01吉田寅次郎1
吉田寅次郎は、稀代の秀才である。
長州藩の山鹿流兵学を代々教える家系に生まれた彼は、わずか五歳で兵学を学び始めた。その才能は恐るべき速度で開花し、十一歳の時には藩主・毛利敬親の御前で兵学の講義を行うまでになった。居並ぶ宿老たちを驚愕させ、絶賛を博したその過去は、単なる「神童」の二文字では片付けられない。
小柄で、痩せていて、一見するとおとなしそうな風貌であった。しかし、その内実には、純度の高い祖国を想う心と、一度火がつけば誰にも止められない火の玉のような衝動とを、同時に秘めていた。
そんな寅次郎が二十一歳の時、彼の人生を決定づける大事件が起きる。
嘉永三年十月。寅次郎は藩の許可を得て、九州の平戸藩へ遊学に出ていた。
その滞在中、港町である川内浦に、イギリスの捕鯨船二隻が突如として現れ、碇を下ろしたのである。
当時の日本は厳格な鎖国下にある。長崎の出島という極めて限定された場所以外に外国船が接近するなど、文字通りの大事件であった。
寅次郎はその知らせを聞くや否や、じっとしていられず、転げるように宿を飛び出して海岸線へと駆けつけた。
海岸には、銃や弓を手にした地元の平戸藩士たちが殺気立って並び、物々しい警戒態勢が敷かれていた。しかし、寅次郎はその緊迫した空気など意に介さず、海岸の最前線へ進み出ると、波間に浮かぶイギリス船をじっと凝視した。
そこにあったのは、これまで見たこともない異形の構造物であった。無数のロープが複雑怪奇に張り巡らされた、巨大な三本マストの洋式帆船。それが二隻、傲然と海に浮かんでいる。
海岸の日本の役人や藩士たちは、その巨船を前に完全に腰が引け、ただ右往左往するばかりであった。彼らが握りしめている武器は、お世辞にも最新鋭とは言えない古い火縄銃や弓矢に過ぎない。一方のイギリス船は、日本の警戒などどこ吹く風で、悠然と青い海に漂っていた。
この時すでに、寅次郎は「世界の現実」を知っていた。八年前に起きたアヘン戦争の詳細を、『海国図志』や『聖武記』といった禁書に近い海外情勢の書物を穴が開くほど読み、頭に叩き込んでいたからである。
イギリスという国が、恐るべき軍艦を持っていること。その大砲の威力が凄まじく、アジア最強を誇った大帝国・清国が手も足も出ずに敗れ去ったこと。そして、次は日本がターゲットになる可能性が極めて高いこと。
しかし、それはあくまで本の上に並んだ文字の知識であり、どこか現実感を欠いた平穏な夢のようでもあった。
だが、目の前の巨大な船体を見た瞬間、その生ぬるい夢は吹き飛んだ。
「アヘン戦争の恐怖が、ついに日本に現実のものとして上陸したのだ」
知識が、肌を刺すような絶望感を伴って「現実」へと変貌した瞬間であった。
そして次の瞬間、寅次郎の脳裏に激しい閃光が走る。
「ならば、今すぐ日本で唯一、本物の外国と繋がっている長崎へ行き、この目で世界を見なければ、長州の土を踏むことなどできない!」
そう決意した寅次郎は、イギリス船の出現からわずか二日後、当初の留学予定をすべて放り投げて平戸を出発した。長崎へと、文字通り「すっ飛んで」行ったのである。
当時は鎖国令の世であり、藩の許可(通行手形)にない場所へ勝手に足を踏み入れるのは重罪であった。最悪の場合、処罰の対象となる国法違反である。しかし、寅次郎の「知りたい、この目で確かめたい」という狂気的な情熱は、そんな役人のルールなど軽々と飛び越えていた。
長崎へ到着した寅次郎は、そこで第二の、そして決定的な衝撃を受けることになる。
彼が長崎の海で目にしたのは、そこに停泊していたオランダの軍艦であった。遠目から見ても、その異質さと凄まじさは十分に見て取れた。
寅次郎はたまらなくなり、小舟を雇って漕ぎ出させ、軍艦の間近まで近づいた。そして、文字通り見上げるようにして、その鉄の塊を観察したのである。
船体に整然と並ぶ、巨大な砲門。圧倒的な質量が放つ、重厚な威圧感。
これまで頭の中で、「夷狄など、武士の気概と忠義の心があれば打ち払える」と信じて疑わなかった寅次郎のプライドは、この九州の海で、完膚なきまでに粉砕された。
自分の無力さと、祖国を包む危機の巨大さに打ちのめされながら、寅次郎は一度、長州藩の萩へと戻った。この時、彼の胸に去来していたのは、地方に引きこもることへの強い拒絶であった。
「平戸や長崎のような地方で、一藩のことだけを考えて議論していても意味がない。日本全体の政治と情報の中心である江戸へ行き、天下の英傑たちと交わらねば、国を救う答えなど出るはずがない」
萩に戻った寅次郎は、すぐさま藩に「江戸への留学」を願い出た。藩主・毛利敬親は、十一歳の頃からその才能を高く評価していた寅次郎の申し出を快諾し、正式な通行手形を発行した。
こうして嘉永四年、二十二歳になった吉田寅次郎は、ついに憧れの国際都市・江戸へと足を踏み入れたのである。
◇
当時、江戸で最も有名を馳せていたのは、儒学者・安積艮斎の開く『見学塾』であった。
安積艮斎は、後に幕府の最高学府である昌平坂学問所の教授にまで登りつめる、当時の知識人の最高峰の一人である。その高名な私塾には、全国から集まった何百人ものエリート書生たちがひしめき合っていた。
世界と戦う術を一刻も早く学びたい。その一心で江戸へ辿り着いた寅次郎は、到着した翌日にはもう、見学塾へと駆け込んで入門の手続きを済ませていた。
しかし、異様なほどの熱量を持って門をくぐった寅次郎が、そこで最初に感じたのは、周囲の書生たちとの絶望的なまでの温度差であった。
全国から集まった秀才たち。だが彼らは、大都会・江戸の華やかな誘惑に、完全に骨抜きにされていた。
当時の見学塾の若者たちは、夜になると卓を囲んで酒を酌み交わし、吉原の遊郭での品定めや、流行の着物のファッション、他愛のない噂話に興じていた。お世辞にも、国難に立ち向かおうとする覚悟など微塵も感じられない、実にお気楽な世俗の暮らしに浸りきっていたのである。
共に暮らす塾生たちのその醜態に、寅次郎の怒りはついに爆発した。
「お前たちは、日本の海に外国の脅威がすぐそこまで迫っているのが分からないのか! よくもそんなのんきに酒が飲めるものだ!」
目を血走らせ、至極真っ当な正論で詰め寄る寅次郎の凄まじい剣幕に、塾生たちは完全にドン引きした。
「あいつは堅物でおかしい」
「ただの変人だ」
彼らは寅次郎を陰で嘲笑い、煙たがっては、次第に孤立させていった。
しかし、孤立することなど寅次郎にとってはどうでもよかった。
「あいつらは駄目だ。俺一人でも、国を救う道を成し遂げるしかない」
そう孤独な決意を固める寅次郎に、決定的なとどめを刺したのは、期待していた講義そのものの内容であった。
塾長である艮斎をはじめ、塾生たちが熱を上げているのは、数百年に書かれた中国の古典――『論語』や『孟子』の一行をどう解釈するかという、重箱の隅をつつくような議論であった。彼らは、今まさに日本の海を脅かしている黒船の現実から、完全に目を背けていた。
「これほどまでに、天下の秀才たちが現実を見ていないのか」
空疎な言葉だけが飛び交う教室で、寅次郎は激しい焦燥感に駆られた。
この塾のぬるま湯にこれ以上浸かっていたら、俺まで平和ボケしてしまう。そう強い危機感を抱いた寅次郎は、見学塾の門を叩いてからわずか数ヶ月で、籍を削ってそこを飛び出したのである。
◇
見学塾のぬるま湯に絶望した寅次郎は、江戸の街で「本物の軍事学(兵学)」を教えている男を探し回った。文字の解釈論に逃げる儒学者ではなく、今そこにある危機に対抗できる実戦のプロを求めたのである。
そこで出会ったのが、山鹿素水という兵学者であった。
素水は、寅次郎の実家が代々専門としていた「山鹿流兵学」の、当時日本でトップに君臨する大家であり、本家そのものの人物であった。
ここで寅次郎は、見学塾のぬるま湯とは百八十度違う、熱い衝撃を受けることになる。
大家であるにもかかわらず、素水は地方から出てきた二十歳そこそこの若者に過ぎない寅次郎を、実にあたたかく、快く迎え入れた。そして出し惜しみすることなく、山鹿流の神髄や、西洋の脅威に対抗するための具体的な防衛策を次々と伝授したのである。
寅次郎の凄まじさはここからであった。もともと幼少期から、実家で山鹿流の基礎や膨大な古典の知識、暗記を骨の髄まで染み込ませていた寅次郎である。彼は素水の教えを、乾いた砂が水を吸い上げるかのように、スポンジさながらの凄まじい勢いで吸収していった。
そのあまりの熱意と理解の早さに、百戦錬磨の天才兵学者である山鹿素水もまた、目を見張って驚嘆した。
「この若者は、ただの書生ではない。山鹿流を、そしてこれからの日本を背負って立つ器だ」
その結果、寅次郎は入門からわずか数ヶ月という、前代未聞の異例のスピードで、山鹿流兵学の最高峰の免許である「山鹿流兵法免許皆伝(職許)」を素水から授けられることになった。長州では形式的な家元に過ぎなかった寅次郎が、江戸の地において、名実ともに「本物の山鹿流トップ」の一人として認められた瞬間であった。
己の信じる兵学の頂点を極め、寅次郎のプライドと気概は最高潮に達していた。そんなある日、寅次郎のあまりの熱量と天才っぷりに深い感銘を受けていた山鹿素水は、静かにこう告げた。
「寅次郎、お前の情熱は素晴らしい。だが、これからの海防を考えるなら、我らの伝統的な兵法だけでは足りぬ。西洋の科学技術を限界まで突き詰めている男の話を聞かねばならん。神田に塾を開いている松代藩の、佐久間象山を訪ねてみよ。あやつは傲慢極まりない男だが、その頭脳は本物だ」
信頼する軍事の師・素水からその名を聞いたことで、寅次郎の中で「佐久間象山」という存在が急浮上した。
「我が師がそこまで言う男なら、どれほどのものか確かめてやる。もし口先だけの西洋かぶれであるならば、この山鹿流の正論をもって叩き潰してやるまでだ」
伝統兵学の頂点に立ったという誇りと、尽きることのない知識への飢えを胸に、寅次郎の足は神田阿部川町にある象山塾へと向かっていった。




