07吉田寅次郎3
吉田寅次郎は、佐久間象山のもとで西洋兵書を読み漁り、小林虎三郎と熱い議論を交わし、勝麟太郎がもたらす最新兵学『マラン兵書』の講義に心を震わせる傍ら、江戸の街で次なる時代を共に見据える熱い同志を探していた。
そんな中、運命に導かれるように出会ったのが、熊本藩の宮部鼎蔵であった。
二人はまたたく間に意気投合し、「日本の北の守り──東北や津軽海峡が今どうなっているか、自分たちの目で確かめに行こう」と決意する。
その際、熱血漢の宮部は、寅次郎にひとつの提案をした。
「どうせ旅立つなら、我らが憧れる赤穂浪士の討ち入りの日にちなみ、十二月十四日に江戸を出発するのはどうだろうか」
そうした大義や粋な演出が大好きな寅次郎は、大喜びで賛同した。二人は、この日に必ず出立することを固く約束したのである。
十一月に入り、寅次郎は長州藩の江戸留守居役へ、東北旅行の正式な許可証である「通行手形」を申請した。
しかし、官僚たちの手続きは遅く、出発予定日が迫っても手形は一向に届かない。友との約束という「信義」を破るわけにはいかない寅次郎は、日に日に焦りを募らせていった。
そして、約束の日の前日──十二月十三日。
ついに手形が届かないまま、運命の前夜を迎えてしまう。
「藩のルールを守って、友との約束を破るか」
「藩のルールを破って、友との約束を貫くか」
寅次郎が出した答えは、後者であった。
「武士が一度交わした約束を、お役所仕事のせいで破るなど、私のプライドが許さない」
彼は手形を持たないまま、江戸を飛び出す決意を固めた。当時の法律において、これは「脱藩」という、死罪にもなり得る重罪を意味していた。
塾頭の小林虎三郎は、
「ここで捕まったらお前の才能が台無しになるぞ」
と、隻眼を鋭く光らせて理詰めで引き止めた。しかし同時に、虎三郎は寅次郎の火の玉のような性格を誰よりも知っていた。その決意が絶対に揺らがないと悟ると、呆れ果てながらも、道中の無事を祈って静かに右手を差し出し、固い握手を交わした。
そして、肝心の師である佐久間象山は、「馬鹿なことはやめろ」と止めるどころか、寅次郎の信義を重んじる熱い魂に深く感動していた。
「よく言った、それでこそ俺の弟子だ!」
象山は自作の壮行詩と、旅費として五両もの大金を贈り、愛弟子の背中をどんと押した。
そんな師弟の様子を、勝麟太郎は、
「まったく、この師匠にしてこの弟子ありだ」
と毒づきながらも、自分が愛用している防寒具を寅次郎に向かって無言で投げつけた。海舟なりの不器用な優しさだった。
明くる十二月十四日。
寅次郎は、雪がちらつく、まだ薄暗い神田お玉ヶ池の塾を後にした。見送る仲間たちに一礼し、宮部鼎蔵らの待つ集合場所、神田湯島へと力強く旅立っていった。
◇
季節が冬から春へと移り変わったころ、東北三千キロの行程を終えた寅次郎は、無事に江戸へと戻ってきた。
しかし、彼は象山たちの待つお玉ヶ池には立ち寄らず、そのまま麻布の長州藩邸へと直行して自首し、ただちに捕縛・監禁された。恩師や友に累を及ぼさないための、彼なりのけじめであった。
この報に接し、お玉ヶ池の塾で帰りを待っていた象山は、囚われの身となった寅次郎を激しく案じた。象山はすぐさま長州藩の役人たちへ、驚くほど苛烈な助命・擁護の書簡を送りつける。
「吉田寅次郎は日本にとって不世出の天才である。書類一枚の不手際などで、このような国家の財産を殺してはならない!」
その後、寅次郎は長州へと強制送還され、武士の身分を剥奪された上で「自宅謹慎」を言い渡される。エリートとしての未来を失った狭い謹慎部屋で、しかし彼は牙を研ぎ続けた。貪るように本を読み漁り、この期間に読破した数は数百冊に及んだ。彼の「知への飢え」は衰えるどころか、さらに異常なレベルへと肥大化していったのである。
◇
寅次郎が謹慎部屋で孤独な闘いを行っていた頃。
お玉ヶ池でも、象山とその門弟たちは、寅次郎の帰りをじっと待っていたわけではない。彼ら自身、前へ前へと進んでいた。
象山は、両翼の一人を失う喪失感に駆られながらも、藩命である大砲鋳造プロジェクトを推し進めていた。それは、次々と立ちはだかる多くの難題をクリアしていく作業であった。
青銅を大量に溶かすには、これまでにない超高温を出せる「反射炉」という特殊な炉が必要だった。象山はオランダの書物の不鮮明な挿絵だけを頼りに、耐火レンガの土の配合から計算し、自力でこの巨大な炉を建設した。
また、大砲に使う青銅は、銅と錫の割合が一ミリでも狂うと、大砲を撃った瞬間に自爆して味方を殺してしまう。象山は、塾にこもり、何十回、何百回と金属を溶かす実験を繰り返した。
さらには、当時の最先端の製造法は、まず青銅の「巨大な塊」を鋳造し、あとからその芯をくり抜いて筒にする方法であった。この硬い青銅に、真っ直ぐきれいな穴をあける巨大なドリル──水力切削機も、象山は自力で設計・調達したのだ。
幾度もの大爆発や失敗、藩の予算を使い果たすほどの苦境、周囲からの「あいつは狂っている」という冷ややかな目を跳ね除け、一八五二年、象山はついに日本初となる本格的な「西洋式・青銅製四ポンドカノン砲」の鋳造に成功する。
これに続いて、より破壊力の大きい「ハウィッツル砲」の鋳造にも成功。教科書の文字だけで、本物と全く同じ威力を持つ近代兵器を完成させてしまったのである。
プロジェクトを成功させた象山に対し、藩主・真田幸貫は膝を打って喜び、象山を褒め称えた。そして松代藩は木挽町にある広大な藩邸の敷地、あるいはその周辺の広い土地を塾として提供する。
木挽町の新しい塾は、単なる勉強部屋ではなく、庭に自作の大砲や砲台が並び、奥には巨大な図面が何枚も広げられている「近代軍事研究所」のような姿をしていた。
そして、この成功を機に、象山は幸貫から、日本の海防顧問──国政の最高アドバイザーのような役職を実質的に任される。象山は、大砲の鋳造や、西洋式の軍隊をどう組織すべきかという国家レベルの計画書の作成に、没頭した。
そしてその時期、象山は、勝の妹の順を嫁に迎えていた。一年前にプロポーズをして以来、ようやく実った結婚であった。
プロポーズの折、勝家としては、学者として名を上げ大名の信頼も厚い象山との縁組は玉の輿であるため喜ぶ半面、堅物で横柄な象山に大切な娘を嫁に出すことに激しくためらっていた。それゆえに一年もの長い時間を要したが、最後は、象山の脅迫まがいの猛アタックと粘り勝ちのような形で、勝家もついに嫁に出すことに決めたのだ。
お順は、木挽町の新しい塾へ嫁ぐと、すぐさま象山塾の切り盛りを引き受けた。むさ苦しい男ばかりの塾へ文字通り飛び込み、少しのものおじもしない江戸前の明るさで、塾生たちの身の回りの世話をかいがいしく焼き始める。その姿は、いつしか塾生たちにとって母親代わりのような温かい拠り所となっていった。
◇
小林虎三郎は、象山が国家の仕事で忙殺される中、塾の運営、西洋兵書の翻訳、新入りたちの指導をすべて一人で担っていた。この無理が祟り、彼はこの期間中に持病の眼病を悪化させ、完全に片目の視力を失い、隻眼となる。
お玉ヶ池から木挽町への大移動という、象山塾の引っ越しでも、実務トップとして支え、塾頭として塾生たちを引っ張っていた。
虎三郎は、木挽町に新しい塾が移った後も、身分を剥奪された寅次郎がいつ帰ってきてもいいように、象山に「あいつの席は残しておきましょう」と進言し、寅次郎の分の机と墨を用意して待ち続けていた。
◇
勝麟太郎は、この時期、ズーフ・ハルマのコピーを売り払って得た資金などを元手に、赤坂の自宅で自前の私塾──勝塾を開き、「オランダ兵学の若きカリスマ」として完全にブレイクし、超多忙な日々を送っていた。
すでに『ズーフ・ハルマ』をマスターし、最新のオランダ兵書である『マラン兵書』などを翻訳・教授できる最先端の男として、江戸中に名が知れ渡っていた。
自身の勝塾には、日本中から海防を学びたい若者が殺到。麟太郎は彼らに講義を行う傍ら、義理の兄となった佐久間象山の木挽町の塾にも請われて最新兵学の講義をしに行くという、江戸の兵学界を股に掛ける超過密スケジュールをこなしていた。
◇
そんな慌ただしい一年が過ぎた日、
寅次郎の凄まじい猛勉強の姿勢と、佐久間象山による藩への猛烈な働きかけが、ついに実を結ぶ。藩主・毛利敬親から「十カ年の諸国遊学」の許可が下りた。奇跡の赦免であった。
そして、一八五三年一月二十六日。
寅次郎は、失ったはずの未来と滾るほどの野心をその胸に再び宿し、遥かなる江戸に向け、再び、長州・萩を出発したのであった。
道中、四国や近畿の志士たちと国防の激論を交わしながら、寅次郎はおよそ四ヶ月の時をかけて東へと突き進んでいった。
寅次郎が江戸の地を踏んだのは、五月二十四日のこと。
彼はその足で、お玉ヶ池から新天地・木挽町へと移っていた象山塾の門を叩いた。懐かしい顔ぶれを前に、寅次郎の顔がほころぶ。
「先生、虎三郎、戻りました!」
「ふはは、よくぞ帰ってきたな、唐変木め!」
豪快に笑う師の象山や、隻眼に温かい光を宿した塾頭の小林虎三郎らと固い再会の挨拶を交わし、寅次郎は再び塾生としてその籍を置いた。
身分を失い、狭い部屋でただ牙を研ぎ続けた孤独な一年は終わったのだ。仲間と共に貪るように世界を学び、夜を徹して日本の未来を激論する、あの狂おしいほどに充実した日々がまた始まる。あつい思いを胸に秘め、寅次郎が木挽町の塾での精進をまさに開始した、その矢先のことであった。
一八五三年六月三日。
泰平の眠りを貪る日本を叩き起こし、寅次郎や象山、そしてこの国に生きるすべての者の運命を根底から変えてしまう大事件が起きる。
太平洋の濃霧を切り裂き、浦賀の海に姿を現した漆黒の巨大な怪物──「黒船来航」である。




