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【連載版】あなたたちから、離れたい  作者: あずきまんま


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3/4

手首

 悠斗の手が、私の手首を掴んだ。


「俺が困ってる時は、ちゃんと来てくれるんだな」


 笑いながら言うわりに、指の力は強かった。


 振りほどこうとすると、さらに力がこもる。


「痛いんだけど」


「大袈裟」


 悠斗はすぐに手を離し、何事もなかったような顔で箸を手に取った。


 赤くなった手首の跡を、私は袖の中に隠した。


 今度こそ、私はいなくなる。


 その言葉だけを、心の中で繰り返した。


 夕食は、静かだった。悠斗はテレビを見ながら食べた。私はテーブルには着かず、台所で自分の分を少しだけつまんだ。座って向かい合う気には、どうしてもなれなかった。


「肉じゃが、ちょっと甘い」


「……そう」


「母さんのと違う」


「そりゃそうでしょ」


「まあ、食えるけど」


 壁の時計を見た。あと少しで食べ終わるはずだった。片付けに三十分。それで、今日は終わる。そう数えていないと、この台所に立っている時間が、果てしなく長く感じた。


 箸を置く音がした。食べ終わったらしい。


「ごちそうさまも、ないんだ」


 小さい声で言ったつもりだったけれど、聞こえたらしい。


「あ? ごちそうさま」


 投げるように言って、悠斗はソファに移動した。それから、明日の話を始めた。


「明日も、この時間でいいから」


「……うん」


「あと、朝はパンでいいよ。母さんいないし」


「朝も?」


「昼は学校だろ。だから朝と夜。明後日も同じで。母さん、帰ってくるの夜遅いし」


 私の予定は、聞かれなかった。聞かれるまでもなく、私が合わせるものだと思われていた。三日間の私の朝と夕方が、この数秒で全部決まった。


 後片付けも、私の仕事だった。皿を洗って、拭いて、棚に戻す。残った肉じゃがはタッパーに移して、冷蔵庫に入れた。流しを洗い終わるころには、リビングからはテレビの音と、悠斗の笑い声が聞こえていた。台所の電気を消して、玄関で靴を履くとき、袖が手首に触れて、少し痛んだ。


「帰るね」


 返事はなかった。見送りもないまま、私は芹沢家を出た。


 夜の道は静かだった。家までの数分、手首の跡がじんじんと痛んだ。袖を引っ張って、手首を隠したまま歩いた。後ろは振り返らなかった。振り返れば、あの家の明かりが見える気がした。


 途中の公園の前を通った。街灯の下に、ブランコが見えた。小学生のころ、ここで背中を押されて転んだ。あのころから、何も変わっていない。変わらないまま、何年も過ぎた。けれど、私だけはもうすぐいなくなる。そのことだけを思って、足を速めた。


 家に着いて、玄関の明かりを見たとき、少しだけほっとした。同時に、母の顔が浮かんだ。


 母には、何も言わない。


 言えば、返ってくる言葉は分かっている。「悠斗くん、甘えてたのね」「美咲が来てくれて、嬉しかったのね」。私の手首の跡は、母の前では、きっと微笑ましい話になる。そうなるくらいなら、最初から言わないほうがましだった。


 夕食はもう済んでいて、食卓は片付いていた。母はリビングでテレビを見ていた。


「おかえり。どうだった?」


「……普通」


「悠斗くん、喜んでた?」


「……うん」


 嘘ではなかったのかもしれない。悠斗は、自分の思いどおりになったとき、いつも機嫌がいい。


「でしょ? よかったじゃない」


「あんたの分、残してあるから。温めて食べなさい」


「……うん」


「明日は朝も行くんでしょう? 真由美さんから聞いたわ」


 朝の分まで、もう話が通っていた。私が頷くと、母は満足そうに言った。


「偉いわね」


「真由美さんね、出張先で美味しいもの食べてくるんですって。美咲にもお土産頼んどいて、って言っといたわよ」


 母はテレビに顔を戻した。ちょうど料理の番組で、画面の中の人が鍋を振っていた。私は袖口を押さえたまま、母の横を通って台所へ行った。


 家族が先に食べた夕食の残りを、私は一人で温め直して食べた。芹沢家でつまんだ分で、あまりお腹は空いていなかった。それでも、自分の家の食卓で食べるご飯は、少しだけ落ち着いた。


 風呂場で袖をまくると、手首に指の形の跡が残っていた。湯に浸かると、そこだけ少ししみた。写真を撮る、という考えが一瞬よぎったけれど、やめた。誰に見せるためでもない。私が覚えていればいい。


 父には、伝えた。自室に戻って、スマホを手に取る。文章を打っては消し、打っては消した。短くしようとすると、かえって大げさになる気がした。結局、そのまま送った。


『今日、悠斗に手首を掴まれた。痛かった。跡が残っている』


 送信した文の下に、既読の印がついた。削除するにはもう遅い。私はスマホを膝に置き、袖から手首を出した。赤い跡は、まだそこにあった。


 返信は、すぐに来た。


『分かった。明日からは行かなくていい。断る話は父さんがする』


『母さんには、言ってない。今は言わないでほしい』


 送ってから、もう一通打った。父が母に話せば、どうして先に言わなかったのかと聞かれる。真由美さんにまで話が回って、また私が説明することになる。そのやり取りを、今夜はしたくなかった。


『あと二日だから、終わらせたい』


 今度の返事には、少し時間がかかった。


『母さんには今は言わない。ただ、一人では行かせられない。朝は蓮に一緒に行ってもらう。夜は父さんが仕事を切り上げる』


『父さんや蓮を帰らせようとしたら、お前も一緒に帰れ。二日を待たなくても、途中でやめていい』


 父の返事を、二度読んだ。私が嫌だったことを、父は軽くしなかった。明日も行くのなら一人にはしない、と言ってくれた。


『分かった。ありがとう』


 私はスマホを置いて、机の前に座った。引き出しの封筒は、そのままにしておいた。計画のことを読み返すより、今日は明日の予習を済ませて眠りたかった。明日の予習のノートを開いた。


 明日の段取りだけ、頭の中で決めた。朝は、いつもより一時間早く起きる。蓮とパンを買って芹沢家に寄り、それから学校へ行く。夕方は父が帰ってから、一緒に行く。献立は先に決めておいて、買い物で迷わない。作って、並べて、片付けて、帰る。長くいるほど、面倒が増える。あの家で過ごす時間を、一分でも短くする。それが、今の私にできる抵抗だった。


 アラームを、いつもより一時間早い時刻に合わせた。これも、あと二日だけだ。そう思って目を閉じようとした、そのときだった。


 スマホが震えた。


 画面には、悠斗の名前があった。


『明日はハンバーグがいい。あと、味噌汁は赤だしで』


 当然のように、献立の指定だった。今日の夕食の礼も、手首のことも、何もなかった。


 返事を打とうとして、私の手が止まった。

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