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象山先生と、神田お玉ヶ池の怪物たち  作者: しばたろう


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06勝麟太郎2

 麟太郎が象山と出会って間もなくの頃、象山が不敵に笑いながら、途方もない計画を口にした。


「馬鹿どもに、西洋の大砲の威力を見せてやろう。そうすれば嫌でも目が覚めるだろう」


 傲慢に言い切った象山は、自らの理論をもとに鋳造した大砲(青銅砲)を使い、江戸の多くの諸藩の武士や見物人を集めて、盛大に試射を行うことにしたのである。


 演習当日、象山は興味本位に集まったおびただしいやじ馬の前に、意気揚々と、自慢の大砲を引っ張り出した。

ところが、いざ点火したその瞬間――大砲は轟音と共に、その場で木っ端微塵に大爆発を起こして破裂してしまったのである。


 吹き飛ぶ破片に、周囲の観客は腰を抜かして逃げ惑った。

 かねてより象山を快く思っていなかったアンチ象山派の学者たちは、「それ見たことか! 口先ばかりのホラ吹き男め!」と大笑いし、象山の失敗を嘲る川柳まで作って江戸中に触れ回った。


 普通なら恥の手にまみれて引きこもるべき場面だが、そこは佐久間象山であった。彼は眉一つ動かさず、こう平然と言い放ったのである。


「あの大砲が炸裂したのは、俺の理論が間違っていたからではない。職人の鋳造技術が、俺の高度な数式に追いついていなかっただけだ!」


 この騒動の一部始終を特等席で見届けた麟太郎は、のちに呆れたようにこう語っている。


「象山のおっさん、大砲をぶっ放したら手前のほうがはね返ってやんの。見物人はみんな逃げちまったが、本人は平気な顔をしてやがった。あの図太さだけは、大したもんだよ」


 麟太郎は象山のハッタリに呆れつつも、失敗の原因が職人の技術不足にあることをすぐに見抜き、次なる改良へ向けて何事もなかったかのように冷静に動き出す象山の、「科学者としての凄まじい執念」には、やはり一目を置かざるを得なかった。


 実は、この大失敗の話はここで終わらなかった。


 この大騒動の一部始終が、象山の主君である松代藩主・真田幸貫の耳に入ったのだ。幸貫は「元・幕府老中にして海防の最高責任者」を務めた男である。アヘン戦争で清国が西洋列強に蹂躙された恐怖を誰よりもリアルに知る、国政超一級のインテリ政治家であった。


 大不祥事とも言える大爆発の直後、幸貫は象山を叱責するどころか、誰もが耳を疑うような言葉を突きつけた。


「これからの海防に、西洋式の大砲は絶対に不可欠だ。象山、お前の頭脳で、我が藩の手でこれを国産化せよ」


 それは、信頼という名の、あまりにも途方もない無茶振りであった。


 当時、西洋における最新大砲の製造法は、国家の命運を握る最高機密。日本にはオランダから持ち込まれた兵書がわずかに数冊あるだけで、「本物の設計図」もなければ「材料の配合比率の正解」すら分からない。そればかりか、大砲を鋳造するために不可欠な、数千度の熱に耐える頑丈な溶鉱炉(反射炉)すら、この国には存在していなかった。


 それは、現代で言えば「設計図もなしに、町工場の技術だけで宇宙ロケットを自作する」ような、絶望的な挑戦にほかならなかった。


 しかし、目の前に突きつけられた絶対不可能な壁を前にして、佐久間象山の胸中には、獰猛なまでの炎が激しく燃え上がる。


「どうやら、俺は、上様に、才能を見込まれたようだ」


 傲然と不敵に笑う象山の瞳には、すでに未来の青銅砲が放つ鈍い輝きが映っていた。


 一八四九年、秋。

 江戸中の嘲笑を燃料に変えて、象山の「ゼロからの大砲鋳造プロジェクト」が、いま静かに、しかし狂気的な熱量を持ってスタートしたのだった。

  


 大砲の爆破事件という大騒動と並行して、象山と麟太郎の間では、出会った当初の目的である「最新の西洋兵学書の翻訳」が猛スピードで進められていた。


 当時、象山が手に入れたオランダの最新の軍事書(通称:マラン兵書など)には、大砲の鋳造法だけでなく、戦場での効率的な部隊の動かし方や、近代的な陣形の敷き方が緻密に書かれていた。

しかし、いかに天才とはいえ、象山一人では翻訳のスピードが物理的に追いつかない。そこで、オランダ語のバケモノである麟太郎が夜な夜な下訳を作り、それを象山が日本の兵学の言葉に超訳・監修していくという、二人三脚の「知の極秘プロジェクト」が毎日のように行われることとなった。


 ──そして、この死闘のような翻訳作業が音を立てるように突き進んでいる最中、お玉ヶ池の門を叩いたのが、小林虎三郎であり、吉田寅次郎であった。


 二人は、世界の現実を塗り替える西洋の知が、今まさに目の前で鮮やかに解き明かされていく様を、特等席で目撃することができたのである。


 麟太郎が紡ぐ下訳の熱、象山が放つ超訳の凄み──日々アップデートされていくその圧倒的な躍動感に、若き天才たちの魂がどれほど激しく奮い立ったか、想像するのは難しくない。


 

 この頃の、象山と麟太郎の間で一つのこぼれ話がある。


 二人の共同作業のある日、文献の翻訳の件で話があり、象山は麟太郎の長屋を訪れた。初めて見る麟太郎の貧乏長屋である。裕福に育った象山は、その余りにも質素な佇まいに、内心いたく驚いた。


 そして、狭い部屋に通されると、そこに麟太郎の妹の順が茶を運んできた。


「これは、佐久間様。麟太郎の妹の順にございます。兄からは、お噂をかねがね伺っておりますよ。いつもお世話になっております」

 江戸の知の巨頭を前にしても、順は少しのものおじもしなかった。はきはきと挨拶し、白い歯を見せてにかっと笑った。


 その初夏の太陽のような笑顔に、象山は一瞬で釘付けになる。


 当時、順は、十六歳。

 二十代も年が離れた、まだ年端も行かない娘であったが、象山は、そのただ一度の笑顔に一発で心をもっていかれたのだ。


 国家の命運を賭けた大砲の設計図を睨みつけていたはずの男が、一人の少女の輝きに完全にノックアウトされた瞬間であった。


 それ以降、それまでは翻訳の進捗を冷徹に催促するだけだった象山が、何かと理由をつけては、勝の貧乏長屋へ頻繁に通うようになるのである。

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