ファミリーレストラン
二日目も、朝と夜、芹沢家で食事を作った。ただし、もう一人ではなかった。朝は蓮が一緒に来て、台所の入口に立っていた。
朝はトーストと目玉焼き。前夜のうちに、焼き加減まで指定されていた。半熟で、黄身は割るな、と連絡に書いてある。
悠斗はダイニングの椅子に座って、テレビを見ながらそれを食べた。
「目玉焼き、明日はもっと半熟で」
「うん」
夕方は、仕事を切り上げてきた父と一緒に行った。父は台所が見える椅子に座り、私の手元から目を離さなかった。献立は、昨夜指定されたとおり。ハンバーグと、赤だしの味噌汁。返事は、結局送らないままだった。それでも、時間になれば私は来ている。
「ハンバーグさ、チーズ入れてよ。あと味噌汁、豆腐多めで」
台所の入口から、悠斗が言った。注文が、昨日より細かくなっている。
手首のことは、何も言わない。謝る様子もない。それどころか、どこか上機嫌だった。誰と来ようと、私が言われたとおりに作っているだけで、満足らしかった。
「うん」
それだけ答えて、ひき肉をこねた。必要以上に、口をききたくなかった。
チーズを包んで、形を整えて、フライパンに並べる。焼ける音と匂いが台所に広がった。赤だしは、豆腐を多めに入れて、味噌を溶いた。
「ソース、多めにかけて」
焼き上がったハンバーグを皿に移していると、テーブルの向こうから声が飛んだ。ソースをかけ、もう一回り足してから、皿を運んだ。悠斗のそばへ寄る時には、手首を体のほうへ引き寄せてしまった。
悠斗はハンバーグを切り分けながら、テレビに目を向けたまま言った。
「母さん帰ってきたら、もう来なくなるんだろ」
私は答えなかった。
「まあ、困ったら呼ぶから」
流しに立って食器を洗いながら、私は何も言わなかった。また母に言えば来させられると、悠斗は思っているのだろう。皿を拭く父の横顔を見て、私は息を吐いた。次まで引き受けたわけではない。
その夜、帰ってから、また連絡が来た。明日の夕食の指定だった。今度は、朝の分まで書いてある。
三日目。最後の日だった。
朝は蓮、夕方は父が付き添った。目玉焼きは、昨日より半熟に焼いた。悠斗は何も言わずに食べた。文句がないのが、この家での合格の合図だった。
指定どおりに朝食を作り、夕方には夕食の支度をした。夕食の片付けを終えて帰ろうとした頃、玄関の鍵が開く音がした。
「ただいま。あら、美咲ちゃん。今日もありがとう、助かったわ」
真由美さんが、鞄を置いて台所を覗き込む。片付けを手伝っていた父には少し驚いた顔をしたけれど、すぐ、いつもの笑顔に戻った。
「お帰りなさい」
「悠斗もお世話になったでしょう。三日間、本当にありがとうね」
手首のことは、言わなかった。父にだけは、伝えてある。でも真由美さんにも、母にも、この話は届いていない。
「明日からは、また私が作るから。美咲ちゃんも、やっと休めるね」
「はい」
笑って答えた。休める、という言葉だけが、素直に嬉しかった。父と玄関を出る時、もう次は来ない、と心の中で言った。
家に帰ると、母が「ご苦労さま」と言った。日常が戻ってきただけだった。
そして、土曜日――。
「で、こっちが第一志望の出願日程」
父がスマートフォンの画面をこちらへ向けた。テーブルの上には、私が渡した進路関係のプリントの束も広げられている。
土曜日の昼過ぎ。家から二駅離れたファミリーレストランの隅で、私と父と弟はテーブルを囲んでいた。休日の店内は家族連れで賑わっていて、私たちの声は、その騒ぎに紛れる。
家で話さないのは、母に聞かれないためだ。最初は少し大げさな気もした。でも、母と悠斗のお母さんは何でも話す。私が女子校を希望していたことだって、いつの間にか悠斗のお母さんへ伝わっていた。
大学について、同じ失敗をするつもりはない。
画面の中の日程は、まだ遠い未来の数字の並びに見えた。でも、これは私の出願だ。誰かに決められた予定じゃない。
「共通テストの結果次第で変更する可能性はあるけど、今のところはここで行きたい」
父の指が、画面の上の日程を一つずつ追った。
「先生は?」
「この前の面談では、問題ないって」
弟がポテトをつまみながら口を挟んだ。
「母さん、三者面談あったの、まだ知らないの?」
「たぶん。学校からの紙、見せてないからね」
進路関係のプリントは、私が受け取って父に渡した。プリントの束の一番上には、この前の三者面談の案内がある。高校生にもなれば、学校からの連絡がすべて母親を経由するわけではない。必要なものは、自分で管理できる。
父は資料を確認してから頷いた。
「受験料の振り込みも、出願も、一緒に確認しよう」
「うん」
「学費のことは気にするな。ちゃんと父さんが出す」
「でも、一人暮らしになったら結構かかるでしょ。家賃とか、食費とか。大学入ったらバイトするよ。自分のものくらいは、自分で――」
「それは受かってから考えればいい」
父が私の言葉を遮った。強い言い方ではなかった。
「無理して働く必要はない。ただ、やってみたいなら止めない。まずは受験だ」
入学金のことや、引っ越しの費用のことも、父はもう計算に入れているようだった。聞けば、たぶん具体的な数字まで出てくる。だから聞かなかった。
「……うん」
父は私に「こうしろ」とは言わない。意見は言う。心配もする。けれど最後には、私が決めるものとして話をする。それだけのことが、母と話す時にはどうしてあんなに難しいのだろう。
弟がポテトの最後の一本を取った。
「俺もそっち方面にしようかな」
「大学?」
「まだ分かんないけど。来年だし」
「自分の行きたいところにしなよ」
「分かってるって。姉ちゃんみたいに逃げる必要ないし」
悪気のない言葉だった。私は少し考えてから笑った。
「そうだね」
蓮はもう、興味をなくしたようにスマホを取り出していた。この家で、行きたい場所をそのまま口に出せるのは、蓮だけだ。
父がスマートフォンとプリントを置いて、静かに切り出した。
「父さんも、いずれお前のいる方に転属願いを出すつもりだ」
「え?」
驚いて父を見た。
「今すぐにってわけじゃない。何年かかるかも分からない。ただ、可能性は探っておきたい」
「お母さんは?」
尋ねると、父は少し間を置いてから答えた。
「連れていくつもりはない」
その一言で、意味が分かった。
私は水のグラスに手を伸ばして、一口飲んだ。何を言えばいいのか、分からなかった。
「それって……」
「動くのは来年だ。蓮の進学先が決まって、お前たち二人がこの街を離れてから、まとめて」
弟を見た。驚いた様子はない。ポテトの油で光った指を、紙ナプキンで拭っていた。
「知ってたの?」
「なんとなく」
父はドリンクバーのカップに口をつけてから、静かに言った。
「いずれ、離婚するつもりだ。今はまだ、母さんには言うな」
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