手首
悠斗の手が、私の手首を掴んだ。
「俺が困ってる時は、ちゃんと来てくれるんだな」
笑いながら言うわりに、指の力は強かった。
振りほどこうとすると、さらに力がこもる。
「痛いんだけど」
「大袈裟」
悠斗はすぐに手を離し、何事もなかったような顔で箸を手に取った。
赤くなった手首の跡を、私は袖の中に隠した。
今度こそ、私はいなくなる。
その言葉だけを、心の中で繰り返した。
夕食は、静かだった。悠斗はテレビを見ながら食べた。私はテーブルには着かず、台所で自分の分を少しだけつまんだ。座って向かい合う気には、どうしてもなれなかった。
「肉じゃが、ちょっと甘い」
「……そう」
「母さんのと違う」
「そりゃそうでしょ」
「まあ、食えるけど」
壁の時計を見た。あと少しで食べ終わるはずだった。片付けに三十分。それで、今日は終わる。そう数えていないと、この台所に立っている時間が、果てしなく長く感じた。
箸を置く音がした。食べ終わったらしい。
「ごちそうさまも、ないんだ」
小さい声で言ったつもりだったけれど、聞こえたらしい。
「あ? ごちそうさま」
投げるように言って、悠斗はソファに移動した。それから、明日の話を始めた。
「明日も、この時間でいいから」
「……うん」
「あと、朝はパンでいいよ。母さんいないし」
「朝も?」
「昼は学校だろ。だから朝と夜。明後日も同じで。母さん、帰ってくるの夜遅いし」
私の予定は、聞かれなかった。聞かれるまでもなく、私が合わせるものだと思われていた。三日間の私の朝と夕方が、この数秒で全部決まった。
後片付けも、私の仕事だった。皿を洗って、拭いて、棚に戻す。残った肉じゃがはタッパーに移して、冷蔵庫に入れた。流しを洗い終わるころには、リビングからはテレビの音と、悠斗の笑い声が聞こえていた。台所の電気を消して、玄関で靴を履くとき、袖が手首に触れて、少し痛んだ。
「帰るね」
返事はなかった。見送りもないまま、私は芹沢家を出た。
夜の道は静かだった。家までの数分、手首の跡がじんじんと痛んだ。袖を引っ張って、手首を隠したまま歩いた。後ろは振り返らなかった。振り返れば、あの家の明かりが見える気がした。
途中の公園の前を通った。街灯の下に、ブランコが見えた。小学生のころ、ここで背中を押されて転んだ。あのころから、何も変わっていない。変わらないまま、何年も過ぎた。けれど、私だけはもうすぐいなくなる。そのことだけを思って、足を速めた。
家に着いて、玄関の明かりを見たとき、少しだけほっとした。同時に、母の顔が浮かんだ。
母には、何も言わない。
言えば、返ってくる言葉は分かっている。「悠斗くん、甘えてたのね」「美咲が来てくれて、嬉しかったのね」。私の手首の跡は、母の前では、きっと微笑ましい話になる。そうなるくらいなら、最初から言わないほうがましだった。
夕食はもう済んでいて、食卓は片付いていた。母はリビングでテレビを見ていた。
「おかえり。どうだった?」
「……普通」
「悠斗くん、喜んでた?」
「……うん」
嘘ではなかったのかもしれない。悠斗は、自分の思いどおりになったとき、いつも機嫌がいい。
「でしょ? よかったじゃない」
「あんたの分、残してあるから。温めて食べなさい」
「……うん」
「明日は朝も行くんでしょう? 真由美さんから聞いたわ」
朝の分まで、もう話が通っていた。私が頷くと、母は満足そうに言った。
「偉いわね」
「真由美さんね、出張先で美味しいもの食べてくるんですって。美咲にもお土産頼んどいて、って言っといたわよ」
母はテレビに顔を戻した。ちょうど料理の番組で、画面の中の人が鍋を振っていた。私は袖口を押さえたまま、母の横を通って台所へ行った。
家族が先に食べた夕食の残りを、私は一人で温め直して食べた。芹沢家でつまんだ分で、あまりお腹は空いていなかった。それでも、自分の家の食卓で食べるご飯は、少しだけ落ち着いた。
風呂場で袖をまくると、手首に指の形の跡が残っていた。湯に浸かると、そこだけ少ししみた。写真を撮る、という考えが一瞬よぎったけれど、やめた。誰に見せるためでもない。私が覚えていればいい。
父には、伝えた。自室に戻って、スマホを手に取る。文章を打っては消し、打っては消した。短くしようとすると、かえって大げさになる気がした。結局、そのまま送った。
『今日、悠斗に手首を掴まれた。痛かった。跡が残っている』
送信した文の下に、既読の印がついた。削除するにはもう遅い。私はスマホを膝に置き、袖から手首を出した。赤い跡は、まだそこにあった。
返信は、すぐに来た。
『分かった。明日からは行かなくていい。断る話は父さんがする』
『母さんには、言ってない。今は言わないでほしい』
送ってから、もう一通打った。父が母に話せば、どうして先に言わなかったのかと聞かれる。真由美さんにまで話が回って、また私が説明することになる。そのやり取りを、今夜はしたくなかった。
『あと二日だから、終わらせたい』
今度の返事には、少し時間がかかった。
『母さんには今は言わない。ただ、一人では行かせられない。朝は蓮に一緒に行ってもらう。夜は父さんが仕事を切り上げる』
『父さんや蓮を帰らせようとしたら、お前も一緒に帰れ。二日を待たなくても、途中でやめていい』
父の返事を、二度読んだ。私が嫌だったことを、父は軽くしなかった。明日も行くのなら一人にはしない、と言ってくれた。
『分かった。ありがとう』
私はスマホを置いて、机の前に座った。引き出しの封筒は、そのままにしておいた。計画のことを読み返すより、今日は明日の予習を済ませて眠りたかった。明日の予習のノートを開いた。
明日の段取りだけ、頭の中で決めた。朝は、いつもより一時間早く起きる。蓮とパンを買って芹沢家に寄り、それから学校へ行く。夕方は父が帰ってから、一緒に行く。献立は先に決めておいて、買い物で迷わない。作って、並べて、片付けて、帰る。長くいるほど、面倒が増える。あの家で過ごす時間を、一分でも短くする。それが、今の私にできる抵抗だった。
アラームを、いつもより一時間早い時刻に合わせた。これも、あと二日だけだ。そう思って目を閉じようとした、そのときだった。
スマホが震えた。
画面には、悠斗の名前があった。
『明日はハンバーグがいい。あと、味噌汁は赤だしで』
当然のように、献立の指定だった。今日の夕食の礼も、手首のことも、何もなかった。
返事を打とうとして、私の手が止まった。




