖上村』です」


「崖上村? あそこは辺境でも珍しいくらい魔獣が出ない、平和な村だろ。治癒院が潰れかけたこの街よりも優先度が高いのか?」


「ええ。確かに崖上村の事故死者数はゼロ、魔獣の襲撃も記録されていません。極めて安全な地域です」


 ノクトは淡々と、矛盾に満ちた事実を口にした。


「ですが、ここ数ヶ月、その村から『若者を中心とした深刻な人口流出』が止まらないのです。このままでは一年以内に村そのものが消滅し、世界評価の重大な減点対象になります」


 事故はない。魔獣も出ない。安全なはずなのに、人が消え続けている。


 それは、魔獣が人を殺すよりもずっと奇妙で、気味の悪いバグだった。


「関連資料として、村の特産品である『灯籠祭の灰』、祭りで歌われる『特定の歌』、そして交易に使われる『採取路』に関する記述が挙げられています。これらがどう関係しているかは不明ですが」


 ノクトが読み上げた情報を、俺は頭の中に刻み込んだ。


 安全なのに、人がいなくなる逆説。


 分かりやすい悪党がいた初期街とは違う、捉えどころのない歪みが俺たちを待っている。


「行くぞ、エリシア」


「ええ。私たちの世界を、直しましょう」


 神紋隠しの外套を捨てた彼女の足取りは、昨日よりもわずかに力強かった。俺たちは笑えない謎を抱えた次の街へと、歩みを進めた。

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