08坂本龍馬
一八五三年(嘉永六年)六月三日、それまで泰平の眠りを貪っていた江戸日本に、文字通り「天地がひっくり返るような衝撃」が走った。マシュー・ペリー提督率いるアメリカ東インド艦隊、通称「黒船」の来航である。
六月三日の午後五時頃、神奈川県の浦賀沖に、突如として四隻の奇妙な船が現れた。
黒船出現の報が江戸の街に伝わると、人々は「アメリカ兵が攻めてきて、江戸が火の海になる!」と大パニックを起こした。家財道具を大八車に積み込んで、おののきながら郊外へ逃げ出す人々で江戸の町は大混乱に陥る。
その時、吉田寅次郎は黒船出現の報を聞くやいなや、文字通り「居ても立ってもいられず」、翌日には浦賀へと向かって一目散に走り出した。
浦賀に到着し、生で巨大な蒸気船を目撃した彼は、その圧倒的な軍事力に言葉を失うほどの衝撃を受ける。「このままでは日本が乗っ取られる」と凄まじい危機感を抱いた寅次郎は、すぐさま江戸の師・佐久間象山のもとへ引き返し、状況を報告した。
松陰からの報せを受け、松代藩のトップとして、また海防の専門家として、象山もすぐさま自ら浦賀へと急行した。
浦賀の海岸に立った象山は、望遠鏡で黒船を凝視した。
当時の日本の最大の船の十倍以上、全長約七十六メートルにおよぶその船体は、腐食防止のタールで真っ黒に塗られていた。海に浮かぶ漆黒の巨大な城、あるいは怪物のようであった。船体の横には、見たこともないほど巨大な大砲がズラリと並んでいる。
「いわんこっちゃない」
人々がおののきながら黒船を遠巻きに眺める中、鎧兜を身に着けた武士が右往左往し、時代遅れの大砲を引っ張り出したりしている大混乱を横目に、象山は忸怩たる思いで毒づいた。
象山は、この日が来ることをすでに予想していたのだ。
ペリーが来るより遥か前、象山は『海防八策』という国家レベルの防衛計画書をまとめ、幕府へ提出していた。その内容は極めて未来的であった。
1.全国の海岸の要所に砲台を築き、大砲を備えること。
2.オランダとの交易を維持し、利益を得ること。
3.西洋に習い、大船や軍艦を建造すること。
4.幕府が定めていた大船建造の制限を解くこと。
5.水軍(海軍)を組織すること。
6.海防を担う人材を育成するための学校を建てること。
7.航海や測量に必要な天文・気象観測を行う施設を設けること。
8.積極的に西洋の学問を取り入れ、国力をつけること。
もし、幕府がこの時点で象山の言う通りに動いていれば、黒船を浦賀で堂々と迎え撃つか、あるいは対等に交渉できたはずであった。
しかし、幕府の老人たちが、象山の計画を「机上の空論」だと無視していたのだ。
さらに不運なことに、黒船が来る前年、象山を最大の理解者としてバックアップしてくれていた松代藩の前藩主・真田幸貫が亡くなってしまう。強力な後ろ盾を失った象山は、松代藩内でも「大砲づくりに大金ばかり使いおって」と煙たがられるようになり、国家計画の実行リーダーから外されてしまっていたのである。
そのため、黒船が浦賀に現れたとき、象山が叫び続けた「最新の砲台」は江戸湾に一つも完成していなかった。象山自身も、ただの「一人の兵学者」として、望遠鏡を片手に浦賀の海岸から悔し涙をのんで黒船を見上げるしかなかった。彼が心血を注いだ理論も大砲も、実戦で火を噴く機会は与えられなかったのである。
しかし、その「成果」は別の形で爆発した。
前線での軍事的な成果はゼロであったが、象山の蒔いた種は、黒船来航の直後から「日本の未来を動かす巨大なエネルギー」となって一気に芽吹く。
勝麟太郎は、幕府の「誰かいい防衛のアイデアはないか」という意見公募に対し、象山の計画をブラッシュアップした『海防意見書』を提出。これが高く評価されたことで、一介の貧乏御家人から幕臣として取り立てられ、国防の中心地へと駆け上っていった。
また、黒船を前に何もできなかったという無力感は、弟子たちを狂わせるほどの行動へと駆り立てていく。
象山が頭脳の中に構築していた「海防八策」は、勝海舟や吉田松陰という次世代の怪物たちに完全にコピーされ、彼らの手によって近代日本への扉をこじ開けていくことになるのである。
◇
結局、「アメリカ大統領からの親書」を幕府に渡すと、黒船はさっさと去ってしまった。わずか九日間の滞在であった。
しかし、彼らは「来年の春、返事を聞きにまた来る」と言い残していったという。
それを知った寅次郎は、「生ぬるい国内留学などしている場合ではない。西洋の技術を学ぶには、自ら黒船に乗り込んで海外へ密航するしかない」という狂気的な決意を固める。
この覚悟を象山に打ち明けると、象山はこれを大賛成した。それどころか、裏で密航の具体的な計画や心構えを熱心に指導し、その背中を強く押し込んだのである。
そして八月。
「長崎にロシアの軍艦が来ている」との情報を得た寅次郎は、来春の本番を前にまずはこれに乗せてもらおうと、遥か長崎へ向かって熱風のごとく旅立っていった。
◇
十月――。
江戸湾からの風が、木挽町の新塾に秋の冷気を運んでくる。
庭に据えられた自作の大砲は、秋の鈍い光を浴びて黒々と沈黙していた。
静かだった。いや、静かすぎて、象山にはそれがどうにも気に入らなかった。
つい数ヶ月前まで、ここには日本の未来をひっくり返そうとする血気盛んな熱量が満ち満ちていたのだ。
あの不器用で、熱狂的で、命の使い道を誤りそうなほど純粋だった吉田寅次郎は、ロシア軍艦に潜り込むべく長崎の闇へと消えた。
塾のすべてを支え、自らの片目を犠牲にしてまで木挽町への大移動を成し遂げた小林虎三郎は、病む身体を引きずりながら国元へと帰っていった。
そして、己の妹を象山へと嫁がせ、今や幕府の喉元に『海防意見書』という爆弾を突きつけて時代の寵児となった勝麟太郎は、赤坂に構えた自らの城「勝塾」で、押し寄せる門下生たちの熱気に悩殺されている。
「どいつもこいつも、俺の背中を見て、俺の知識を毟り取るだけ毟り取って、さっさと己の路を走りおる」
書物の並ぶ静かな書斎で、象山はふん、と鼻を鳴らした。
喜ばしい。これ以上なく誇らしい。だが、彼らがそれぞれの戦場へ旅立った後の塾内を見回すたび、天下の佐久間象山の胸に、ほんの少しだけ、隙間風のような寂しさが吹き抜けるのを止められなかった。
そんな折である。
静寂を破り、象山塾の門を叩く不躾な音が響いた。
土佐藩士、坂本龍馬。
それが、新しく門人帳に記されることになる男の名だった。
◇
象山が書斎の襖を開けた瞬間、その視界の大半が「肉体の壁」で埋まった。
思わず、眉が跳ね上がる。
でかい。とにかく、縦にも横にも規格外だった。
常人の一回りも二回りも大きな骨格が、狭い書斎にどっしりと居座っている。座っているだけで床板が軋むような圧迫感があるというのに、その大男の顔には、緊張感というものが微塵もなかった。寝ぼけたような、しかし妙に愛嬌のある目が、入ってきた象山をのんびりと見つめている。
象山はあえて無表情のまま上座へ進み、傲然と顎を引いた。
周囲の空気をピりつかせる鋭い眼光。そして、江戸湾の地響きにも負けない、腹の底からの大声を叩きつける。
「土佐の田舎侍が、この象山に、何を学びたいというのだ」
初対面の者を例外なく恐怖させる、不遜極まる洗礼。
普通の人間なら、ここで青くなって平伏するか、さもなくば武士のプライドを傷つけられて刀の柄に手をかける。
かつて、この至近距離から象山の目を真っ向から見据え、傲岸不遜な議論をふっかけてきた「心地よい身の程知らず」もいた。寅次郎や虎三郎がそうだった。彼らはいつだって命がけで、針のように尖っていた。
だが、目の前の大男の反応は、そのどれとも違った。
「先生よお」
龍馬は、にかっと白い歯を見せて笑った。緊張の糸が、一瞬で弛緩するような笑みだった。
「わしゃ、難しいことはよう分からんき。大砲の打ち方だけ、ちくっと教えてもらえんろうか?」
象山は、喉の奥で言葉を詰まらせた。
見事なまでの肩透かし。ここまで気負いのない、風のような男は見たことがない。
調子を狂わされた象山は、むきになってさらに厳しい言葉を浴びせかけた。兵学の神髄とは何か、国家の防衛とは何か、黒船がもたらした世界の大変動をどう見るか。知識の鉄槌をこれでもかと振り下ろす。
だが、まるで暖簾に腕押しだった。
「なるほど、そりゃあ大変じゃ」
「ほうか、黒船はそがぁに強いがですか」
龍馬は、大きな身体を揺らしながら「うん、うん」と頷いている。
飄々として、掴みどころがない。かといって、象山を馬鹿にしているわけでは決してないのだ。その濁りのない瞳は、いたって真剣に、象山の言葉をそのまま吸い込んでいる。
そのうち、大声を張り上げて威張り散らしている象山のほうが、なんだか阿呆らしくなってきた。天下の英才を相手に張り合ってきた脳髄が、「この男に理屈は通じない」と白旗を上げている。
――俺が言うのもなんだが、これは、おもしろい男が紛れ込んできたものだ。
尖った針のような天才たちを見送ったあとに現れたのは、すべてを呑み込んで笑っているような、底知れない大穴だった。
象山はふっと表情を緩め、鼻で笑った。
「……まあ、よい。わが塾に通えばよい」
まだ、この男の器に何が入っているかは分からない。紹介状によれば江戸の千葉道場で剣術に励んでいる男らしいが、象山から見れば、西洋の知識も持たぬただの「剣術自慢」に過ぎなかった。
だが、冷え込み始めていた木挽町の塾に、妙な熱気が戻ってきたことだけは確かだった。
入門を許された龍馬は、ぱっと顔を輝かせた。
「ほんまかえ! ありがとございます!」
その巨躯を折り曲げ、畳に頭をこすりつけるようにして深く一礼する。
象山は、その縮まった広い背中を見下ろしながら、心の中で呟いていた。
──さて。
寅次郎が長崎へ走り、麟太郎が赤坂で吠える。そんな、若者たちが一斉に動き始めたこの激動の時代に、この土佐の大男は一体何をもたらすつもりだ?




