決定事項
「美咲、明日から三日間、学校が終わったら悠斗くんのところに行って、ご飯を作ってあげてね」
帰宅してすぐ、母にそう言われた。
靴を脱いでいた私は、そのままの姿勢で顔だけを上げた。
「……何の話?」
「悠斗くんのお母さん、明日から出張なんだって。三日も家を空けるから、ご飯が心配だって言うのよ。だから、美咲が作りに行けばいいじゃないって」
母は夕食の支度をしながら、今日の献立でも伝えるような調子で言った。
私は一度も頼まれていない。
それどころか、今初めて聞いた。
「行かないよ」
「え?」
「だから、行かない。本人が自分でどうにかすればいいでしょ」
悠斗は私と同じ高校三年生だ。料理ができなくても、弁当を買うことくらいできる。コンビニだってスーパーだって近所にある。
母は包丁を止め、困ったように笑った。
「三日くらいいいじゃない。幼馴染なんだし」
「幼馴染だったら、なんで私がご飯を作らなきゃいけないの?」
「そんな言い方しなくても」
「真由美さんには、もう言ったの?」
「ええ、さっき電話で。助かるって、喜んでたわよ」
先に話が済んでいた。
私への確認は、最後だった。いや、確認ですらなかった。これは決定事項の通達だった。
「私に聞く前に決めたの?」
「だって、あんたが行ってくれるに決まってるじゃない」
悪びれた様子はなかった。本気でそう思っている顔だった。
「私、受験生なんだけど」
「三日くらい大丈夫よ。ずっと勉強じゃ疲れちゃうし、気分転換にもなるでしょう」
明日の放課後は、図書室に残るつもりだった。まだ解けていない問題が、参考書に三つある。母は、私の返事を待たずにまな板へ向き直った。
リビングで参考書を広げていた弟が顔を上げた。
「俺も意味わかんない。なんで姉ちゃんが行くの? 食事くらい自分でどうにかできるでしょ」
「ほら、あんたは口を出さないの」
「だって姉ちゃん受験生じゃん。あいつも受験生だけど」
「だからこそよ。お互い大変な時期なんだから助け合えばいいでしょう?」
「あいつ、家事なんか絶対しないじゃん」
「男の子は、そういうのは苦手なのよ」
蓮はそれきり黙った。
助け合う。
便利な言葉だと思う。
私が悠斗に何かをしてもらった記憶はまったくないのに、私が何かをする時だけ、母はよくその言葉を使う。
「嫌だって言ってるんだけど」
「もう。そんなこと言わないで。将来のためにもなるでしょ?」
「何の将来?」
母は待っていましたとばかりに笑った。
「ほら! もしかしたら悠斗くんと結婚するかもだしー!」
「は? ありえないんだけど」
反射的に出た言葉だった。
「だよな」
弟が小さく呟く。
けれど母は、私の返事を拒絶とは受け取らなかった。
「またまた、照れちゃってー」
私は何も言わなかった。
昔から、母は私の「嫌」をそのまま受け取らない。
嫌いと言えば、照れている。
怖いと言えば、考えすぎ。
やめてほしいと言えば、悪気はない。
中学のときもそうだった。修学旅行の班決めで、悠斗と同じ班は嫌だと言ったことがある。母は笑って言った。
「仲がいいから、先生が気を遣ってくれたのね」
言っても、届くまでに別の意味に変わる。それは今も同じだった。
「とにかく、私は行かないから」
それだけ言って、自分の部屋へ向かった。
「困った子ねえ」
背後で、母の声がした。
どちらが。
口に出す代わりに、階段を上った。
夕食に呼ばれて降りると、その話はもう出なかった。母は真由美さんから聞いた出張先の話ばかりして、私の分のおかずをよそいながら言った。
「明日、よろしくね」
私は箸を置きかけて、父の席を見た。茶碗は伏せたままだった。
「さっき、行かないって言ったよね」
「ほら、お味噌汁冷めるわよ」
母は私の椀を少し手前へ寄せた。湯気が顔にかかった。蓮が何か言おうとすると、母はテレビの音が聞こえないと言って、リモコンを取った。煮物には、まだほとんど口をつけていなかった。母の話が途切れるのを待っても、食事が終わるまで私の予定は聞かれなかった。
父は今夜も帰りが遅い。明日の朝までに、私一人で決めるしかなかった。
自室のドアを閉めて、机の前に座った。学校でもらった進路関係のプリントが、置きっぱなしになっていた。私はそれを裏返して、引き出しの一番奥にしまった。その奥には、母には見せていない封筒がある。母に見せるものと、見せないもの。私の机の中には、その境目がある。
窓の外は、もう暗かった。三日間。指折り数えた。明日、明後日、その次の日。真由美さんが帰ってくるのは、三日目の夜だという。
夕方の芹沢家を想像した。台所に立つ私と、リビングで待つ悠斗。開口一番に文句を言いそうな顔まで、はっきり思い浮かんだ。行けば、そういう三日間になる。それだけは分かっていた。
翌朝には、断るつもりだった。
母が勝手に引き受けたのだから、母が断ればいい。「私は行きません」と、今日より短く言い切る。
それでも母が自分で言えと言うなら、悠斗のお母さんに直接謝ろう。「すみません、母が勝手に約束したんです。私は行けません」。そう言えば、真由美さんは分かってくれるはずだ。言い方を何度か、心の中で繰り返した。
翌朝。いつもより少し早く起きて、台所へ行った。今度こそ、母の前で言い切るつもりだった。
「おはよう。あら、今日は早いのね」
母は上機嫌に朝食の支度をしていた。私が口を開く前に、母は続けた。
「今日からよろしくね。悠斗くん、喜ぶと思うわ」
言いかけた言葉は、そのまま止まった。母の言葉の上から重ねるように言わなければ、この人には届かない。けれど、重ねてまで言い切る勇気は、朝の台所では出てこなかった。
だめだ。母に断らせるのは、無理だ。
真由美さんに直接謝るしかない。そう決めて、鞄を持って玄関に行った。
靴を履いていると、蓮が降りてきた。私の顔を見て、すぐに分かったらしい。
「言えなかったの?」
「……うん」
「だと思った」
蓮は悪びれもせずに言った。それから、少しだけ声を落とした。
「真由美さんち、角曲がってすぐだよ。行くなら今だよ」
分かっている。分かっているから、足が重い。それでも、今日言わなければ、放課後には本当に芹沢家へ行くことになる。私は頷いて、ドアを開けた。
角を曲がる前に、心の中でもう一度だけ言い方を繰り返した。
「あ、おはよう!」
角を曲がったところで声をかけられた。
悠斗のお母さんだった。
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