05勝麟太郎1
勝麟太郎は、壮絶なまでの貧乏の中にいた。
勝家が徳川将軍家直属の「御家人」であったことが、その最大の理由である。同じ幕臣であっても、将軍に直接まみえることの許される「旗本」とは天と地ほどの格差があり、武士の階級としては最下層に近い身分であった。
家禄は、わずか四十一石余。これは武士として家族の生活を維持するのがやっとか、あるいは全く足りないレベルの極薄給であり、勝家の暮らしは常にどん底を這うようであった。
青年期の麟太郎は、元々は身を立てるために「剣術」に没頭していた。流派は直心影流。飢えを忘れるほどの猛特訓の末に免許皆伝を得て、若くして塾頭を務めるほどの腕前になる。
しかし、どれだけ剣を極め、一撃で人を倒す技を磨こうとも、平和な江戸時代において貧乏御家人の身分が変わるわけではなかった。いくら竹刀を振ったところで、明日の米が増えるわけではないのだ。
そんな二十四歳の時、麟太郎の人生を根底から変える出会いがあった。実家の近所に住んでいた、元幕府の天文学者・永井青崖から、これからの時代は蘭学――オランダの学問が必要不可欠だと諭されたのである。
「これからは剣の時代ではない。異国の脅威が迫る今、オランダの言葉を学び、世界を知る者こそが国を救うのだ」
この言葉は、麟太郎の胸に突き刺さった。狭い道場で己の技に固執していた男は、すっぱりと剣を置き、未知なる蘭学への転向を果敢に決意したのである。
蘭学を学ぶと決めた麟太郎であったが、当時の勝家には本を買う金すら、文字通り一文もなかった。オランダ語を習得するには、当時唯一のまともな蘭和辞書である『ドゥーフ・ハルマ』が必要不可欠であったが、これは現在の価値に換算すれば数百万円にも及ぶ、大名や大富豪しか持てない超高級品であった。
そこで麟太郎は、常人には真似できぬ驚くべき行動に出る。
四方に手を尽くして駆けずり回り、あるオランダ通詞が持っていた辞書を「一年間だけ、年間十両」という破格の大金を約束して借り受けてきたのである。この十両という大金を工面するため、彼は家財道具をすべて質に入れ、あらゆる人に頭を下げて回った。
そうして手に入れた貴重な辞書を前に、麟太郎は赤坂の自宅へこもり、寝る間を惜しんで丸ごとすべて手書きで書き写し始めた。
だが、ただ写すだけではない。麟太郎はここで狂気じみた策を講じる。
一部は、自分用。
もう一部は、売却して借り賃の十両を返済するため。
なんと、気が遠くなるような「二部同時写し」を敢行したのである。夜中、猛烈な眠気に襲われると、バケツに張った冷水に容赦なく足を突っ込み、凍える身体で筆を走らせた。そうして一年がかりで、約三千ページにおよぶ辞書を二つの美しい束として完全に書き写し終えたのである。
この血の滲むような死闘によって、彼は念願の辞書を手に入れただけでなく、江戸でトップクラスのオランダ語の学力を、その脳髄へ強制的に叩き込むこととなった。
しかし、オランダ語を取得した麟太郎には新たな悩みがでてきていた。本から得た完璧な「理論」はあっても、それを形にするための、実際に大砲を鋳造する技術や、幕府を動かすだけの実質的な人脈が、貧乏御家人の身分では圧倒的に足りなかったのである。
そんな時、ひとつの噂が彼の耳に飛び込んできた。
「西洋の学問に精通した松代の佐久間という男が神田お玉ヶ池に塾を開いた」
それこそが、佐久間象山であった。
二十七歳の時、己の私塾をさらに高い次元へ引き上げるため、麟太郎はお玉ヶ池の門を叩いた。
◇
書斎に通された麟太郎を待っていたのは、まさに噂通りの男であった。
当時四十歳手前の象山は、どっかりと大股を開いて胡坐をかき、高価な煙管から不敵に紫煙を吐き出しながら、やってきた貧乏御家人の若者を冷然と見下ろした。
象山は挨拶もそこそこに、いつもの大言壮語をぶちかます。
「今の日本の学者どもは皆、目が見えておらん盲ばかりだ。オランダ語の単語をいくつか覚えただけで、国防を語るなど片腹痛いわ。この日本で、世界の現実と真の兵学を知っているのは、この俺一人だけだ」
これを聞いた麟太郎は、顔色一つ変えず、内心で思いきり鼻で笑っていた。
(なんだい、やたらと格好ばっかりつけたがる、鼻持ちならねぇおっさんじゃねえか)
江戸っ子で飾らない性格の麟太郎にとって、象山の芝居がかった尊大な態度は、滑稽にすら見えたのである。
しかし、象山が不敵な笑みを浮かべたまま、机の上に自身が翻訳したオランダの砲術書や、緻密に描かれた大砲の設計図を広げて見せたとき、麟太郎の目は一変した。
象山は「これがお前に読めるか?」とばかりに、難解な洋書を突きつける。
だが、麟太郎はあの巨大な辞書を二部も丸写しした男である。象山が誇らしげに提示した西洋兵学の原書を、麟太郎は淀みのない、極めて流暢なオランダ語で、その場で見事に翻訳してみせた。
これには、今度は象山のほうが目を見開いた。
江戸広しといえど、これほど正確に、かつ素早く蘭書を読解できる若者が、まさかこんな最下層の御家人の中にいようとは夢にも思わなかったのである。象山は煙管を置くと、身を乗り出して麟太郎に様々な専門的質問を浴びせ始めた。
会話が深まるにつれ、二人はお互いの「中身」が本物であることを瞬時に察知する。
(癪だが、このおっさんの学問は本物だ。ただの書物の受け売りじゃない。天文学も数学も完全に血肉にしていやがる。この男の知識と技術があれば、俺の蘭学は本物の『大砲』になる)
(面白い男だ。これほどの蘭学の学力があれば、俺がこれから進める大量の洋書翻訳の右腕として、これ以上ない人材だ。こいつは手放せん)
象山はすっかり機嫌を良くし、麟太郎に「明日からでも俺の塾に来い。翻訳を手伝え」と言い放った。麟太郎もまた、象山の傲慢さに内心で毒づきながらも、「へえ、それじゃあお邪魔させてもらいますよ」と、飄々とした態度でその実務提携を承諾したのである。




