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象山先生と、神田お玉ヶ池の怪物たち  作者: しばたろう


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2/11

02吉田寅次郎2

 神田阿部川町に構えられた象山塾の門前に、一人の若者が立っていた。

 地味で擦り切れた旅装。しかし、その薄汚れた身なりとは裏腹に、男の双眸には尋常ならざる光が宿っていた。

 

 若者は受付の塾生に対し、背筋を正して深く一礼すると、懐から一通の書状を取り出した。それは、天下の大家たる山鹿素水が認めた紹介状であった。丁重な物腰ながらも、差し出された書状の重みと若者の放つただならぬ気迫に、受付の塾生は色めき立った。若者はすぐさま奥の書斎へと通された。

 

 その若者――吉田寅次郎は、静かに正座して主の訪れを待っていた。

 背筋を伸ばし、呼吸を整える。しかし、その内心で、寅次郎は激しい衝撃に突き動かされていた。


 そこは、彼がこれまで見てきた、あるいは絶望してきた学問の場とは一線を画していた。安積艮斎の塾に見られるような、古びた和書や漢籍が厳かに並ぶ光景を想像していた寅次郎の予想は、完璧に裏切られた。

 部屋の床には、見たこともないほど精密な世界地図――地球図が大胆に広げられている。壁の棚に目をやれば、怪しげな横文字のオランダ語で書かれた技術書や、複雑な幾何学模様の設計図がギッシリと隙間なく並んでいた。

 さらに異様なのは、部屋の隅に転がっている品々だった。真鍮の針と針金で組まれた自作の電信機(電気を送るという怪しげな機械)の試作品、怪しく光るガラスの原料、そして重量感のある大砲の弾のサンプルなどが、まるで玩具のようにゴロゴロと床を占拠している。

 伝統的な武士の書斎というよりは、まるで「異国の魔術師の部屋」に迷い込んだかのようであった。不気味なほどの異質さと、圧倒的な先進性が、濃密な空気となって部屋を満たしていた。


 刹那――。

 スパァン! と、空間を引き裂くような勢いで襖が開いた。


 ゆらりと紫煙を纏い、ピカピカに仕立てられた高級な着物に身を包んだ大男が、荒々しい足音を響かせて入ってきた。

 大男は、部屋に座る寅次郎を一瞥もくれない。そのまま上座へとどっかりと腰掛け、ようやくその大きな眼で、眼下の若者を真っ向から睨みつけた。威圧感そのものが服を着て歩いているかのような男だった。


 大男は手元でくすぶる煙管を、トントン、と小気味悪く灰吹きに叩きつけた。

 そして、低く、しかし部屋の空気をびりびりと震わせるような声を放った。鼻で笑うような、傲岸不遜な響きがそこにはあった。


「山鹿の本家から手紙が届いたゆえ、どんな骨のある男が来るかと思えば……長州の小倅か。ずいぶんと煤けた姿だな」


 男の言葉は容赦なく寅次郎の身なりを値踏みし、切り捨てた。男はさらに眼光を鋭くし、言葉を重ねる。


「お前が吉田寅次郎か。その身の程知らずに据わった眼で、この象山に何を乞いに来た?」


 傲慢にして天才。

 これが、吉田寅次郎が佐久間象山という怪物に相まみえた、最初の瞬間であった。

 

 

 象山のあまりに不遜な態度。

 普通の人間ならここで萎縮するか、あるいは侮辱に激昂してブチギレるかの二択であった。しかし、寅次郎はどちらにも属さなかった。

彼はただ、限界まで見開いたその眼で、象山の放つ圧倒的な威圧感を正面から受け止め、寸時もそらさずに睨み返したのである。


「乞いに来た、と仰いますか」

寅次郎の声には、怒りではなく、刃のような鋭さが宿っていた。

「私は、ただ古臭い文字の解釈を並べるだけの江戸の儒学に絶望いたしました。そして、西洋の言葉を弄び、大砲の弾を転がしているだけの蘭学者たちにも、この国を救えるとは思えません。いくら異国の真似事をしようと、武士の気概と忠義の心を持たぬ者が動かせば、それこそ張り子の虎に過ぎない。もし象山先生、貴方がただの『西洋かぶれ』であるならば、我が山鹿流の正論をもって、その化けの皮を剥ぎ取って差し上げましょう!」


 大家のプライドをかけ、寅次郎は一気呵成に言葉をぶつけた。口先だけの蘭学者なら、この段階で言葉に詰まるはずであった。

 しかし、象山は驚きもしなかった。ただ、深く、不気味に喉を鳴らして笑った。


「化けの皮、だと? 面白い。ならば剥いでみせよ、長州の小倅」

 象山は手元の煙管を置くと、寅次郎をねめつけた。


「お前は、イギリスの船を見て驚き、長崎の軍艦に圧倒されてここへ来た。だが、なぜあの鉄の塊が海に浮かび、あの大砲が清国を焦土と化せたのか、その『理』を一つでも説明できるか?」

「それは……圧倒的な大砲の威力と、頑強な船体によるものでしょう」

「浅い。浅すぎるわ!」

 象山の一喝が、書斎の空気を震わせた。


「あの船を動かしているのは気概ではない、蒸気という熱の力だ! そして大砲の威力を支えているのは武士の忠義ではなく、硝酸と硫黄の配合、すなわち『化学(舎密学)』の法だ。異国が清国を平らげたのは、彼らが天理の法則を突き詰め、それを兵器へと変えたからに他ならん。お前ら山鹿流が『和魂』と崇める精神論など、異国の科学という名の『物理』の前には、ただのまとに過ぎんのだ!」


 象山の言葉は、弾丸のように寅次郎の脳髄を撃ち抜いた。

 さらに象山は立ち上がり、棚からオランダ語の分厚い書物を掴み取ると、寅次郎の目の前へ叩きつけた。


「私がここでやっているのは、異国の真似事ではない。この書物に書かれた万物の理を解き明かし、日本独自の電信を、独自の硝石を、そして異国を遥かに凌駕する最新鋭の大砲を、この手で鋳造するための『実践』だ! 精神論だけで黒船が沈められると思うなら、今すぐその刀を抜いて、海岸から海へ向かって斬りかかってみせるがいい!」


 完璧な返り討ちであった。

 象山の言葉には、付け焼き刃の知識ではない、自ら実験を繰り返し、真理に到達した者だけが持つ圧倒的な説得力と狂気が宿っていた。

 寅次郎のプライドは、粉々に粉砕された。しかし、その絶望の底から湧き上がってきたのは、かつてないほどの激しい興奮であった。


(この男は本物だ……。俺が探していた、国を救うための真の学問が、ここにある!)


 寅次郎の眼から、敵意が完全に消え去った。代わりに宿ったのは、純粋な、狂気的なまでの渇望であった。

 寅次郎はすっと姿勢を正すと、それまでの傲慢な態度を捨て、床に深く頭をこすりつけた。衣服が畳に擦れる音が、静まり返った部屋に響く。


「……象山先生、御見それいたしました。私の眼が完全に曇っておりました。浅学非才の身、深く恥じ入るばかりです。どうか、その世界の理を、この国を救うための真の実学を、私に教えてください。この通りです、どうか私を入塾させてください!」


 畳に額を押し付けたまま、寅次郎は必死に声を絞り出した。

 象山は、床に伏せる小柄な若者をじっと見下ろした。

 普段の象山なら、自分に歯向かってきた不遜な者はその場で叩き出していた。しかし、この吉田寅次郎という男は違った。完璧に論破され、己の無知を突きつけられた瞬間、プライドを一切捨てて頭を下げた。この驚異的な「素直さ」と「知識への狂気」こそが、並の秀才にはない天才の証拠であった。


「……いいだろう」

 象山は再び上座へと戻り、どっかりと腰を下ろすと、机の上の筆を執った。

「吉田寅次郎。お前のその身の程知らずな狂気、嫌いではない。今日からこの塾の敷居を跨ぐことを許す」


「……深く、感謝いたします」

 寅次郎が顔を上げると、その眼には再び、火の玉のような熱い輝きが戻っていた。


 常人であれば門前払いすら免れない、象山塾への入塾。

 傲慢なる天才・佐久間象山が、のちに「我が門下の双璧」と最大級の賛辞を贈ることになる吉田寅次郎の才能を、その見識の高さで見抜いた瞬間であった。

 


 入塾が許されたその日から、吉田寅次郎の生活からは「睡眠」と「休息」という文字が完全に消え去った。

 象山が寅次郎に最初に叩きつけたのは、机が高くなるほどの分厚い西洋兵学書と、オランダ語で書かれた大砲の鋳造マニュアルであった。

「まずはこれをすべて頭に入れろ。話はそれからだ」

 象山はそう不敵に笑ったが、並の書生であれば、その狂気じみた量と難解さに数日で音を上げるはずの無理難題であった。


 しかし、寅次郎という男の真の凄まじさは、ここから発揮される。

 彼は象山の書斎から借り受けた書物を、一文字たりとも見落とさぬよう、寝食を忘れて貪るように書き写し、暗記していった。夜中、塾生たちが寝静まった後も、寅次郎の部屋からは夜灯の芯をハサミで切る音が絶え間なく響いた。眠気に襲われれば、己の太ももを針で突き刺して無理やり目を覚まさせたという。幼少期に山鹿流の膨大な古典を骨の髄まで叩き込まれていた寅次郎にとって、未知の西洋兵学を系統立てて吸収することは、むしろ乾いた砂が水を吸い上げるかのような快感であった。


 だが、寅次郎を何よりも突き動かしたのは、間近で目撃した佐久間象山という男の「常軌を逸した凄み」であった。


 ある日、寅次郎は象山の実験室に呼び出された。そこで見た光景に、寅次郎は息をのんだ。

 象山は、机の上に並んだ真鍮の針金や怪しげなガラスの器をいじっていた。手元のオランダの書物には、精密な機械の図面が描かれている。

「見ておれ、寅次郎。これが世界を繋ぐ『理』だ」

 象山が手製のレバーを叩いた刹那、パチリと青白い火花が飛び散り、数間離れた場所に置かれた鈴がチリンと音を立てて鳴った。

「これは電信という。異国では、この目に見えぬ雷の力を操り、千里離れた地へ瞬時に言葉を伝える。実物の機械など日本にはない。だが、書物に書かれた物理の法則さえ解き明かせば、このようにゼロから作り出すことができるのだ」


 寅次郎は、その場に釘付けになった。

 それまで彼が知っていた学問とは、過去の聖人が残した言葉を解釈し、精神を磨くものであった。しかし、象山の学問は違った。「書物からエネルギーや物質を生み出し、現実の世界をひっくり返すもの」――それこそが、象山の言う「実学」の正体であった。


 象山の凄みはそれだけに留まらない。彼は、大砲の鋳造法や砲術の講義においても、冷徹なまでの科学データで寅次郎を圧倒した。

「兵の気概や武士の勘などで、大砲が当たると思うな。弾の重量、火薬の調合、そして発射の仰角――すべては数理によって導き出される『物理』だ。計算通りに動かせば、弾は必ず敵を撃ち抜く」


 象山は傲慢で、世間からは「大言壮語のホラ吹き」と遮二無二に嫌われていた。だが、寅次郎が目の当たりにしたその姿は、口先だけの男では断じてなかった。

「今の幕府のやり方では日本は滅びる。だから、俺がこの手で大砲を作り、海防をやり直すのだ」

 その言葉の裏には、巨大な自負に見合うだけの、命懸けの国家への責任感と執念が渦巻いていた。自ら設計図を引き、硝石を調合し、夜を徹して実験に没頭する師の背中は、神々しいまでの狂気に満ちていた。


「この人の頭脳をすべて吸い尽くさねば、日本に未来はない」

 寅次郎の心酔は、いまや確固たる狂信へと変わっていた。師の圧倒的な具現化力と科学的実践力を前に、長州の天才はさらに速度を上げ、怪物・佐久間象山という巨大な知性の海へと深く、深く没頭していったのである。

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