断れない
「あ、おはよう!」
角を曲がったところで声をかけられた。悠斗のお母さん、真由美さんだった。出張の荷物らしいキャリーケースを引いて、駅のほうへ急ぐところだったらしい。
母とは学生時代からの親友で、今も頻繁に互いの家を行き来している。家が近いこともあって、私も小さいころからよく知っている。
「おはようございます」
「聞いたよー。ご飯作りに来てくれるんだって? ごめんね、受験で忙しいのに。助かるわ」
笑顔で両手を合わせられ、言葉に詰まった。
「あ……」
「悠斗も喜ぶと思う。冷蔵庫の中、好きに使っていいからね。あの子、魚とピーマンは食べないから、そこだけ気をつけてくれれば」
「はい……」
「同じ大学だもんね。入学してからも、よろしくね」
悪意はなかった。だからこそ、言えなかった。この人は、私と悠斗が同じ大学に行くものだと信じて、安心して笑っている。
返事をしてしまった。
「いけない、電車が」
真由美さんは時計を見るなりそう言って、駅のほうへ小走りに去っていった。別れてから、自己嫌悪で足取りが重くなる。
あそこで「聞いてません」と言えばよかった。
「私は引き受けていません」と言えば、それで済んだ。
けれど、何も知らずに礼を言ってくる大人を前にすると、中学生のころから染みついた遠慮が先に立ってしまう。
駅へ向かう人波の向こうへ、キャリーケースが消えていく。追いかければ、まだ間に合う。信号が変わるまで、その後ろ姿を見ていた。青になって、私は学校へ向かう側の横断歩道を渡った。
学校では、いつもどおり授業を受けた。けれどノートを取りながらも、頭の隅では三日間の献立のことがぐるぐるしていた。初日は何を作るか。冷蔵庫の中身も見ていないのに、考えるだけ無駄だった。放課後、クラスメイトに声をかけられた。
「一緒に帰ろう」
「ごめん、用事があるから」
そう言って断った。用事、という言い方をした自分に、また少し嫌気がさした。
私はスーパーに寄ってから悠斗の家へ向かった。肉のパックを二つ手に取り、安いほうを戻した。三日間で使い切れるだろうか。冷蔵庫の中を見てから来ればよかった。買い物かごを腕にかけ直し、玉ねぎを一つ足した。
魚売り場には、切り身が並んでいた。隣のピーマンも、今日は買わない。レジの前で財布を開き、レシートは捨てずにしまった。代金を誰に言えばいいのかも、まだ聞いていなかった。
合鍵は預かっていない。インターホンを押すと、しばらくして悠斗が出てきた。
「遅くない?」
開口一番、それだった。
「スーパー寄ってたから」
「母さんから聞いた。三日間来るんだろ?」
「おばさんに頼まれたから」
正確には頼まれてすらいない。
母同士で勝手に決まっただけだ。
けれど説明する気にはならなかった。
「何作るの?」
「冷蔵庫見てから決める」
「俺、魚嫌いだから」
「知ってる」
「あとピーマンも」
「それも知ってる」
「じゃ、よろしく」
悠斗は当然のようにリビングへ戻った。
ありがとう、はなかった。
別に感謝されたくて来たわけではない。それでも腹は立つ。
台所に立ちながら、私は小学生のころのことを思い出した。
両家で公園へ行った日、親たちから少し離れたところで、悠斗に背中を押された。
転んで膝を擦りむいた私を見て、悠斗は笑った。
「どんくさ」
母に言うと、
「遊んでてぶつかっただけじゃないの?」
と言われた。
別の日には、腕を強くつねられた。
その時は弟が見ていた。
弟が、大人たちに言ってくれた。
「悠斗が姉ちゃんつねった」
なのに母は、悠斗本人に聞いて、
「ふざけてただけ」
という言葉のほうを信じた。最後には、こうまとめた。
「男の子って、力の加減が分からないから」
父だけは違った。
私の腕に残った跡を見て、悠斗の家にも話をした。母にも、何度も言った。
「娘が嫌だったと言っているなら、まずそこを聞け」
それでも母の中では、悠斗はずっと「ちょっとやんちゃだけどいい子」のままだった。
外では本当にいい子なのだ。
先生には礼儀正しく、近所の人にも愛想がいい。
困っている人がいれば、人目のあるところでは進んで手伝う。
だから、私が嫌がれば嫌がるほど、母には私のほうが意地を張っているように見えるらしい。
冷蔵庫を開けると、真由美さんの字のメモが、中の食材に貼ってあった。
「美咲ちゃん、ありがとう」
私はそのメモを剥がさずに、食材を取り出した。鶏肉、ニンジン、玉ねぎ、卵。スーパーで買ってきたものと合わせれば、初日は肉じゃがと味噌汁とサラダで足りる。献立を決めてから鍋を出した。鍋の場所も、調味料の並びも、だいたい覚えている。覚えていること自体が、少し悔しかった。
リビングでは、悠斗がテレビをつけたまま、スマホを見ていた。音だけが台所まで流れてくる。手伝う気配は、最初からなかった。
「なあ」
リビングから声が飛んできた。
「何?」
「大学のオリエンテーションって、四月の最初だよな」
包丁を動かしていた手を止める。
「大学によるんじゃない?」
「まあ、そうか。俺ら同じとこだし、入学式も一緒に行けばよくね?」
私はニンジンを切る作業に戻った。
「まだ受かってないでしょ」
「受かるだろ。お前も判定悪くないって言ってたじゃん」
それを言ったのは母だ。
私が母に伝えている大学。
悠斗が第一志望にしている大学。
そして、私が受験するつもりのない大学。
「一人暮らしするなら近いところにしろよ。俺もその辺で探すから」
「なんで?」
思わず聞き返した。
悠斗が台所を覗き込む。
「なんでって、近いほうが楽じゃん」
「何が?」
「いろいろ」
本人にも説明できないらしい。
それでも、私が大学でもそばにいることだけは疑っていない。
昔からそうだった。
同じ小学校。
同じ中学校。
そして、同じ高校。
だから大学も同じで、その先もずっと続くと思っている。
母も同じだ。
二人とも、私がそこからいなくなる可能性を考えていない。
「焦げてる」
悠斗に言われて、慌てて鍋へ目を戻した。
「焦げてない」
少し焼き色が濃くなっただけだ。
私は火を弱めた。
あと数か月。
そう思えば、この三日くらいは耐えられる。
肉じゃがの味を確かめて、火を止めた。味噌汁とサラダを並べ、ご飯をよそう。三日間のうちの、一日目。これをあと二日繰り返すのだと思うと、台所の時計の音がやけに大きく聞こえた。
料理が並んだ頃、悠斗がテーブルに着いた。皿を置こうとした私の手首めがけて、悠斗の手が不意に伸びてきた。




