教室
父の「離婚」という言葉は、週が明けても耳に残っていた。それでも、学校に来れば、教室はいつもと何も変わらなかった。
休み時間の教室は、いつも同じ形をしていた。
真ん中あたりに、机を寄せ合った輪がある。中心にいるのは悠斗で、誰かが何か言えば、最後に悠斗がまとめる。それがこのクラスの、当たり前の光景だった。
輪から外れている子が、一人いた。
窓際の席で、いつも一人で座っている。昼休みも、誰かの輪に入るわけでもなく、スマートフォンを見ているか、教科書を開いている。最初から一人だったわけじゃない。班決めのたびに少しずつ端へ追いやられて、気づけば、誘うほうが気を遣う、という扱いになっていた。
その日も、輪の中で誰かが言った。
「この前の班決めさ、あいつ、結局こっちの班に入りたがってたじゃん」
「来られても困るけど」
笑いが起きる。誰かが半分だけ、フォローするみたいに言った。
「でもさ、誘えばよくない?」
悠斗は止めもせず、かといって同調もせず、仲裁するみたいな顔で言った。
「誘っても断るだろ、あいつ。空気読めないとこあるから。悪気はないんだろうけど」
その一言で、話は決着したみたいになった。あの子は「空気の読めない子」で、誘っても無駄で、輪の外にいるのが当然で、誰も悪くない。そういう結論だった。
決めたのは悠斗なのに、悠斗は誰よりも公平な人、ということになっている。
窓際の席では、その子がスマートフォンを見ているふりをして、時々、輪のほうをちらりと見た。直接何かされるわけじゃない。呼ばれないだけ。話に入れてもらえないだけ。でも、それが毎日続いている。
悠斗は何もしていない、と言うんだろう。実際、手を出しているわけでも、悪口を言っているわけでもない。ただ一言、空気の行き先を決めるだけだ。先生が教室を通りかかっても、仲のいい生徒たちの談笑にしか見えない。悠斗は先生にも、感じのいい生徒だった。
移動教室の班も、体育のペアも、最後はいつもあの子が余った。余った子は、先生に「じゃあ、そこの班に入れてあげて」と言われる。それが親切の形をして、あの子を「入れてもらう側」に固定していく。誰も意地悪をしているつもりはない。だから、誰も止めない。
そういう光景を、私は何日も見ていた。昼休みに一人で食べる姿を。移動教室へ一人で歩く背中を。見ているだけで、何もしなかった日もあった。
私が声をかけるまでに時間がかかったのは、悠斗の輪に逆らう形になるからだ。教室の中で悠斗に逆らうのは、家で母に逆らうのとは、また違う怖さがあった。
掃除の時間、その子は一人で教室の後ろのゴミを集めていた。
机の間を回る時も、その子は誰とも話さず、床ばかり見ていた。声をかければ済むはずなのに、クラスの誰も近づかない。近づく空気が、もう作られていない。
私は少し離れた席から、それを見ていた。
私のことなら、何も言えない。母に言い返すことも、悠斗に逆らうことも、結局できずにきた。「大げさだ」と言われるのが怖くて、言いかけた言葉を、いつも飲み込んできた。
それなのに、他人のことだと、最後には体が動いた。
私は立ち上がって、ゴミ袋を持った。
「そっちの袋、持つよ」
その子は驚いた顔をした。
「……え。いいよ、別に」
「二人でやったほうが早いから」
大した会話じゃなかった。ゴミをまとめながら、明日の持ち物とか、次のテストの範囲とか、つまらない話をした。最初は短く答えるだけだったその子が、途中から、自分からも話し始めた。
「……ありがと」
帰り際、その子が小さく言った。私は「うん」とだけ答えた。礼を言われるようなことをした覚えはなかった。でも、この子にとっては、声をかけられること自体が珍しくなっていたんだと思う。
それだけのことだった。それだけのことが、この教室では起きなくなっていた。
次の休み時間、私はその子の席の近くで教科書を開いた。輪のほうから、何人かがこちらを見た。悠斗も見ていた。
放課後、輪の近くを通りかかった時、私は足を止めた。
「悠斗」
「なに」
「もうやめなよ。ああいう言い方」
人前だった。はっきり言うつもりで言った。輪の中の何人かが、こちらを見た。一人、目を逸らした子がいた。
悠斗は一瞬だけ目を細めて、すぐに笑った。
「なにマジになってんの。冗談だろ」
周囲が笑った。場が和んだ、という顔で、みんな笑った。その瞬間、真面目に止めた私のほうが、大げさな人間になった。
その子は、自分の席で俯いていた。
帰りの廊下で、悠斗が追いついてきた。
「さっきの、本気で言った?」
軽い声だった。怒っているわけでもない。確認するだけ、という顔だった。
「本気だよ」
「大げさだな。別に俺、何もしてないだろ」
「何もしてない、って言い方で済ませてるだけだよ」
悠斗は少し笑って、肩をすくめた。
「お前、昔からああいうの、放っておけないんだな」
悪かった、とだけ言えば済む話だった。でも悠斗は、最後まで「冗談」で押し通した。謝る様子は、欠片もなかった。私の言ったことは、私の性格の問題にされて終わった。
私は引かなかった。
自分のことでは、あんなに簡単に折れたのに。他人のことだと、どうしてか引けなかった。
家に帰る道で、さっきの自分の声を思い出した。震えてはいなかった。悠斗の前で、はっきり「やめなよ」と言えた。
あれが自分のことだったら、言えなかったと思う。言った瞬間に「大げさだ」と笑われて、自分のほうがおかしいみたいになる。それが怖くて、私はいつも飲み込んできた。実際、今日だってそうなった。笑われて、大げさな人間になった。
でも、今日は引かずに済んだ。守る相手が、私じゃなかったからだ。
情けない話だと思う。でも、言えたという事実だけは残った。
翌日、悠斗は何事もなかったように、普通に私へ話しかけてきた。昨日のことを根に持つ様子もない。それが一番、悠斗らしかった。
休み時間に、その子が輪の端にいる子と短く言葉を交わしているのを見た。大した変化じゃない。でも、昨日まで、あの子と話す子は教室にいなかった。
この件は、学校の中だけで終わった。母の耳に入ることも、誰かに広まることもなかった。
帰宅して、母に「今日、学校どうだった?」と聞かれても、答えることは何もなかった。
学校での出来事が、学校の中で閉じる。それだけのことが、私には少しだけ救いだった。
家の中のことは学校に持ち込めない。学校のことも、家には持ち帰らない。私の世界は、そうやって区切ることで、なんとか保たれていた。




